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法華三部経の要点 ◇◇114
立正佼成会会長 庭野日敬

観普賢経の重要な言葉(二)

煩悩に溺れなければよい

 目を閉ずれば則ち見、目を開けば則ち失う。
 普通の生活をしている信仰者は、朝夕の読経とか、唱題行とか、仏教書を一心に読んでいるときなどは、心が静かに深まり、一つに集中していますので、なんともいえない心の底からの喜びを覚え、仏さまの存在もマザマザと感得できます。それが「目を閉ずれば則ち見」です。
 ところが、ひとたび日常の生活に戻れば、つい利己心のとりこになったり(貪)、わがままな気持ちから怒ったり(瞋)、本能の衝動に振りまわされて愚かな行動をしたり(痴)します。そんなときは仏さまの存在をも見失い、仏さまの教えをも忘れています。それが「目を開けば則ち失う」です。ですから、折に触れて反省・懺悔することが必要なのです。

 菩薩の所行は結使を断ぜず使海に住せず。
 この場合の菩薩とは、在家の生活をしていながら、至高の悟りを求め、人を救い世を救う行動に挺身する人びとをいいます。在家の生活をしていますと、煩悩をすっかり断ち切ってしまうのは事実上不可能です。出家修行者に対する教えでは煩悩を滅除することが強調されていますので、生真面目(きまじめ)な在家信仰者は、それを真(ま)に受けて自らの煩悩について思い悩みます。
 そこでお釈迦さまは、右の句をお説きくださったものと思われます。結使というのは煩悩のことですが、「在家の信仰者は煩悩をすっかり断ち切っていなくてもいいのだ。ただ、煩悩の海(使海)にドップリ浸って溺(おぼ)れないように心がければいいのだ」というのです。じつに現実に即したありがたい教えです。

 何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪・福も主なし。
 この世のすべてのものごとは本来空なのだから、自分の心が罪とか福とかいうものにひっかからなければ、罪も、福も、もともと実体があるものではないのだから、振りまわされたり影響を受けることもないのだ……というのです。そして、自由自在な境地に遊ぶことができるわけです。

影響力の大きい者の懺悔

 若し王者・大臣・婆羅門・居士・長者・宰官、是の諸人等貪求(どんぐ)して厭くことなく、五逆罪を作り、方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報、悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし。
 現代語に意訳しますと、「もし元首とか、政府高官らが、宗教者や教育者などの指導的立場の人とか、知識人とか、大会社の経営者とか、上級職の役人とかいうような社会的地位の高い者が、あるいは物質や名誉や、他者の奉仕などを貪り求めて飽くことなく、あるいは五つの大罪をつくり、あるいは大乗の教えをそしり、あるいは十の悪い行いをすれば、その人は罪業の報いによって、豪雨にもまさる勢いでまっさかさまに悪い世界へと堕落することはまちがいない。まったく救いのない地獄へ必ず落ちてしまうであろう」
 説明の要はありますまい。現在の世相を見ればまさに歴然たるものがあります。


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