仏に成る道
──開三顕一の菩薩道
そこで佼成会の言っている菩薩道ということ──法華経の教義の言葉で言いますと「開三顕一の法門なり」なんていうと、わかったようなわからないようなことになってしまうんです。開三──たとえて言うならば腹を三つに切って開いて、それでそれが一つなんだということで、またこうふさいだようなものです。
自分の腹の中にあるその問題、最初は生老病死。これはもうだれもけんかにはならんですよね、自分が生まれてしまったから。だんだん年寄りになる。病気をすることもある。一番最後には一遍死ななくちゃならない。それでこの声聞、仏さまの声を聞いて修行に入らせてもらったということは、皆さん声聞の部類だと思うんです。導きの親ごさんのやかましい声を聞いて、仏教の声を聞いて、そしてお誘いを受けたわけです。「あんたも一遍は死ぬんだ」なんていうことを言ったらもうみんななかなか入りゃしない、始まりはね。もう死ぬなんてことはおくびにも言わずに、「幸せになる。金持ちになる。何もかにも解決がつきます」なんてうまいことを言っては、みんな一生懸命で導いているわけです。そう言わないとなかなか入って来ないほど業障なんですね。それもやっぱりおいといなく──いまは暑うございますが寒中は寒うございます。暑さ寒さももう全然そんなことはおいといなく、皆さんが一生懸命に仏さまの声を伝えて歩くわけです。それで仏さまの声を聞いて声聞となって、何とか解決がつくものかということで入って来るわけであります。
そこから入ってまいりますと、今度はだんだん精進していくうちに、いろいろのことは言われなくとも縁起というものがわかります。縁起。縁によって起こるのであると。自分はただ生まれたんじゃない、自分が生まれるのには生まれるようなわけがあった。そしてまた生まれて来るのには、人間にはそれだけの使命があったと、そういうことがわかるようになっていく、このことを縁覚、独覚とも言います。自分は何のために生まれて来たか。人間として生まれて来たということには、それ相当の意義があるはずであります。そういうことは全然考えないで、自分のことばっかり考えておったんですね。