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法華三部経の要点 ◇◇60
立正佼成会会長 庭野日敬

阿難は後世の仏教徒の恩人

常随の侍者・説法の記憶者

 授学無学人記品に進みます。この品で阿難・羅睺羅をはじめ学・無学のお弟子二千人が授記されますが、「学」というのはまだ学ぶことが残っている人、「無学」というのはもはや学ぶべきことの無くなった一人前の声聞のことです。
 ところで阿難には、われわれ後世の仏教徒が深く感謝しなければならぬ三つの功績があります。
 その第一は、お釈迦さまの晩年の二十数年のあいだ常随の侍者としてお仕えしたことです。それまで二、三の者が侍者となったのですが、あまり思わしくなく、長老たちが最後に阿難に白羽の矢を立てたのでした。
 阿難は純真で優しい性格の人でしたので、心からまめまめしくお仕えしました。お釈迦さまが背痛という持病に悩まされながらも八十歳という高齢まで布教の旅をお続けになったことには、阿難の一分の隙もない忠実なお世話がずいぶん寄与していることは否定できますまい。
 第二には、いつもおそばにいただけに世尊の説法をほとんど残らず聞いており、しかも素晴らしい記憶力でそれを正確に覚えていたことです。ですから、仏滅後にその教えを確かめる大会議が開かれた時、「経」については阿難が誦出者となり「わたしはこのように聞きました」(如是我聞=にょぜがもん)と前置きしてお説法のとおりを述べ、一同が「そのとおりだった」と合点したらそれが正式に認められ、後世にまで伝えられたのです。阿難の功績の最大のものと言えましょう。

女性修行者の道を開いた

 お釈迦さまの養母として赤ちゃんの時からお育てした摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、かねてから世尊のもとで出家したいという望みを持っていましたが、何度お願いしても許されませんでした。しかし、どうしてもその志を捨てることができず、夫の浄飯王が亡くなったのを機に、ビシャリ国におとどまりの世尊のもとへ参って必死に歎願することを決意しました。すると、夫たちの出家によって同じ思いを抱いていた多くの貴族の婦人たちもご一緒したいと言い出しました。
 婦人たちは黒髪をおろして青々と剃り上げ、粗末な衣をまとい、はだしでカピラバスト城を後にしました。夜は野宿する苦しい旅を続けたのち、ようやくビシャリ国の精舎の前にたどりついた時は、立っていられないほど疲れ果てていました。
 知らせを聞いて門前に出て来た阿難は、その決意を聞くとさっそく世尊のもとへ参って代わりにお願いいたしましたが、「女人が厳しい戒律のもとで道を修めるのは非常に難しい。また、男子の修行者たちに悪影響を及ぼす恐れがある」として断固お許しになりません。
 「お言葉を返すようですが、世尊のみ教えは男子だけに門を開かれているのでしょうか」「そうではない。真理というものは、人間界の者にとってはもとより、天上界の者にとっても真理である。ましてや男女の差別などあるはずがない」「それならば、女人の出家をとどめることは不当ではないでしょうか」
 といったやりとりの後、もとより慈悲深いお釈迦さまですから、ついに女人の出家をお認めになりました。阿難こそ真の意味のフェミニストであり、後世の女性にとっても大恩人であるわけです。
 そのような阿難が、なぜ後輩である五百品の大勢の仏弟子たちよりあとに、ここでようやく授記されたのでしょうか。その理由については次回でいろいろと考えてみることにしましょう。


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