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心が変われば世界が変わる
 ―一念三千の現代的展開―(28)
 立正佼成会会長 庭野日敬

十界互具が一念三千の中心

悪人にも菩薩心はある

 さて、ここで(一念三千)の本文にもどりましょう。
 「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり」とあります。われわれの日常の心の在り方を省みてみますと、地獄(怒り)・餓鬼(貪欲)・畜生(愚癡)・修羅(闘争)の心が、次から次へと湧いてきます。しかしそれを何とか自制し、コントロールしておおむね人間(平正)らしく生活しています。また、時には歓喜に満たされ、得意の状態(天上)になることもあります。声聞以上の(聖)の境地に上るひと時もあることについては、その項で説明した通りです。ここまでは、まずわかりやすい論理でしょう。
 ところが「一法界に又十法界を具す」となると難しくなります。右の十界の一つ一つに、それぞれ十界が具わっているというのです。今、地獄界にいる人も完全に地獄界にいるのではなく、仏心もあれば菩薩心もあるというのです。それは何となくわかります。人殺しの大悪人でも、わが子は無性に可愛く、子のためなら自分の身はどうなってもいい……という気持になります。無償の愛、つまり仏の慈悲を心のどこかに具えている証拠です。

仏にも悪の因子はある

 ここまではわかりますが、仏界にも地獄その他の十界が全部具わっているとなると、ちょっと問題です。仏に地獄・修羅・餓鬼・畜生の心があるとなれば、お釈迦さまの尊い人格を傷つけるものとして憤激する人もありましょう。ところが天台大師は、法華経をつらぬく精神の上に立って、これまでの仏教者が考え及ばなかった、あるいは考えても言うをはばかったであろう、この真実を断固として喝破したのです。
 法華経の基本となる精神は(人間平等)ということです。あらゆる人間は、その根源においては平等な存在だというのです。しかし、現実においては、下は極悪人から上は仏まで、千差万別の人間像が見られます。なぜそのような違いがあるのか。これに対する答えを天台大師は(摩訶止観)巻五に簡明直截に説いておられます。
 闡提(せんだい)は修善を断じ、但(ただ)性善(しょうぜん)の在るあり、如来は修悪(しゅあく)を断じ、但性悪の在るあり
 闡提というのは、ひと口に言えば最低・最悪の人間のことですが、「その闡提も性質としては善はもっているのだ。ただ善を修する(行う)ことが全くないだけのことなのだ。仏は性質としての悪はもっておられるのだが、その悪を行われることが全然ないのだ」というのです。
 実に理性に徹した達見です。感情的に闡提を排撃することもなく、仏(応身の仏)を神格化して絶対視することもない平等な人間観です。これによって、われわれ凡夫も性質としてもっている善を行動化しさえすれば、菩薩にも仏にもなれるのだ、ということがハッキリとわかり、明るい希望をもつことができるのです。
 また「如来にも性悪は在る」というのも、ありがたいことです。もしお釈迦さまの心に悪の因子が全然なかったとしたら、悪というものはどんなものかおわかりにならず、人間のもつ悪の種々相に対する理解もありえなかったでしょう。したがって、それらの悪を断ずる方途も考えられなかったはずです。ところが、ありがたいことに、お釈迦さまはそうではなかったのです。その徳と慈悲は、赤ん坊のような天真らんまんなものではなく、すべての悪や煩悩をも手にとるように承知された上で、それらを包容しながら人間を善へ導いていくという、大きな智慧の働きにほかならなかったのです。

どの世界へも行ける可能性

 お釈迦さまは、妻もめとり、子も成し、凡夫としての体験を豊富にもっておられます。そうした一人の凡夫が修悪を断じて仏となられた、その血のにじむような長い歩みは、そのままわれわれにとって生きた手本になります。そして、その教えも、通りいっぺんの概念的なものではなく、一つ一つに体験の汗と膏(あぶら)がしみこんだ教えなのです。だからこそ、その通りに行じていけば、万が一にも間違いはないのです。安心して随順していけるのです。
 さて、地獄から仏までの十の世界に、それぞれ地獄から仏までの十の世界がお互いに具わっているというこの真実を(十界互具)といい、十掛ける十は百で(百法界)というわけです。これが(一念三千)の中心となる思想です。すなわち「人間はどの世界へもおもむく可能性をもっている」という断定なのです。自分にもこのような可能性があることをシミジミと思えば、地獄・修羅・餓鬼・畜生道へ落ちないように自制自重する心がひとりでに生じ、また、菩薩界・仏界にでも必ず上れるのだという希望と勇気が、油(ゆう)然と湧いてくるのを覚えるではありませんか。(つづく)

 興福寺・五部浄像
 絵 増谷直樹

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