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経典のことば(49)
立正佼成会会長 庭野日敬

仏世尊は種種の因縁もて殺生を呵責(かしゃく)したまい、離殺を賛歎したもう。乃至蛾子(ぎし)をも尚ことさらに奪命すべからず。いかに況んや人をや。
(十誦律巻四十五)

ことさらに殺生するな

 お釈迦さまが何よりも殺生を戒められたことは今さらいうまでもありません。在家の信仰者に与えられた五戒も、まず不殺生戒から始まっています。
 ですから、標記のことばであらためて注目すべきは、「蟻ですらことさらに殺してはならない」ということでしょう。
 この世のあらゆる生物は、存在する必要があればこそ存在しているのだというのが根本条理です。個々の生物と周囲の生物との関係を狭い眼で見れば、たとえば小鳥が昆虫を捕らえて食うのは残酷なようですけれども、もし小鳥という天敵がいなければ昆虫の数は爆発的に増え、地球上の植物という植物を食い尽くして自らも全滅しなければならないという具合に、大きな眼で見れば、生物全体が食いつ食われつしておのずからなる調和を保っているのです。
 ですから、仏眼(ぶつげん)という広大な眼で一切衆生を眺めておられたお釈迦さまは、殺生についても極端なことはおっしゃらなかったのです。魚や肉類を食べることも禁じてはおられませんでした。ただここにあるようにことさらに必要もないのに殺生するのは、相手が蟻のような微小な生きものであろうともよくないのだ……と戒められたのです。

微生物の不殺生をも

 ところが現代の人間は、ことさらにさまざまな生物を殺しています。狩猟シーズンともなれば、野山の鳥や獣をたんなる楽しみのために殺しています。また、らくらくと登山をして観光を楽しむために、山を崩し、木を切り倒して自動車道路を造っています。
 それがどれぐらい多くの生きものを殺生し、生態系のバランスを崩す行為であるか……それを承知しながらも、人間のわがままと貪欲から、あえてそうした殺生をやめないのです。
 いちばん恐ろしいのは、この世でいちばん微小な生きものであるバクテリアの殺生ではないでしょうか。バクテリアはとくに土壌の中にたくさん棲息し、ふつうの畑の中には一立方メートル当たり、じつに百五十グラムいるのだそうです。百五十グラムといえば、封筒いっぱいの量でしょう。
 そうしたバクテリアは、枯れた植物や動物の死骸を分解して栄養分の多い土に還元してくれているのであって、もしそのはたらきがなければ、地球上は動植物の死骸に覆われ、とても人間が住める世界ではなくなるでしょう。
 ところが現代の人間は、農薬をはじめとする化学製品によって、こうしたバクテリアを大いに殺生しつつあるのです。家庭から出る生ゴミもすべて焼却します。土に戻してバクテリアを育てることをしません。だから、世界中の農地が痩せていく一方なのです。
 これらはすべて、物を大量に生産し、大量に消費し、飽満的に、そしてらくらくと暮らそうとする人間の貪欲とわがままから起こったことで、このままでは、たとえ核戦争がなくても、案外早く人類は滅びに至るだろうと説く学者たちさえいるぐらいです。
 このへんで人間は、もう一度お釈迦さまがお説きになった「大調和」の世界観に立ちもどり、不殺生戒のほんとうの意味を再吟味し、それをなるべく早く実行に移さなければなりますまい。そうでないと、自分で自分の首を絞めることになりかねないのです。
題字と絵 難波淳郎

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