仏教者のことば(65)
立正佼成会会長 庭野日敬
「お坊さま、このお経の教えは、つまりわたくしも観音さまになれということでございますね」
二宮金次郎・日本(『二宮尊徳』)
いま蘇る勤労哲学
二宮金次郎は相模国(今の神奈川県)足柄郡柏山の生まれですが、十四歳のとき父を、十五歳のとき母を失い、一人で田畑を耕して家を守りました。そうした苦しい生活の間にも、寸暇を惜しんで勉強しました。戦前は全国の小学校の門の傍らに、まきを背負って本を読む金次郎の像が建っていたものですが、戦後その像はおおかた撤去されました。
ところが、ごく最近になって、外国の識者の間で「日本の現在の繁栄は、むかしから庶民の胸中に確立していた勤労哲学がもたらしたものである」と説く人が多くなり、その勤労哲学の最大の唱道者である二宮金次郎尊徳翁の業績がふたたび認識されるようになりました。
金次郎が学んだのは仏教と儒教でした。たんに学んだだけでなく、その精神を厳しく自身の生活に実践し、後年、藩から荒廃した村々の立て直しを委嘱されてからも、その精神を徹底的に実践させることによって、多くの人びとを飢えから救い、幸せを得せしめたのでありました。アーノルド・トインビー博士は、「今後の世界人類を救うのは、仏教と儒教といった東洋の思想であろう」と言われましたが、それが金次郎の勉学と、思想と、その実践にぴったり合致することを思い合わせますと、あらためて深い感銘を覚えるのであります。
確かに観世音となった
その金次郎が十四歳の時、飯泉村の観音さまにお参りして黙とうしておりますと、一人の旅僧がお参りに来てお経を読誦しました。そのお経の内容がよく分かり、たいへん有り難く感じられましたので、読経を終えた旅僧に「何というお経ですか」と尋ねたところ、「観音経というお経じゃ」との答えです。
観音経ならばそれまでに菩提寺の和尚さまの読まれるのを何度も聞いたのですが、何のことか全然分かりませんでしたので、そのことを申しますと、旅僧は「普通は漢文で書いてあるのをそのまま音読するから分からないのじゃが、わたしはそれをわが国の言葉に訳して読んだのじゃ」という答えでした。
金次郎は持ち合わせの二百文をお布施として差し上げ、すみませんがもう一度お読みくださいませんかとお願いしました。旅僧は快く再び観音経を読誦しました。読誦が終わってから、金次郎はポツリとこう言ったのです。「お坊さま、このお経の教えは、つまりわたくしも観音さまになれということでございますね」。
旅僧は驚いて少年の顔をマジマジとみつめていましたが、ややあって言いました。「えらいッ。わたしは長いあいだ修行してようやくそのことが分かったのにそなたは二度聞いただけで悟ってしまった!」
あとで金次郎が菩提寺の和尚さまにそのことを話しましたところ、和尚さまは感激して「どうだ、わしの弟子になって、この寺を継いではくれないか」と申し出ました。しかし、金次郎は「わたしは百姓でございますから、一生を百姓で終わります」と答えました。
その言のとおり、金次郎は農民としての観世音菩薩となり、多くの村々を疲弊から救い、しかも昭和の今日まで尊い影響を残しているのです。その勤労哲学を一言にしていえば「天地万物・万人から受ける徳に対して、徳を以て報いる」ということです。しかも何より偉いのは、その哲学を実践によってつらぬき通したということです。自ら観世音菩薩になりきったということであります。
題字 田岡正堂