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法華三部経の要点106
【機関紙誌】
最高の親孝行と最高の先祖供養
法華三部経の要点106
最高の親孝行と最高の先祖供養
1
...法華三部経の要点 ◇◇106 立正佼成会会長 庭野日敬 最高の親孝行と最高の先祖供養 父母にも法を説かれた釈尊 妙荘厳王品の第三の要点は、そこに登場する二王子のように、親を仏法に導き、あるいは親に仏法を説くことが孝行の最たるものであるということです。妙荘厳王は、子に導かれて仏道に入り、出家したことによって、王位にある時は絶対に得られなかった大安心の境地に達することができました。その精神的な幸せこそ人生最高の幸福なのです。 親に法を説くことは、お釈迦さまが範を示してくださっています。亡き母上の摩耶夫人に対しては、その在所の忉利天に登って三ヵ月にわたって教化されたのです。 父上の浄飯王には、その臨終に際してなされた説法がじつに感動的です。お釈迦さまがヴェーシャリ国の重閣講堂におとどまりのとき、七十九歳になられる浄飯王がご病気との知らせがあったので、阿難・羅睺羅・難陀を連れて故郷に帰られました。 病室に入られたお釈迦さまは静かに父王の手を取られ、「父上、すべてのものは移り変わるもので、それはとうてい免れることはできませんから、けっしてお悲しみになってはなりません。それに、父上はすでに心の垢(あか)を除かれた清浄の身であられ、善根を積んでおいでですから、来世の安楽は疑いありません。どうか心安らかにおいでになってくださいませ」と、懇々とお説きになりました。浄飯王は「ああうれしい。わたしは幸せだ。幸せだ」とつぶやきながら安らかに息を引き取られたのでありました。 出家すれば九族が天に生ず 第四の要点は、二王子も妙荘厳王も出家されたとありますが、ここで、出家は大きな親孝行であると同時に、最高の先祖供養でもあることを知っておいていただきたいと思います。 南伝の小部経典の長老偈経に「智慧の豊かなる者が家に生まれ出家すれば、その者は七代の父母を浄める」と説かれています。七代の先祖の霊を安らかにするというのです。それを受けて中国や日本では「一人出家すれば九族天に生ず」という定型的説明が成立しました。九族というのは、祖父母の祖父母・曽祖父母・祖父母・父母・自己・子・孫・曽孫・玄孫のことで、出家すれば、この九族を天に生まれ変わらせ、安らかに暮らさせるというのです。 現代においては厳密な意味の出家修行者はたいへん少なくなりました。また、世の中全体を幸せにするには、人間の大多数を占める普通の生活をしているものがめざめなくてはどうにもならぬことが歴然としてきました。それゆえ、わたしは普通の生活をしながら、いささかの他への献身を行いながら人びとを仏道にみちびく人びとを「在家の出家」と呼ぶことにしています。立正佼成会会員のみなさんは、まぎれもなくその「在家の出家」にほかなりません。りっぱな菩薩なのです。 いろいろとご苦労もありましょうが、あなた方はこの世の浄土化という聖業の推進者であると同時に、あなた方の先祖から子孫までを天に生ぜしめるという功徳を積む身であります。これほどの先祖供養はなく、これほどの親孝行はなく、これほどの子孫孝行もないのです。 ...
法華三部経の要点107
【機関紙誌】
法華経は実践によって完成する
法華三部経の要点107
法華経は実践によって完成する
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...法華三部経の要点 ◇◇107 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は実践によって完成する 最後に登場の普賢菩薩 妙法蓮華経の最終章である普賢菩薩勧発品に入ります。この品は、東方の宝威徳上王仏の国から法華経を聞きにやってきた普賢菩薩がその教えに感激し、「のちの世にこの教えを受持する者があれば必ずそれを守護しましょう」と申し上げますと、お釈迦さまも「普賢菩薩と同じような行をなす者をわたしも守護しよう」とおおせられ、末世の法華経行者を励まされる章です。 法華経の初めのほうでは、菩薩の主役は「智」の文殊菩薩でした。中ほどでは「慈」の弥勒菩薩でした。そして、最後の結びで普賢菩薩が登場するのはなぜかといえば、真理を知る智慧にしても、一切の生きものに対する慈悲にしても、それを現実の生活に実践して初めてそれが救いとなり、幸せをもたらすのです。そこで、法華経のしめくくりとして「行(ぎょう)」の普賢菩薩が登場するわけです。 普賢菩薩は、六本の牙(きば)を持つ白い象に乗って出現されます。それはどんな意味を持つかといえば、象は目的地に向かって歩くとき、ゆくてをさえぎる樹木があればそれを押し倒し、岩石があれば足で転がし、まっしぐらに進んで行きます。 また、六本の牙というのは六波羅蜜を象徴しているのです。ですから、法華経行者が六波羅蜜を行ずるときに現れるさまざまな邪魔や障害をものともせず不退転の勇気をもってそれを乗り切っていかねばならないことを、この象の姿が象徴しているわけです。 法華経行者に守護を といえば、普賢菩薩はいかにも実践を要求する「力」の象徴だけのように考えられるかもしれませんが、と同時に、たいへん慈悲深い菩薩でもあるのです。普賢菩薩を梵語ではサマンタバドラといいます。サマンタは「あまねく一切に」という意味、バドラは「幸福な」という意味です。それで、中国語には「遍吉(へんきつ=あまねく一切のものに吉祥を与える)」と訳されています。つまり、われわれを力づけ励まし、法の実践を勧めることによって、幸福をもたらしてくださる菩薩なのです。 その普賢菩薩がはるか東方の宝威徳上王仏の国から霊鷲山に来至して、如来の滅後においてはどうすれば法華経を身につけることができるのでしょうかとお尋ねしました。すると、お釈迦さまは、諸仏に護念せられ、もろもろの徳本を植え、正定聚(しょうじょうじゅ=正しい信仰に心を定めた仲間)に入り、一切衆生を救う心を起こすことであるとお答えになりました。これを「四法成就」の法門といい、非常に大切な教えですから、次回以降に詳しく解説しましょう。 そこで普賢菩薩は、「後の五百歳の末法の世にこの経典を受持する者があれば、わたくしはその者を守護し、修行を妨げる者をしりぞけ、また一句一偈でも忘れた所があればそれを思い起こさせてあげましょううんぬん」とお誓いするのです。普賢菩薩のすぐれた神通力で守護されたむかしの法華経行者の話は、さまざまな古典に述べられています。 ...
法華三部経の要点108
【機関紙誌】
法華経のしめくくりは四法成就(一)
法華三部経の要点108
法華経のしめくくりは四法成就(一)
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...法華三部経の要点 ◇◇108 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(一) 護られているという確信 普賢菩薩勧発品最大の要点は、「四法成就」ということです。経文にはこうあります。 「仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せらるることを為(え)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん」 この場合の「法華経を得る」というのは、法華経に遇うという意味よりも、法華経をほんとうに自分のものにし、ほんとうの功徳を得るという意味のほうが強いのです。そして、そのための条件が次の四つのことがらだというのです。 一、自分はもろもろの仏さまに護られ、たいせつに念(おも)われているのだという確固たる信念を持つこと。 これは、一言にしていえば、信仰の確立です。それがなければ、どんなに教理的に法華経を理解しても、大安心の境地に生きることはできません。順調なときは心配なく暮らしていても、何かトラブルが起こったり、逆境に陥ったりした場合、ともすればあわてふためいたり、挫折してしまったりします。つねに自分は諸仏に護念されているのだという確信を持っている人は、「これも仏さまのおぼしめしによる試練だ」と、あるいは「反省の機会を与えられたのだ」というふうに受け取り、前向きに対処しますから、マイナスをプラスに転ずることができるのです。 善い行いを積み重ねる 二、日常生活のうえにいろいろな善い行いを積み重ねること。 徳本というのは、徳を持つようになる本(もと)となるものという意味で、善い心です。その善い心を植えるというのは、つまり善い行いをすることにほかなりません。 普通には、善い心があってこそ善い行いができるのだと考えられていますが、そうとは限りません。人まねですることもあるし、周囲からの影響であまり気が進まないながらすることもあります。 もう一つ大事なことは、第一条にある「諸仏に護念されている」という信念を持っていますと、「仏さまが見ていらっしゃるのだから」という意識によって自分を励ましつつ善い行為ができるようになることも多いのです。 ところが、善い行いをすると、あとでなんともいえないような快い気持ちになります。そういう経験をたびたび味わっていますと、だんだんと自ら善い行いをするようになるのです。つまり、善い行いから善い心が育つわけです。 善い心が育てば、ひとりでに善い行いをするようになり、善い行いをすればますます善い心が育つというわけで、そこに素晴らしい循環が生まれ、その循環が無数にくりかえされるうちに、人格完成という理想の境地に近づいていけるのです。そのことを、法華経の終章であるこの品で「諸の徳本を植え」という一語にしめくくってあるわけです。 ...
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