経典のことば(10)
立正佼成会会長 庭野日敬
衆生の恩とは、すなわち無始よりこのかた一切衆生五道に輪転して百千劫を経(へ)、多生中に於て互いに父母となる。互いに父母となるをもってのゆえに、一切の男子はすなわちこれ慈父にして、一切の女人はこれ悲母なり。
(心地観経・巻2)
一切衆生は同根である
ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば
父かとぞ思う母かとぞ思う
これは行基菩薩がよんだと伝えられている歌です。現代人の常識からすれば、山鳥の声を聞いて「あれは死んだお父さんではなかろうか。お母さんではなかろうか」と想像するなど、ありえないことのように考えられましょう。
ところが、ほんとうの詩人というものは天地の万物と血のつながりを覚えるほどの一体感を持っており、ましてや行基菩薩のようなすぐれた仏教者ともなれば、そうした心情が一切衆生とのあいだに寸分のスキもないほどに透徹していますから、この歌も不可思議な実感をもってわたしどもの胸に迫るのです。
いま「不可思議な」と申しましたが、よくよく考えてみますと、けっして不可思議ではないのです。正真正銘の実感なのです。わたしどもとこの世のあらゆる生物とはけっして他人ではないからです。
おおむかしの地球はもともと渦巻く高熱のガス体だったわけで、生物はまったく存在しませんでした。そのガス体が冷えて固まったのが地球のはじまりであり、いまから約二十億年ほど前、そこにはじめて生物の祖先が誕生しました。それはアメーバよりも原始的な、単細胞の微生物だったといわれています。
そのただ一種の微生物から、より高等な原生動物が生じ、昆虫類・魚類・両生類・爬(は)虫類・鳥類・哺(ほ)乳類と進化し、哺乳類の一部が人類となったのはまぎれもない事実ですから、一切衆生はまさしくわれわれと同根の、遠いながらも親戚筋に当たるわけです。
人間仲間はみな血縁
ましてや人間仲間となれば、ますます近い血縁つづきなのです。わたしどもは両親を持っています。両親もそれぞれ両親を持っています。こうして二代前までを考えても、われわれは合計六人の「親」を持っているわけです。このようにして先祖の数を数えてゆきますと、十代前は千二十四人、二十代前になると百四万八千五百七十六人、三十代前だと十億七千三百七十四万千八百二十四人、五十代前までさかのぼるとなんと百十二兆八千九百九十九億人を超える「親」がいたことになるのです。ということはつまり、人類全体がごく近い血縁関係にあることを数字が証明しているわけです。
さらに過去世までさかのぼってみますと、右の経文にもありますように、百千劫という長い年月のあいだ死に変わり生き変わりしながらさまざまな世界を輪廻(りんね)してきたあいだには、人類すべてがお互いに父となり、母となってきた……と、お釈迦さまはそのたぐいなき宿命通(前世を知る超能力)によって見通されたわけです。
そうした理由によって、「すべての男子はこれを自分の慈父だと思い、一切の女子はこれを自分の悲母だと思い、その恩を感じなければならない」と教えられているわけです。
人間同士が争いあい、奪いあい、殺しあう不幸な状態は、お互いのあいだに心の繋(つなが)りがないからこそ起こるのです。心の繋りがないのは、いのちの繋りがないという無知にもとづくものだと思います。この経文はその無知をうち破る貴重この上もない真理のことばではないでしょうか。
題字と絵 難波淳郎