「宗教協力」の柱
「政教分離」という問題は、人類が長い間の経験の中から「権力」と「権威」の二つを握ったら大変なことになる、ということから「政教分離」があり、「政教分離」というものに付随して「信教の自由」があるわけです。この「信教の自由」と「政教分離」というような、どこの国へもっていってもあてはまるようなものでないと、宗教協力はできないわけで、柱は四つなのです。四つなんだけれども、煎じ詰めると一つになるのです。「政教分離」で「信教の自由」で、そして公平な目で、どこの国の宗教でも宗教というものができるのには、できるだけの因縁があってできている、というように見ていくわけです。よその宗教はけなして、「自分の宗教だけがよい」という考えでは、宗教協力はできないわけなのです。
日本の神道というものの性格は、八百万の神を祀るということで、一つの神さまでなく、いろいろなものを皆拝んで、すべてのものの生命というものを尊ぶ、形のあるものはすべて生命があるわけだから、その生命のあるものを皆尊ぶ、というその心境にあるわけです。
この神道の教義というものがあるところに、仏教というものが今より千四百年ほど前に入ってきた。入ってきたところが、仏教というものは、日本の八百万の神と、その教義と同じ意味のことが、もっと教義的に明文化されて、お祀りする方法から、われわれがいろいろの行事をする方法から、すべてのものが実によく整っていたのです。
ですから日本人は、それを見た時に「これは私共の信じていた八百万の神を拝むのと、何ら変わりなくて、しかも高尚で理論的で、合理的に実によく、疑る余地もないようだ」と、そこで日本人は利口ですから、たちまち受け入れて日本の宗教の神さまと仏さま、神仏一体になった。そして幸せなことに、神仏一体という言葉で日本人は表しているように、「神さまだ」「仏さまだ」と分離して、「どうだ、こうだ」と理屈を言わない国民です。
そういう考え方でないと、国民皆信仰にもなれないし、宗教協力も不可能なのです。その基(もと)はというと、「信教の自由」と「政教分離」ということが基礎にないとできないわけです。
「靖国法案」の廃案
「靖国神社を天皇陛下がお参りしたり、総理大臣がお参りしたりするのを、公に堂々とやって欲しい」という遺族会の方の言うことも悪いことではないんです。ここに祀られている御霊は、国家のために戦死した人々ですから、私共も決してお参りすることに〝やぶさか〟ではないのです。
ところが、日本の政治家とか、日本の天皇陛下とかがお参りしたということになりますと、そこのところだけ特別の宗教ということになり、信教が自由でなくなってくる。権力者がそこへお参りするのに、ちゃんと予算を取ってお参りをする、ということだと、これはうまくない。これを私共は、いつもそういう問題が起こるたびに、政治家に向かって十年間説明してきたのです。それが今日まで、靖国法案が五回も廃案になって流れている現状となり、「政教分離」が保たれてきたのです。