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経典のことば(13)
立正佼成会会長 庭野日敬

まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです。
(ミリンダ王の問い・那先比丘経)

体験談こそ人を動かす

 「ミリンダ王の問い」は、一風変わった経典です。ギリシャ人であるミリンダ王(メナンドロス王=紀元前二世紀)が那先(ナーガセーナ)という比丘に仏教についてさまざまな質問をし、那先がどんな質問に対しても懇切に、忍耐強くそれに答え、王がついに仏教に帰依するいきさつを述べた実話ですが、標記のことばはそのなかにある那先のことばです。その前後の問答は次のとおりです。
 「尊者那先よ。まだ涅槃を得ていない者が、涅槃が安楽であることを知ることができるでしょうか」
 「できます」
 「わたしにはそれがどうしても分からない」
 「大王よ。手足を切断されたことのない人が、手足を切断することは苦しいものだと知ることができるでしょうか」
 「尊者よ。それは知ることができます」
 「どうして知るのですか」
 「他人が手足を切断されたときの悲痛な声を聞いて、それを知ることができましょう」
 「大王よ。それと同様です。まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです」
 那先が言った「声」というのは「説法」という意味もありましょうが、それよりもむしろ「体験談」という意味が強いと思います。
 いつも言うように、信仰は体験の世界です。宗教には哲学的な要素もあり、道徳的な要素もあり、それらを理知に訴えて説くことも多いのですが、そうした説法を聞いたり、書物で読んだりして魂が奮い立つような感動を覚える人はよほどすぐれた人でありましょう。
 ところが、どんな人の話でも、信仰によって苦しみのどん底からはい上がりえた血のにじむような体験談を聞けば、心の底から共感し「よし、わたしも……」という気持ちがフツフツとわき上がってくるものです。
 わたしどもの会で「法座」というものを信仰生活の最重要の拠点とし、その法座においては体験を語り、かつ聞くことを最も重んじているのは、こうした理由によるものなのです。

体験を聞く功徳・語る責任

 いわゆるインテリは、ともすればすべての場合に通ずる理論に飛びつきがちで、「個々人の体験は範囲が狭く自分自身に当てはまらぬことが多い」という理由で軽視するきらいがあります。
 しかし、それは考え違いです。聞くその時点においては「自分に関係ない」と感じても、そういった場当たり的な気持ちを捨てて謙虚に耳を傾けることが大事なのです。なぜならば、その話は必ず意識の底に焼きつけられ、いつの日か自身がそれに類した場面に立った場合、フッとその記憶が浮かび上がり、善処や克服の貴重な指針となるからです。
 このような「人の体験を聞くこと」の大切さは、それを裏返せば、「自分の体験を人に語ること」が世の多くの人を幸せに導く道であるということにつながります。目をもっと広く向ければ、人類の文化は無数の体験の積み重ねによって築かれ、進歩していくものですから、自分の体験を他のために語る責任がすべての人にあると言っていいでしょう。
 とくにわれわれ日本人は、右の問答の例に引かれた「手足を切断される苦しみ」を原爆によって味わった世界唯一の民族です。その苦しみの悲痛の声を全人類に聞いてもらう責任があります。それを忘れてはなりますまい。
題字と絵 難波淳郎

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