心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(27)
立正佼成会会長 庭野日敬
仏の霊光に救われた話
七面山の女神に呼ばれる
神や仏が実際に顕現される場合は、たいていの場合一瞬の出来事です。長くても数秒、数十秒という短い時間です。ですから、それを信じない人々から、幻覚とか錯覚とかで片づけられてしまうのです。ところが、ここに、少なくとも数十分のあいだ、仏の霊光に導かれて七面山の登山を成し遂げた。という希有な実例がありますので、紹介させて頂きます。
京都の小原弘万(おはら・ひろかず)さんという方は、般若心経を昭和五十二年八月までに百六十万遍も読誦し、また心経の豆本を作っては無料で配布され、そうした自行と利他行の功徳によってさまざまな神力(じんりき)を身につけられた現代の尊者ですが、その著『心経ひとすじ』に次のような体験を発表しておられます。
小原さんがまだ若いころ、ある発明に没頭しておられた時、その行程中に発する毒ガスに当てられて倒れ、長い間病臥する身となられました。高熱の続いたある日、妙な夢を見ました。白衣で白い鉢巻きをされた女神が、燃え盛る火をちぎっては投げ、ちぎっては投げておられるのです。不思議なことに、夢が覚めたその日から、長い間の高熱が下がってしまったのです。
ところが、ちょうどそれに符節を合わせたように、久しく会わなかった心経一筋の老行者が突然来訪され、「小原を連れて七面山へ来い」という神のお告げを受けたと言われるのです。小原さんも、じつは私もこんな夢を見たと話されると、それならばどうしても行かねばならぬということになりました。その行者さんは何十日かの断食行を終えたばかりのフラフラの状態、小原さんも高熱が下がったばかりの身、しかも、二人ともまだ七面山には登ったことがなかったのです。二人とも般若心経の信仰者でこそあれ、日蓮宗とは何の関係もなかったのです。それなのに、吉祥天女の権現であり、身延山久遠寺の守護神である七面大明神の神示を受けたのですから、初めから不思議なことだったわけです。
暗黒の足元を照らす霊光
早速二人は出発したのですが、身延は激しい雨でした。しかも、フラフラの老行者さんの腰を、これも病気上がりの小原さんが押しながら登るのですから、道はなかなかはかどりません。『般若心経ひとすじ』にはこう書かれています。
「お題目を唱えることの大きらいなこの行者さん、『南無妙』だけを唱え、あとは私に唱えろ、と命ずるのである。『ナムミョ』と、もたれ掛かって行者、『ホーレンゲーキョ』と押す私。奇妙なコンビの歩みは遅々として進まず、遂に日はトップリと暮れてしまった。もちろん夕刻までには完全に登れる予定だったが、休み休みのフラフラ二人。足元は暗くなり、やがて寸前も見えなくなった。登るに登れず、下るに下れず、激しい雨はパンツまでビッショリである」
まさに進退きわまる、その時でした。驚くべき不思議が起こったのです。暗黒の足もとが、直径一メートルぐらいの円形に、鈍(にぶ)い光ではあるが、小石が見えるくらいに照らし出されたのです。二人は抱き合って喜びました。期せずしてほとばしり出たのは、般若心経でした。声は声とならず、泣きじゃくりながら唱え終わりましたが、行者は続いて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、初めて声高らかに唱え続けたのでした。小原さんも、もちろんそれに和されたのでした。
霊光はずっとついて回った
ところが、その光は、一瞬だけの現象ではなかったのです。原文には、こう書かれています。
「足元の円形の光は、進むに従って付いて回った。これが信じてもらえるだろうか。しかもこの光には暖かさがあった」「心経と題目を交互に唱えつつ、遂に目的の地に着いた。この光は一体何だったのかしら」
その疑問は、後日、般若心経百万遍を読誦し終わってから、解決されたのだそうです。それについて次のように書かれています。
「この光こそみ仏の霊光なのである。私自身、日々献燈を忘れず、神社仏閣にお参りした時、まず献燈を心掛けており、来客に対しても献燈させ、また勧めているが、私はこの献燈の光が、死後暗黒の世界を通る時、『再現して足元を照らす』と信じているのである」
法華に凝り固まっている人は、ともすれば法華三部経以外のお経を排除する傾向がありますが、それが誤りであることは、このエピソードによっても明らかでありましょう。般若心経一筋のお二人が、そろって七面大明神に呼び寄せられ、このような霊験を頂かれたのです。み仏は一つ、み仏の八万四千の教えも、巻き戻せば一つに収まるのです。(つづく)
東大寺・広目天像
絵 増谷直樹