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仏教者のことば(21)
立正佼成会会長 庭野日敬

 人は阿留辺幾夜宇和という七文字を持(たも)つべきなり。
 明恵上人・日本(栂尾明恵上人遺訓)

現代人に対し痛烈な教え

 阿留辺幾夜宇和というのは、日本語の発音に漢字を当てたもので「あるべきやうは」と読めばいいのです。その意味は「(人間は)そうあらねばならないようにあれ」ということで、もっとつづめていえば「らしくあれ」ということです。
 このあとにつづいて上人は「僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり、乃至帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。此のあるべきようを背く故に、一切悪きなり」と言っておられます。
 これは二十世紀末の現代の人間に対する痛烈な教えであると受け取らねばなりますまい。父が父らしくなくなり、母が母らしくなくなり、教師が教師らしくなくなったために、子供たちも子供らしくなくなり、家庭内暴力や、校内暴力といった、これまでの日本では考えられもしなかったような事件を引き起こすようになりました。
 われわれが住んでいるこの世界は、ありとあらゆるものが、それぞれらしくあることによって成り立っているのです。太陽が太陽らしくあり、月は月らしくあり、地球は地球らしくあってこそバランスを保っているのです。ところが、地球上に住む人間は、自分たちさえよければいいというわがままを増長させたあまり、森林を森林らしくなくし、土壌を土壌らしくなくし、空気を空気らしくなくし、だんだんとこの地球を住み難い世界へ変えてゆきつつあります。自分で自分の首を絞めつつあるのです。もうこのへんで、人間はもっと謙虚になり、らしくあることを大切にしなければなりますまい。そうしなければ、遠からず破滅におもむくことは必至だと思います。

自身がらしさに徹した

 さて、明恵上人は、ご自身も「あの世で救われようとは思わない。ただこの世においてあるべきようにあろうと思うばかりである」と言い切っておられるように、仏僧らしい僧であったと同時に、じつに人間らしい人でありました。
 仏教の開祖釈尊を恋い慕う情熱はひたむきなものがあり、どうしても天竺(てんじく=インド)へ旅しなければならぬと精密な行程表まで作られたのですが、それを果たすことができず、せめて一歩でもインドに近い所に行きたいと、紀州の無人島に行き、そこの海水をすくって頭の上にささげ「この水は遠く天竺に通ずる水だ。お釈迦さまの遺跡を洗った水だ」と言ってうやうやしく礼拝したということです。純粋な人だったのです。
 承久三年の乱のとき、官軍の敗残兵が上人の住する京都郊外の高山寺へ逃げこんだのをかくまい、けっして幕府方に渡しませんでした。追っ手の隊長が上人を捕らえて、北条泰時の所へ連れて行きましたが、上人は平然として先に立って歩いて行きました。泰時はかねてから上人の高徳を聞き及んでいましたので、びっくりして席を立ち、上人を上座に据えて平伏しました。上人は、
 「高山寺は落人をかくまっているのは事実だ。釈尊も、前世には鷹に追われた鳩の身代わりとなっておん身を鷹の餌食にされた。それほどの大慈悲には及ばずとも、戦いに敗れた軍兵を助けるのは仏教者として当然のことである。もしそのために政道が立ちゆかぬようだったら、拙僧の首をはねられよ」と言われました。泰時はこれを聞いて感動の涙を流し、部下の粗忽(そこつ)を詫び、ていねいに輿(こし)でお送りしました。その粗忽な隊長は、のちに上人の弟子となったそうです。
 まことに上人こそは、あるべきような生きざまをつらぬいた人でありました。
題字 田岡正堂

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