心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(21)
立正佼成会会長 庭野日敬
一念三千とは何か
大本は空の理に発する
これまでに、心が変われば体も変わる、健康も変わる、顔つきも変わる、人生も変わることについて、いろいろお話ししてきましたが、ここで、なぜそうなるかという真理の大本になる大原理について説明しておきたいと思います。
仏教では、われわれが住んでいるこの世のあらゆる現象(諸法)は、宇宙の唯一の実在である(空(科学的に言えば根源のエネルギー、宗教的に見れば、宇宙の大生命))の発現であると説きます。
ただ、仏教で、そう説いているというだけでなく、二十世紀に発達した原子物理学や理論物理学などからしても、それが、まさしく真理であることが裏づけられつつあるのです。(ここで、それを詳しく紹介する余裕はありませんが、志ある方は、たとえば、山本洋一工学博士著『根本道理の書』・大法輪門発行とか、世界的理論物理学者の松下真一氏著『法華経と原子物理学』・光文社発行などを、ひもといてみられるのも面白いでしょう)
この真理によれば、われわれのまわりに広がっている万物・万象は、一見、別別の存在のように見えますけれども、本来は、ただ一つの宇宙の大生命であり、その大生命は宇宙全体にスキマもなく、満ち充ちている実在なのですから、万物・万象は、本質的には密接につながっており、お互いに関係し合い、融通し合っているわけです。したがって、同じ大生命の発現である物も心も別々の存在ではなく、渾然(こんぜん)として一体のものなのであります。このことを仏教では、(色心不二・しきしんふに)(物心一如・ぶっしんいちにょ)と申します。
こう考えてきますと、(心を変えれば、物も、健康も、境遇も変えることができる)ということは、理論的に確かに成り立つのであります。
一念の中に全宇宙がある
今から約千四百年前に、(小釈迦)といわれた中国の名僧天台大師が、表現の仕方こそ違え、法華経の真理にもとづいて、これと同じような世界観・人間観を説かれたのが、ほかならぬ一念三千の法門なのです。それは、大師が法華経の精神と、教義と、実践方法とを体系的に説かれた三大著『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』の中の『摩訶止観』巻五上にあるもので、主文は次の通りです。
夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾(けに)も心有らば即ち三千を具す。 この(一心)とか(一念)とかには、ほかに深い意味もありますが、ひとまず(われわれ人間の一瞬の心)と解しておいてください。また、三千種の世間というのは――なぜ三千という数字ができるのかはあとで説明しますが――つまり宇宙全体ということです。そこで「此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾も心有らば即ち三千を具す」というのは、現代語に意訳すれば、「この無限大の世界は、人間の一瞬の心の中にある。もし心がなければ、無いのと同然であろう。たとえ極微、一瞬のものであろうとも、そこに心がある限り、その中には宇宙全体が具わっているのである」ということになります。
心と物とどちらが先か
この文章から見ますと、「まず心があってこそ物の世界も存在する」つまり「心が主であって物は従である」と説いておられるように見えますが、そうではないのです。それは続いて説かれている次の文でも明らかです。
亦一心前(さき)に在り、一切の法(万物・万象)後に在りと言わず、亦一切の法前に在り、一心後に在りと言わず。
「心が在ってこそ、物も存在するのだ」という唯心論でもなく、「物が先にあるからこそ、心もそれを感じたり、それについて考えたりするのだ」という唯物論でもないというのです。どっちが先でもあとでもなく、主でも従でもなく、心と物とは一如であり、相即するものだというのです。
たいへん難しい理論のようですけれども、冒頭に述べた(空)の理を思い出してみれば、容易に理解できることと思います。石でも、鉄でも、人間でも、すべての現象はただ一つの実在である宇宙の大生命が造り出したものであり、それも、それぞれの理由があればこそ造り出したわけですから、それぞれの存在には宇宙の大生命の意志がこめられているわけです。
石にも、鉄にも、人間にも、宇宙意志という(心)がこめられているのです。ですから、物が先とか心が先とかいうのでなく、全く(物心一如)なのであります。(つづく)
幼児の布施部分(ガンダーラ出土)
絵 増谷直樹
―一念三千の現代的展開―(21)
立正佼成会会長 庭野日敬
一念三千とは何か
大本は空の理に発する
これまでに、心が変われば体も変わる、健康も変わる、顔つきも変わる、人生も変わることについて、いろいろお話ししてきましたが、ここで、なぜそうなるかという真理の大本になる大原理について説明しておきたいと思います。
仏教では、われわれが住んでいるこの世のあらゆる現象(諸法)は、宇宙の唯一の実在である(空(科学的に言えば根源のエネルギー、宗教的に見れば、宇宙の大生命))の発現であると説きます。
ただ、仏教で、そう説いているというだけでなく、二十世紀に発達した原子物理学や理論物理学などからしても、それが、まさしく真理であることが裏づけられつつあるのです。(ここで、それを詳しく紹介する余裕はありませんが、志ある方は、たとえば、山本洋一工学博士著『根本道理の書』・大法輪門発行とか、世界的理論物理学者の松下真一氏著『法華経と原子物理学』・光文社発行などを、ひもといてみられるのも面白いでしょう)
この真理によれば、われわれのまわりに広がっている万物・万象は、一見、別別の存在のように見えますけれども、本来は、ただ一つの宇宙の大生命であり、その大生命は宇宙全体にスキマもなく、満ち充ちている実在なのですから、万物・万象は、本質的には密接につながっており、お互いに関係し合い、融通し合っているわけです。したがって、同じ大生命の発現である物も心も別々の存在ではなく、渾然(こんぜん)として一体のものなのであります。このことを仏教では、(色心不二・しきしんふに)(物心一如・ぶっしんいちにょ)と申します。
こう考えてきますと、(心を変えれば、物も、健康も、境遇も変えることができる)ということは、理論的に確かに成り立つのであります。
一念の中に全宇宙がある
今から約千四百年前に、(小釈迦)といわれた中国の名僧天台大師が、表現の仕方こそ違え、法華経の真理にもとづいて、これと同じような世界観・人間観を説かれたのが、ほかならぬ一念三千の法門なのです。それは、大師が法華経の精神と、教義と、実践方法とを体系的に説かれた三大著『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』の中の『摩訶止観』巻五上にあるもので、主文は次の通りです。
夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾(けに)も心有らば即ち三千を具す。 この(一心)とか(一念)とかには、ほかに深い意味もありますが、ひとまず(われわれ人間の一瞬の心)と解しておいてください。また、三千種の世間というのは――なぜ三千という数字ができるのかはあとで説明しますが――つまり宇宙全体ということです。そこで「此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾も心有らば即ち三千を具す」というのは、現代語に意訳すれば、「この無限大の世界は、人間の一瞬の心の中にある。もし心がなければ、無いのと同然であろう。たとえ極微、一瞬のものであろうとも、そこに心がある限り、その中には宇宙全体が具わっているのである」ということになります。
心と物とどちらが先か
この文章から見ますと、「まず心があってこそ物の世界も存在する」つまり「心が主であって物は従である」と説いておられるように見えますが、そうではないのです。それは続いて説かれている次の文でも明らかです。
亦一心前(さき)に在り、一切の法(万物・万象)後に在りと言わず、亦一切の法前に在り、一心後に在りと言わず。
「心が在ってこそ、物も存在するのだ」という唯心論でもなく、「物が先にあるからこそ、心もそれを感じたり、それについて考えたりするのだ」という唯物論でもないというのです。どっちが先でもあとでもなく、主でも従でもなく、心と物とは一如であり、相即するものだというのです。
たいへん難しい理論のようですけれども、冒頭に述べた(空)の理を思い出してみれば、容易に理解できることと思います。石でも、鉄でも、人間でも、すべての現象はただ一つの実在である宇宙の大生命が造り出したものであり、それも、それぞれの理由があればこそ造り出したわけですから、それぞれの存在には宇宙の大生命の意志がこめられているわけです。
石にも、鉄にも、人間にも、宇宙意志という(心)がこめられているのです。ですから、物が先とか心が先とかいうのでなく、全く(物心一如)なのであります。(つづく)
幼児の布施部分(ガンダーラ出土)
絵 増谷直樹