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法華三部経の要点 ◇◇31
立正佼成会会長 庭野日敬

人類がほんとうに救われるには

人間性の立て直しこそが鍵

 ハーバード大学のソローキン教授はその名著『人間性の再建』の中でこう言っておられます。
 「世界永遠の平和のためには、人間性を立て直さなければならない」
 まさにそのとおりだと思います。いま世界先進国の首脳たちによって核兵器の削減や、貿易の自由化や、開発途上国への援助等々について毎年のように話し合いが持たれています。たいへん喜ばしいことだと思います。
 しかし、よくよく考えてみますと、そういった「物」や「金」についての相談や約束がいくらできても、肝心の「人間の心」が変わらないかぎり、権力のせめぎ合いや、富の奪い合いなどがやむことはなく、したがってこの地球上から暴力・殺りく・貧困・飢餓という不幸が消え去ることはないでしょう。
 ですから、世界永遠の平和の根本方策はまさしく「心の立て直し」しかなく、それを遂行してこそ人間みんなが幸せになれるのです。

聞き、考え、実践する

 法華経は、全巻その「心の立て直し」の教えにほかならないのですが、譬諭品の「三車火宅」の譬えにはその方策が最も端的に、そしてまとまった形で示されているのです。
 衆生を火の家から脱出させるために、仏さまは「門の外に羊車・鹿車・牛車があるからそれに乗って遊びなさい」と誘いをかけられます。それはつまり「物や金や快楽だけにドップリ漬かっていないで、精神の喜びにも目を向けなさい」という誘いにほかなりません。
 羊車というのは声聞の境地、鹿車というのは縁覚の境地、牛車というのは菩薩の境地なのですが、それだけ聞いたのでは現実離れがしているようで、現代人にとってはなじめないものと思われましょう。
 そうではないのです。声聞というのは、いい本を読んだり、いい話を聞いたりすることなのです。そして、「なるほど」と理解する。感動する。その理解と感動が声聞の境地なのです。
 縁覚というのは、つまり「考えてみる」ことにほかなりません。最近の多くの人たちは氾濫(はんらん)する情報の洪水に押し流されて、自分の頭脳・自分の心で「考える」ことをあまりしなくなっています。どんなにいい本を読み、いい話を聞いても、それについて自分なりに考えをめぐらしてみなければ、けっして「自分のもの」として定着せず、一過性の、ただの情報として右の耳から左の耳へと通過するだけに終わりかねません。
 瞑想(めいそう)とか思索とかいえばいかにも高踏的(こうとうてき)で普通の人間にはできそうにないと感じる人があるかもしれませんが、なにもそう難しく考えることはありません。まず、「これはいったいどんなことかな」と考えてみればいいのです。考えてみて「うーん、そうか」と魂に響くものを覚えたら、それが縁覚の境地であり、それだけ精神的により高くなったわけなのです。
 菩薩というのは、声聞の境地も縁覚の境地も兼ねそなえているうえに、「多くの人々との連帯」を考える境地です。ただ考えるだけでなくそれを実践に移す。実行する。それが菩薩の境地です。
 ですから、声聞といい、縁覚といい、菩薩といっても、けっして現実から遊離したものではありません。人間の心を改造し、人間性の立て直しをするための、順序・次第を踏んだ着実な道程なのです。そして、われわれ一人一人が自らその道程を歩まなければ、人間としてのほんとうの幸福に達することはできず、世界永遠の平和も達成することは不可能なのです。
 譬諭品のここのくだりは、そのように受け取らねばならないのであります。
                                                     

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