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人間釈尊65
譬喩から思索は限りなく
1
...人間釈尊(65) 立正佼成会会長 庭野日敬 譬喩から思索は限りなく 麻を背負った二人の男 お釈迦さまが祇園精舎で多くの人々にこんな話をなさいました。 ――ある所に二人の友だち同士があって、仕事を求めて旅に出た。山を越え野を越えして歩いていると、ある荒野に麻がたくさん生い茂っているのを見つけ、これはお金になると早速それを刈り取り、背負えるだけ背負って故郷へ帰りかけた。 すると途中の山かげにたくさんの銀塊が転がっていた。第一の男は、背負っていた麻を捨てて、その銀塊を袋に入れて背負った。第二の男はそれを見向きもしなかった。 また旅を続けていると、土の中から金らしいものが顔を出しているのを見つけた。第一の男がそこを掘ってみると、金の塊がゴロゴロ出てきた。「これはすごい」と、すぐに銀塊と取り換えたが、第二の男はちょっと欲しそうな顔をしただけで取ろうともしない。 第一の男が――天からの授かりものなのにどうして取らないのか――と聞くと、 「麻をしっかり背負いこんでいて、おいそれと背中から下ろせないんだ」と言う。 「ぼくが手伝ってやるよ」 「いや、このままでいい。せっかく遠方から運んで来た麻だ。いまさら捨てるわけにはいかない」 「愚かなことを言うな。こうしてやる!」 第一の男は強引に友だちの麻の束を解き下ろそうとしたが、あまりしっかり結びつけてあるので、容易に取れない。第二の男は、 「余計なことをしてくれるな。おれに構わず先に行ってくれ」と言う。 仕方なくそのまま家に帰った彼は、莫大な財産を持って帰ったので、家族にも喜ばれ、一生幸せに暮らした。 それにひきかえ、第二の男は家族からは愚か者と呼ばれたばかりか、一生貧乏暮らしをしなければならなかった。 一つの譬喩から拡がるもの 中阿含経に出てくるこの譬え話は、読みようによっては別の解釈もできますが、ここでは善をみつけたら、それまで身につけていた悪を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てて、善へ乗り換えよ……という教訓だとされています。 しかし、現代のわれわれがこの譬え話を読みますと、それをヒントとして、いろいろな連想が限りなくひろがっていくのです。 たとえば、ある低俗な信仰にはまりこんでいる人が、すぐれた高等宗教に巡り合ったとき、それに見向きもせず相変わらず迷信にとらわれておれば、一生を迷ったまま過ごさねばならない。 また、たとえば、ある思想を「これこそ真理だ」と固く思い込んでいた人が、それが誤った考えであり、もっとすぐれた思想があることを知っても、以前から背負っている思想を捨てるのは無節操だという無用のこだわりから、誤った思想にかじりつき、かえって世の中に害毒を流す。そのことに気づいて立て直しをしようとしている国が、世界に二つほどあります。 また、たとえば、金権政治と官僚主義を背中に固く結びつけている一国の指導層が、自由自在で創造的なやり方が目の前にあっても、勇敢にそれに乗り換えることをせず、国民をほんとうに幸せにできない国もどこかにある。 また、たとえば、二千年前の宗教上の恨みを麻の束のように捨てようとせず、いまだに争いを繰り返し、お互いが不幸になっている国々が中東にある。 このように、一つの譬え話から、思いは限りなくひろがっていき、そこから正しい道がおのずから見えてくるものです。ですから、仏典に出てくる譬え話を一概に無知の人のためのものと決めつけてはならないのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊66
【機関紙誌】
パセナーディ王との別れ
人間釈尊66
パセナーディ王との別れ
1
...人間釈尊(66) 立正佼成会会長 庭野日敬 パセナーディ王との別れ 師弟であり親友でもあった パセナーディ(波斯匿=はしのく)王とお釈迦さまは、もちろん師弟の間柄ではありましたが、その数々の接触を振り返ってみますと、なにか親しい友という感じがしてなりません。 あるとき王が、下腹を突き出すようにしてハァハァ息をしているのを見て、 「苦しそうだが、どうしたのですか」 と聞かれ、王が、 「今朝の食事を少し食べ過ぎたようで……」 と答えると、 「食べ過ぎはいけません。量を知って食をとることですよ。そうすれば寿命も延びるのですよ」 と忠告なさったこともあります。 あるときは、祖母を失って悄然(しょうぜん)としている王に、 川の水は休みなく流れ、往って帰ることはない。人の命もそれと同じである。逝く者は帰らない。たとえ千年の寿命があっても、必ず死んで去るのである。云々 という偈(げ)を詠んで、その悲しみを静められたこともあります。 このような親しい関係は晩年に至るまで変わることはありませんでした。 世間と僧伽を比べて 晩年のある時期、お釈迦さまが釈迦族の国のメーダルンバという村にご滞在になっていました。ちょうどそのときパセナーディ王が近くまで所用で来たので、お釈迦さまを訪問しました。 ところが、いつもと違って王の顔色が冴(さ)えないのを見られて、 「王よ。何か心配事でもあるのですか」 とお尋ねになりますと、 「はい。心にかかることがいっぱいあります」 「どんなこと……」 「いまや、国は国と争い、王族は王族と争い、バラモンはバラモンと争い、金持ちは金持ちと争っております」 「うーむ。そのとおり」 「しかも、母は子と争い、子は母と争い、父は子と争い、子は父と争い、兄弟は兄弟姉妹と争い、姉妹は兄弟姉妹と争い、友人は友人と争っております」 お釈迦さまは、何度もうなずきながら聞いておられました。 二十世紀末のわれわれが、このパセナーディ王のこの言葉を読むとき、現在の世界の情勢や国内の世相と思いくらべて、何か慄然(りつぜん)たるものを覚えざるをえません。 さて、王は言葉を改めて、 「その点、世尊の僧伽(さんが)を見ていますと、お弟子さん方はよく和合し、共に喜び、争うことはありません。乳と水のように融和し、お互いに愛情をこめた眼で見ながら暮らしておられます。じつに世の中の最高の手本でございます」。 お釈迦さまは、口辺に微笑を浮かべながら聞いておられます。そのとき王は、改まった口調で、 「世尊よ。世尊もクシャトリヤ(王族)でいらっしゃいます。わたくしもクシャトリヤです。世尊もコーサラ人ですし、わたくしもコーサラ人です。世尊も八十歳になられましたが、わたくしも八十歳になりました」 「王よ。そのとおりですね」 「わたくしは世尊に最上の尊敬と親愛を抱いていることを申し上げておきます。……さて、用事がございますので、これで失礼いたします」 そして座を立ち、辞去して行きました。 お釈迦さまは、それからマガダ国の霊鷲山に戻られ、そして最後の旅に出られたのですから、これがパセナーディ王との一生の別れだったのでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊67
【機関紙誌】
舎利弗の死を迎えられて
人間釈尊67
舎利弗の死を迎えられて
1
...人間釈尊(67) 立正佼成会会長 庭野日敬 舎利弗の死を迎えられて 師と己の死期を知って お釈迦さまが最後の旅にお出かけになる少し前のことです。 かねてから病気がちだった舎利弗は、自分の寿命があまり長くないことを知っていたのですが、と同時に、世尊の入涅槃も遠くないことを、その天眼をもって見抜いていました。 ある日、禅定から出て澄み極まった心境にあったとき、ふと思い出したのは、過去の諸仏の高弟たちはみな師よりも先に入滅したという言い伝えでした。 ――そうだ。自分としても、世尊のご入滅をこの目で見たてまつるのは忍びえない。一日でも先に涅槃に入ることにしよう―― そう決意した舎利弗は、竹林精舎のお釈迦さまのみもとに行って申し上げました。 「世尊。わたしは近いうちに涅槃に入ろうと存じます。どうぞお許しください」 世尊は黙然として舎利弗の顔をみつめておられるばかりです。一言もお答えになりません。舎利弗は繰り返し繰り返し三度も同じことをお願いしました。世尊はようやく、 「なぜこの世にとどまることを願わず、涅槃に入ることを急ぐのか」 とお尋ねになりました。舎利弗は、 「過去の諸仏に仕えた弟子たちは、みな師より先に涅槃に入ったと聞いておりますので……」 とお答えします。世尊はしばらくじっとお考えになっておられましたが、 「そうか。そなたはよくその時を知った。では、どこで涅槃に入るつもりか」 「故郷の母を訪ねまして、その地で……」 「よろしい。許してあげよう」 「ありがとうございます。長年お導きくださいましたご恩は永久に忘却いたしません。最後の礼拝をさせて頂きます」 舎利弗はみ足に額をつけて伏し拝み、両の手を合わせて世尊を仰ぎ見ながら、お姿が見えなくなるまで後じさりして去って行きました。世尊は慈しみをこめた眼で、じっと見つめていらっしゃいました。 遺骨をわが掌に乗せよ 舎利弗は久しぶりに母を見舞い、ねんごろに仏法を説いて大安心を得せしめたあと、一人で別室に退き、右わきを下にして横になりました。そしてゆったりと禅定に入ってゆき、その極みにおいて静かに息を引き取ったのでした。 ずっとお供をしていた侍者のマハーチュンダは、涙ながらに遺体を火葬に付し、遺骨を抱いて竹林精舎へ帰ってきました。 迎えに出た阿難は、驚きと悲しみで声をあげて泣きながら世尊のおん前に手をつき、 「何ということでしょう。舎利弗長老が入滅されました」 と申し上げます。世尊は、 「嘆くことはない。すべては移り変わるのがこの世の定めではないか」 と慰められましたが、しかし、そのお顔はさすがに曇ってみえました。世尊はマハーチュンダに向かって、 「マハーチュンダよ。その遺骨をわたしの掌の上に乗せておくれ」 とおっしゃいました。 マハーチュンダが恐る恐る進み出て舎利弗の遺骨をお手の上に乗せますと、お釈迦さまはそれを大勢の比丘たちに示しながら、 「これが数日前までそなたたちに法を説いた大智舎利弗である。わたしの子の遺骨である。よく見ておくがよい」 とおっしゃるのでした。 人間味あふれるそのお言葉に、泣かない比丘はありませんでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊68
【機関紙誌】
最後の旅への出発
人間釈尊68
最後の旅への出発
1
...人間釈尊(68) 立正佼成会会長 庭野日敬 最後の旅への出発 「連れていっておくれ」 ある日お釈迦さまは、霊鷲山のご香室でひとり瞑想(めいそう)にふけっておられましたが、やがて傍らにいた阿難に、 「阿難よ。旅に出よう。今度は北へ向かって行こう」とおおせられました。 おん年すでに八十歳、お足もともなんとなくおぼつかないおからだなのに、また布教の旅にお出かけになろうとは、なんという強靭(きょうじん)な精神力でありましょう。 それにしても、北を目指されたのはどういうわけでしょうか。北といえば、生まれ育たれたカピラバストの方向です。やはりお年を召して故郷に引かれる思いが生じられたのではないかとも推測されるのですが、仏伝にはそれについてはなんら記されていません。 さて、阿難と数人のお弟子を連れて旅立たれたお釈迦さまは、まずナーランダ村におとどまりになりました。この地は、後に史上最大の仏教大学が建てられた所で、七世紀に中国の玄奘(げんじょう)三蔵(『西遊記』の主人公)もここで数年間学び、そのころは一万人の学僧がいたということです。 その地にしばらくご滞在になってから、お釈迦さまは「阿難よ。パータリ村へ連れていっておくれ」とおおせられました。中村元先生著『ゴータマ・ブッダ』の注に――「行こう」というパーリ文よりも「つれていってくれ」という梵文(ぼんぶん)のほうが、老齢の釈尊の姿をよく示している――とありますが、まことにそのとおりで、以前にも増して何かと阿難の介護が必要だったのでありましょう。 川を渡す人々への称賛 パータリ村はガンジス河の舟着き場で、北へおもむく旅人はここを通らねばならぬ交通の要衝でした。後には首都として栄えた所です。 人々は村をあげて世尊のご一行をお迎えし、心からの接待を申し上げました。世尊は村人たちのために戒・定・慧の三学についてこんこんとお説き聞かせになったと、仏伝には記されています。 いよいよ世尊がここからガンジス河を渡られる日が来ました。村人たちは総出でお見送りしました。ちょうどマガダ国の大臣が二人、この地に都城を築くために来ておりましたが、そのうちの一人がこう申し上げました。 「世尊よ。きょう世尊がお出になるこの門を『ゴータマの門』と名付けましょう。世尊がお渡りになる渡し場を『ゴータマの渡し』と名付けようと存じます」 世尊は感慨深げにその言葉をお聞きになりながら、一隻の筏(いかだ)にお乗りになったのでした。 さて、向こう岸にお着きになった世尊は、しばらくの間、はるかパータリ村のほうを眺めておられましたが、やがてお目を転じて、こちらの岸辺で働いている船頭たちや、筏造りの人々を親しげにご覧になりながら、次のような偈(げ)をお詠みになりました。 深い所をすてて橋を造り、流れを渡る人々もある。浮き袋を結びつけて筏を造って渡る人もある。渡り終わった人々は賢者である。 この偈の表面の意味は、煩悩と人生苦に満ちた世界から解脱の彼岸に渡る修行の種々相と、渡り終えた人の尊さを詠まれたのであることは明らかです。しかし、中村元先生は「交通が不便であった時代に、橋や筏をつくって実際に交通の便を開いてくれる人々に対する称賛の気持ちが含まれている、と見てよいであろう」と解説しておられます。 そういう見方をすれば、人間としての釈尊のお姿がまざまざと目前に浮かび上がってきて、ひとしお懐かしい思いが込み上げてくるのを覚えるではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊69
【機関紙誌】
これが最後の眺めであろう
人間釈尊69
これが最後の眺めであろう
1
...人間釈尊(69) 立正佼成会会長 庭野日敬 これが最後の眺めであろう 重き病を克服されて ガンジス河を北へ渡られたお釈迦さまの一行は、ヴェーサーリー(毘舎離)の都の近くに足をとどめられました。 かつてこの一帯に疫病が流行したとき、お釈迦さまを招請して祈願して頂いたところ、たちまちその疫病が終息したので、ヴェーサーリーの人々はとくに世尊に感謝し、帰依し、その教えを聞くことを喜びとしていました。お釈迦さまもしばしばここを訪れられ、法をお説きになった懐かしい土地です。 今度この地に来られたとき、雨期が始まりました。前にも書いたように、雨期の約三カ月のあいだは道も田畑も水びたしになり、旅をすることはできません。そこで一ヵ所にとどまって、いわゆる夏安居(げあんご)という修行をするのが教団のしきたりになっていました。 ところが、この年はあいにくたいへんな凶作で村々は食糧不足に苦しんでいました。そこでお釈迦さまは、比丘たちをヴェーサーリーの知人の家に分宿させ、ご自分は阿難と共にヴェルヴァーナ(竹林)という村で夏安居に入られたのでした。 もちろんこの村も食糧に困っており、ついには馬の飼料を召し上がらねばならなくなりました。おそろしい暑熱と湿度の高い季節でもあり、ひどく胃腸をそこなわれ、死ぬほどの苦しみをなさいました。しかし世尊は、比類のない精神力をもってその重病を克服されたのです。ホッとした阿難が、 「ああ、世尊のご病気が重くあらせられたときは、目の前が真っ暗になる思いでございました。ただ、教団の今後について何か遺言をなさらないうちは入滅されるはずがないと思っておりましたが……」と申し上げますと、 「わたしはすでに余すところなく法を説いた。もうわたしを頼りにすることはない。これからは各自が自らを灯(ともしび)とし、自らを依りどころとし、法を灯とし、法を依りどころとして修行しなければならないのだ」 と、有名な「自灯明・法灯明」の教えをお説きになったのでした。 象のごとく眺められた ある日、世尊は阿難を連れてヴェーサーリーの町に托鉢に行かれ、帰って食事をすまされると、 「阿難よ。日中の休息をとるためにチャーパーラ霊樹のもとへ行こう」とおおせられました。そして、神聖な木といわれるその大樹の木陰に座具を敷いてお休みになりました。そのとき次のような感想を述べられたといいます。 「阿難よ。ヴェーサーリーは楽しい。ヴデーナ霊樹は楽しい。バフブッタ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい」 そしてまた、こうもおおせられたとあります。 「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と。(中村元著『ゴータマ・ブッダ』より) お釈迦さまはご入滅の日の近いのをハッキリ予知されていたそうですが、現世に対するこうした楽しく明るい、そして肯定的な回顧をなさったことに、あらためて深い感銘を覚えざるをえません。 さて、いよいよヴェーサーリーを去られる日がきました。お釈迦さまは、象が眺めるように(と仏伝には記されている)ヴェーサーリーの町のたたずまいを眺めながら、おおせられました。 「阿難よ。これはわたしがヴェーサーリーを見る最後の眺めであろう」と。 これはまた、違った響きをもってわれわれの胸にしみこむ、人間味あふれるお言葉ではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊70
【機関紙誌】
阿難へ感謝のお言葉
人間釈尊70
阿難へ感謝のお言葉
1
...人間釈尊(70) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿難へ感謝のお言葉 刻々と死に近づきながら ヴェーサーリーに別れを告げられてから、世尊はバーヴァー村の金属細工人チュンダ所有のマンゴー林に足をとどめられました。 チュンダは敬虔(けいけん)な信者でしたので、大喜びで世尊をお迎えし、世尊も――『道に生きる者』『道を説く者』がこの世で最も尊い存在である――という教えをねんごろにお説きになりました。 ところが、ここで思いがけないことが起こりました。チュンダがご供養申し上げた食事の中に、世尊だけに特別にお出ししたキノコ(一説には豚肉ともいう)がありましたが、そのキノコにあたって中毒にかかられた世尊は猛烈な腹痛を起こされ、激しい下痢をなさったのです。 それでも、その苦痛を耐え忍びながら、クシナーラへと出発されたのでした。しかし、いくらもお歩きにならないうちに、 「阿難よ。わたしは疲れた。わたしは座りたい。上衣を四つにたたんで敷いておくれ」と命ぜられました。座られるとすぐ、 「阿難よ。水を持ってきておくれ。わたしはのどが渇いている。水が飲みたい」 とおっしゃるのです。近くの河からくんできてさしあげると、おいしそうに飲まれてから、 「さあ、これからカクッター河のところへ行こう」 と阿難をうながして歩き出されました。そしてカクッター河にたどりつかれると、流れに入って水浴され、また水をたっぷりお飲みになりました。 そして岸に上がられると、「わたしは横になりたい。上衣を四つ折りにして敷いておくれ」と命ぜられるのでした。前には「座りたい」とおっしゃり、今度は「横になりたい」とおっしゃったことからも、体力が急速に衰えつつあったことが如実にうかがわれます。こうして、バーヴァーからクシナーラまではわずか数キロの道のりなのに、二十五回もお休みになったといいます。 その苦痛のなかから、 「阿難よ。そなたはチュンダの所へ行って、食事にキノコを出したことをくれぐれも後悔しないように言っておくれ。わたしの成道の因をつくってくれたスジャータの乳粥(ちちがゆ)と同じように、チュンダの供養した食事によって無余涅槃界(肉体さえも残さない絶対平安の世界)へ入ることができるのだから、最大の功徳なのだ……と、そう伝えるのだよ」 と命ぜられました。その深い思いやりのお言葉に人間釈尊のお徳の結晶があると言っても、けっして言い過ぎではないでしょう。 阿難よ、よく仕えてくれた クシナーラ村に入られた世尊は、阿難に、 「さあ、わたしのために、サーラ双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いておくれ。わたしは疲れた。横になりたい」 とおいいつけになりました。いよいよご臨終の時が近づいたのです。阿難は悲しみのあまり、お床の傍らで激しくしゃくりあげていました。すると世尊は、 「阿難よ。泣くのはやめなさい。わたしがいつも教えていたではないか。愛するものや好むものとも必ず別れなければならない。生じたもの、存在するものは必ず滅するものだ……と……」 それから言葉を改められ、 「阿難よ。そなたは長いあいだわたしによく仕えてくれた。そなたは善いことをしたのだよ。これからも努めはげむことだ。必ずすべての煩悩を除き尽くした身になるだろう」 と優しくおおせられたのでした。 阿難がどんな気持ちでそのお言葉を聞いたか、察するに余りがあります。 そのとき、クシナーラには夕暗が迫りつつありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊71
【機関紙誌】
大いなる人は去ったが
人間釈尊71
大いなる人は去ったが
1
...人間釈尊(71) 立正佼成会会長 庭野日敬 大いなる人は去ったが 臨終に際しても説法 その夜、クシナーラの町に住むスバッダという異教の修行者が、ぜひお釈迦さまの教えを聞きたいとやってきました。 阿難が、もうご臨終が間近いのだから世尊をわずらわしてはならないと断りますと、「だからこそお命のあるうちにお目にかかりたいのです。わたくしには大きな疑問があるのですから……」と言って動きません。 そのやりとりをお聞きになった世尊は、 「阿難よ。道を聞きに来た人を拒んではならない。通しなさい」 とおおせられました。スバッダはお床の近くへにじり寄ると、まず多くの宗教家の名前を次々に挙げ、 「こういう人たちは、教団を持ち、多くの弟子や世間の大衆に崇敬されていますが、かれらは自分の知恵で悟っているのでしょうか。あるいは悟っていない者もいるのではないでしょうか」 と、お尋ねしました。すると世尊は、 「そんなことは問題にならない。スバッダよ。ある宗教において、ものごとを正しく見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しい生活をし、正しい努力をし、正しい方向へ向けて思念し、正しい瞑想をして不動の心境に達するという八つの聖なる道を教えない者は、それは『道の人』とは言えないのだよ」 と、お説きになりました。スバッダは目が覚めたようになり、お弟子に加えていただきたいとお願いし、特に入門を許されました。彼がお釈迦さまの最後のお弟子となったのでした。 思えば、お釈迦さまが鹿野園で五人の修行者に初めて法をお説きになったときも、この八正道の教えをお説きになり、ここで最後にお説きになったのも、やはり八正道だったのです。ということからしても、仏教の実践面の教えは――布施ということ以外は――この八正道に集約されていると断じても差しつかえないでしょう。 限りなく懐かしい人 さて、夜もしんしんと更けてきました。お釈迦さまは阿難に向かって次のような遺言をなさいました。 「わたしが死んだからといって、『自分たちの師はいない』などと考えてはならない。わたしが説いた教えと、わたしが制定した戒律がそなたたちの師である。ただし、細かい戒律の項目は、教団のみんなの同意があれば廃止してもよろしい」 お釈迦さまはしばらく沈黙しておられましたが、再び口を開いておおせられました。 「さあ、比丘たちよ。質問はないか。あったら今のうちに聞いておきなさい。わたしが死んでから、聞いておけばよかったと後悔しないように……」 しかし、だれひとり質問を発する者はありませんでした。そこでお釈迦さまは、 「では比丘たちよ。すべてのものごとは移り行くものである。怠らず努力するがよい」 そして、優しいおん目で比丘たちを見回されてから、静かに、安らかに、息をお引き取りになったのでした。まことに「大いなる死」でありました。 長部経典に、お釈迦さまのお人柄を集約して、こう記されています。(中村元先生訳による) 「修行者ゴータマは、実に『さあ来なさい』『よく来たね』と語る人であり、親しみのあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色ははればれとし、自分のほうから先に話しかける人である」 われわれは、仏としての世尊を限りなく尊崇すると同時に、人間釈尊として無限の懐かしさを覚えざるをえないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊72
【機関紙誌】
仏塔から生まれた法華経
人間釈尊72
仏塔から生まれた法華経
1
...人間釈尊(72) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏塔から生まれた法華経 比丘は葬儀にかかわるな お釈迦さまがクシナーラの沙羅の木の下で偉大なる死を遂げられると、土地の住民であるマルラ族が、そこから一キロばかり離れた、同族が聖なる地としている場所まで野辺の送りをし、そこで火葬に付し奉りました。 なぜお弟子たちがそれをしなかったかといいますと、お釈迦さまのご遺言によるものなのです。ご臨終が近づいたとき、阿難が、「ご遺体をどうしたらいいのでしょうか」とお尋ねしたところ、世尊は、 「阿難よ。そなたたちはそのようなことに心を煩わしてはならない。比丘というものは最高の善に向かって努力するのがつとめなのだ。わたしの遺骸は、わたしに帰依している世俗の人々が処置し、供養してくれるだろう」 とおおせられたのでした。 それにしても、――わたしの遺骸は林の中に捨てて鳥や獣に食わせてくれ――とか、――灰をガンジス河に流してくれ――とかおっしゃらなかったところが、あくまでも「中道」の人であったお釈迦さまらしいと思われてなりません。 さて、ご入滅を聞いたマガダ国のアジャセ王や、ヴェーサーリー国のリッチャビ族や、カピラバストの釈迦族をはじめ、七つの国や部族たちがご遺骨を渡してくれと要求してきましたが、クシナーラのマルラ族は頑としてはねつけ、争いが起ころうとまでしました。そのとき、あるバラモンが仲裁に入って仲よく分骨することになり、それぞれが仏舎利塔を建ててお祀りしたのでした。 師の最高の遺産・法華経 そこまでは、お釈迦さまは大衆の心の中にしっかりと住んでおられたのですが、だんだん年月がたつにつれ、仏の教えを受け継いだ比丘たちが世間から離れて寺にこもり、自分の解脱のみを目的とした修行に専念するようになりました。 百年たち、二百年たつと在家の信仰者たちはお釈迦さまが懐かしく、恋しくてたまらなくなりました。そこで、富裕な商人(長者)たちを中心として仏塔を建て、そのまわりに集まってお釈迦さまをしのび、お残しになった教えをおさらいしました。 そして、一般民衆のみんなが一緒に救われるというのがお釈迦さまのご精神だったのだ……として、さまざまな経典を編集し、それを大乗(大きな乗り物)の教えだと唱え、比丘たちの守っている教えを小乗(小さな乗り物)とさげすみました。それに対して比丘たちは――おまえたちの経典は世尊の教えとは違う――といって反論し、論争がはてしなく続きました。 そのとき、仏塔礼拝者の中から、――いや、お釈迦さまの教えには小乗も大乗もない。ただ一仏乗しかないのだ――と主張する一団が現れ、お釈迦さまが最晩年に霊鷲山で説かれたこの教えこそがその一仏乗の教えだとして編集したのが、法華経にほかならない……といわれています。 そういえば、後世にはお釈迦さまが「この世は苦だ」とお説きになったことだけが増幅され、前(69回)に書いた「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」とおおせられたような一面はすっかり忘れられているようです。 その点、法華経は明るい人生肯定の経典で、お釈迦さまのみ心の底の底にあったお気持ちをよく表していると思われてなりません。お釈迦さまが悟りをひらかれた瞬間につぶやかれたという「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生みな如来の徳相を具有す」という言葉を思い出してみますと、そのことが胸に落ちるようにわかります。 お互いさま、師がお残しになった最高の遺産である法華経を、いのちと魂の糧として、この世を明るく元気よく生きていこうではありませんか。 (完) 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
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