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法華三部経の要点 ◇◇59
立正佼成会会長 庭野日敬

われわれはすでに救われているのだ

衣裏繋珠の譬え

 五百品には法華七諭の一つである『衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え』があります。それは、世尊から憍陳如(きょうじんにょ・お釈迦さまの鹿野苑の最初の説法で教化された五比丘の筆頭)に続いて仏となりうる保証を頂いて大歓喜した五百人の阿羅漢たちが、これまでの考えの根本に誤りがあったことを譬え話によって告白するくだりです。こう申し上げるのです。
 「ある貧しい人が親友を頼ってやって来ました。親友は酒さかなを出してもてなしましたので、その人はすっかり酔っぱらって寝込んでしまいました。ところが、その親友は急に公用で長期の出張に出かけなければならなくなり、寝ている友だちを起こすのも気の毒だと思い、計り知れないほどの値打ちのある宝石を着物の裏に縫いつけておきました。
 目が覚めたその人は、親友が長く帰って来ないことを知り、仕方なくそこを立ち去って、あいかわらず食うや食わずの放浪をつづけていました。ずいぶんたってから、その親友とパッタリ出会いました。親友は以前と変わらぬ友の哀れな姿を見て『なんということだ。君が安楽に暮らせるようにと思って着物の裏に高価な宝石を縫いつけておいたのに……』と言いました。
 世尊はこの親友のようなお方でございます。世尊は過去世でまだ菩薩であられました折、わたくしどもに『人間だれにも一様に仏性(計り知れぬほどの値打ちのある宝もの)が具(そな)わっているのだ』と教えてくださったのですが、現世に生まれ変わってからはそのことをすっかり忘れてしまい、ただ煩悩を除くことができただけで、それを悟りだと思い込んでおりました。
 心がすっかり眠りこけていたのでございます。ところが、世尊はいまわたくしどもの目をはっきり覚まさせてくださいました。これからは菩薩としての自覚を持ち、世のため人のために尽くしていくことによって、ついには仏となれることがわかりました。こんなうれしいことはございません」
 こうお礼を申し上げて、この品は終わりとなるわけです。

すでに救われているのだ

 この章でお釈迦さまはなぜ大勢の弟子たちの成仏を保証されたのでしょうか。いや、この五百人の仏弟子をはじめとする千二百人の阿羅漢のみならず、一切の人間にその可能性があることを断言されるのでしょうか。
 まえにもたびたび書いたとおり、すべての人間は宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏と本質的に同じ仏性を平等にもっているからです。仏となる可能性を仏性といいますが、仏性というものは言葉を換えていえば「久遠実成の本仏と同質のいのち」なのです。
 しかし、われわれはその真実をなかなか自覚できません。なぜかといえば、衣食のためにアクセク働き、欲望を追って右往左往しているこの身が自分であり、そういった心が自分そのものだと思い込んでいるからです。ちょうどこの貧しい人が、尊い宝石が縫いつけられた着物を現に着ていながら、それに気づかずにいたのと同じなのです。
 この譬えをとことんつきつめていきますと、「われわれはほんとうはすでに救われているのだ」ということになります。われわれの本質は久遠本仏と同質の自由自在ないのちなのですから、すべての人間がすでに救われているのです。その真実を知らないからこそ、お互いさま苦の人生をさまよっているわけです。
 したがって、救われるのはなにも難しいことではない。「すでに救われているのだ」という真実を心の底から自覚すればいいのです。これが『衣裏繋珠の譬え』の真義であり、五百品の結論でもあるのです。
                                                     

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