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経典のことば(59)
立正佼成会会長 庭野日敬

心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ
(法華経・方便品)

法華経の教相の明るさ

 仏教の信仰といえば、たいていの人が陰気くさい、じめじめした感じのものと見ているようです。すくなくとも、キマジメで、しかつめらしいムードのものと感じているようです。
 ところが、法華経の信仰に関するかぎり、そうではないのです。明るくて、はつらつとして、勇気と希望と、歓喜にあふれた信仰なのです。それは、法華経の教相全体を眺めてみればよくわかることでしょう。
 本論の冒頭である方便品には、それまで究極の悟りが開かれないことを悩んでいた舎利弗をはじめとする声聞(しょうもん)の一群がいたり、仏さまが説法なさろうとすると席を立って行ってしまう人たちが出たりしますが、一心に法を求める人たちが残っていますと、だんだんと説きすすめられる「人間には無限の可能性がある。だれでもついには仏になれる」という素晴らしい全的人間肯定の教えに、しだいに心がわき立ってきます。とりわけ、成仏を保証された舎利弗はなおさらです。

つねに新しい喜びを

 そこでその説法の結論としてズバリ仰せられたのが標記の言葉です。
 それ以後の各品のお説法を見ても、すべて、「初めは不幸でも修行すれば必ず幸せになる」という思想につらぬかれています。譬諭品第三の「三車火宅のたとえ」でもそうでしょう。まさに大火に焼かれそうになっていた子供たちが門の外に走り出たために無事に助かり、しかも大白牛車(だいびゃくごしゃ)という素晴らしい車を与えられて喜びます。
 信解品第四の「長者窮子のたとえ」でもそうでしょう。幼い時父の家からさまよい出て五十年もの間、苦しく貧しい放浪の旅を続けていた男が、実は大富豪の実子だと分かって、その無限の富を受け継ぐことになります。
 いろいろ挙げればキリはありませんが、法華経とはそんな教えなのです。ですから、日本国第一の法華経行者であられた日蓮聖人をしのぶお会式も、賑やかで、勇壮で、はつらつたる行事になっているのです。いくたびか生死の間を潜り抜けられた苦難のご一生なのに、その忌日に行うお会式にはいささかの陰気くささもありません。
 わたしどもの会は、もちろん法華経を所依(しょえ)の経典としています。である限り、われわれの信仰は、どんなつらいときにも行くてに明るい希望を持った前向きのものでなくてはなりません。
 法座にしてもそうです。新しく入会する人の大半は何かしら心身に悩みを持った人です。寂しい人です。ですから、初めて法座に出たときは重苦しい感じでいるでしょう。しかし、先輩やリーダーの人がその人の相談をわが事のように共感し、共に泣き、共に考え、あるいは厳しい愛の叱咤や激励が必要なときもありましょうが、その中から一脈の明るい希望の光が見え始めるとき、当人の喜びはたとえようもないものなのです。
 信仰歴の古い人でも同じです。後から入ってきた人がどんなに誤った道を歩み、どんな苦悩の中に沈んでいても、自分も共に苦しみながらその人を立派に立ち直らせたときの喜び、人生これ以上の幸福感はないと思います。そうした歓喜の信仰が法華経の信仰であり、それを端的に示されたのが標記のことばだと受け取ってもいいでしょう。
題字と絵 難波淳郎

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