法華三部経の要点 ◇◇10
立正佼成会会長 庭野日敬
四十余年には未だ真実を顕さず
究極の真理は妙法蓮華経に
無量義経・説法品の中にどうしても見落としてはならぬ要点があります。それは……
「諸の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず」
とある、この一節の末尾の一句です。「人々の性質や欲望が千差万別であるから、これまでは方便(その人の機根に応じた適切な手段)によってさまざまな説き方をしてきた。それで、この四十年余りの間には、究極の真理をすっかり説き明かすことがなかったのである」とのおおせです。
古来、この「四十余年には云々」の一句が、無量義経が妙法蓮華経の開経であることを決定するポイントの一つとされてきました。と同時に、妙法蓮華経が法の真実の奥の奥(究極の真理)を顕されたお経であることの文証となる重大な一句なのです。
「真実」と「事実」との違い
それならば、これまでお釈迦さまは真実でないことをお説きになったのかといえば、決してそうではありません。
たいていの人が「真実」と「事実」を混同しているようですから、この機会にその違いをハッキリさせておきましょう。
「事実」というのは、現象のうえに現れた客観的なものごとを言います。前回にツルゲーネフがもの乞(ご)いをする男の手を握った話を書きましたが、その「手を握った」ということが「事実」なのです。
それに対して、「真実」というのは、仏法で言えば「究極の真理」のことであり、人間に即して言えば、その人の心の本質である「誠(まこと)」です。「真心(まごころ)」です。
こういった「真実」は目に見えないものですので、心ない人はそれを悟ることができません。たとえば、ツルゲーネフがもの乞いの男と握手したその場を通りかかったある人が「あの汚い手を握るなんて……」と思ったかもしれません。ひとの心の中の「誠」が見えないからです。
もう一つ例を挙げましょう。お釈迦さまがこんな話をなさったことがあります。
――ヒマラヤの山中に寒苦鳥(かんくちょう)という鳥がいる。夜はひどく寒いので、雌の鳥は一晩じゅう「寒苦必死(かんくひっし=寒くて死にそうだ)」と鳴き続ける。雄の鳥はそれに応じて「夜明造巣(やみょうぞうか=夜が明けたら巣を造ろう)」と鳴き続ける。しかし、夜が明け日が差して暖かになると、ついノンビリして巣を造ることを忘れてしまう。そうしてまた夜を迎えると「寒苦必死」「夜明造巣」と鳴き続けるのだ――。
これはお釈迦さま得意の譬え話で「事実」ではありません。しかしわれわれはこの話を聞くと、われわれ凡夫の人生に対する態度をつくづくと反省させられます。そうさせるものが、フィクション(物語)の中にある「真実」なのです。
お釈迦さまは、これまでの四十余年間、このような巧みな方便を用いて現実に人々を救ってこられました。舎利弗のような高弟たちも、まだ法の真実のすべてを受け入れるだけの機根が熟していなかったので、お釈迦さまは――説いてもムダであろう、かえって迷いを深めるかもしれない――とお考えになって、さし控えておいでになったのです。
ところが、妙法蓮華経の方便品で、「法を聞いて実践すれば、だれもが私と同じになれる。すべての人を成仏させるために、方便力でもって法を説いてきたのだ」と述べられ、仏の本願をお説きになったので、まず舎利弗が悟りを開き大歓喜したのです。そして寿量品に至ってさらに深遠な真実を悟ることになるのです。
「四十余年には未だ真実を顕さず」にはこのような重大な意味があるわけです。