目連尊者のお母さんの教訓
本日は盂蘭盆会、誠におめでとうございます。たいへん永い梅雨が続きましたが、さすがにお盆ともなりますと、お天気もこのように恵まれまして、みなさまのご参拝にもたいへんによかったと思います。
お盆をむかえますと、毎年のことでございますが、目連尊者のお話がいつも出てくるわけでございます。このお話も、もうみなさんは耳にタコができるほど、充分お分りのことと存じますが、人間のすべてを代表して、慳貪の罪というものを目連尊者のお母さんの話になぞらえて、現代のわれわれにも教えてくださっているようであります。
世界中が物騒な時代で、いつ、どうなるか分らない。ある一面からいうと、特に日本などは自由で、物も充分あって、まことに幸いといえば、これほどの幸いはないのじゃないかと思うのであります。ところが大衆はいっこうに安心がつかない状態にある。そういう状態を考えまして、どうしてこういうことになっているのかと、もういっぺん問い返してみると、いいと思うんであります。
その帰するところは、この盂蘭盆会の起こりのように、どうしても自分のこととか、自分の家族とかという、まことにみみっちいことばかりに全力を注いでしまって、人のためとか、社会のためとか、世のためとかということを考えない。そしてその行きつくところはというと、物があっても思想が自由であっても、なおかつ安心がつかない。こういう状態になっておるわけであります。
先般、アジア太平洋地域の宗教者が集まって、まずアジアのもっておるいろいろなトラブル──そういうものに対して、宗教者はどのようなことをしなければならないか、また何をなし得るかという問題で「アジア宗教者平和会議」の準備会をシンガポールで開いたわけであります。
シンガポールへ行ってみますと、東京の人口の五分の一しかないんですね。そして非常に政治家が大衆から信頼されているんです。恐らく今アジアで、政治家を信頼している国は、シンガポールだけじゃないかなあと、私この間行って、日本の大使からも話を聞いて、感じたわけであります。
今、アジアの宗教者が集まって平和会議を開こうという考えで、事を進めているわけです。アジアが治まらないと、世界が治まらない。そういう意味で非常に大切な会議じゃないかということで、是非開きたいという念願をもってまいったわけであります。