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人間釈尊52

戒律も柔軟に合理的に

1 ...人間釈尊(52) 立正佼成会会長 庭野日敬 戒律も柔軟に合理的に 病人は葫を食べてよい  釈尊教団にはたくさんの戒律がありました。毎度説明しますように、「戒」というのはもともと「良い生活習慣」という意味で、それを身につけることによって次第に人格を向上せしめようという目的の定めでした。「律」というのは教団の秩序と、清潔と、平和を維持するための掟(おきて)でした。  その「律」にしても最初から制定されたものではなく、比丘たちの中でよくない行為をしたものがあるごとに、世尊が「今後こんなことをしてはならぬ」と戒められたことから起こったもので、いわば自然発生的な掟だったのです。  それだけに、一部の基本的な「律」は別として、日常生活に関する細かい定めはけっして絶対的なものではなく、お釈迦さまは時と、人と、場合に応じて一時的にお許しになったり、永久的に改変されたりしました。そのように、大変柔軟で合理的なお心の持ち主でもあられたのです。その二、三例をあげましょう。  ある比丘がやせこけて寝込んでいるのをごらんになった世尊が、  「どうしてそんなにやせ衰えているのか」  とお尋ねになりますと、  「どうにも食欲がないのでございます」  「何か特別に食べたいものはないかね」  「わたくしは俗人でしたころ葫(ニンニク)を常用しておりましたが、こちらでは禁止されておりますので……」  ニラとかネギとかニンニクの類は強精作用があって修行を妨げるのでタブーとなっていました。しかし、体力の衰えた病比丘となれば、それがプラスに作用することを世尊はちゃんとご存じだったのです。そこで、即座に全教団に布令されました。  「今日より病比丘に限ってニラ・ニンニクの類を食することを許す」と。 温かい慈悲と透徹した智慧  世尊が鹿野苑に滞在しておられたときのことです。比丘の中に病人が続出し、六十人にも達しました。在俗のとき医師だった比丘がいて、懸命に看護していましたが、肝心のその医比丘が疲労こんぱいしてしまいました。お釈迦さまが心配され、  「そなたが寝込んだら病人たちが困る。なにかそなたが過労に陥らない手だてはないものかね」  と尋ねられました。すると、  「けっして看病疲れではございません。ここからハラナイ(ベナレス)の町までは半由旬(はんゆじゅん=約二キロ)ありますが、毎日薬を求めに行くのに疲れるのでございます」  という答えでした。  「そうか。薬は買いためて何日ぐらい保(も)つものかね」  「生酥(ミルク)・酥(チーズ)・油・蜜(みつ)などの類ですから、七日間は保ちます」  教団の掟としては、食物を蓄えることを固く禁じていました。物に対する執着心を起こさせないためだったのでしょう。しかし、六十人もの病人を助けるためとなれば話は別です。世尊はただちに、  「病気の比丘のための薬は七日間に限って蓄えることを許す。ただし、七日を過ぎたら残りは必ず捨てること。けっして服用してはならぬ」  と命ぜられました。  お釈迦さまは仏陀であると同時に、あくまでも人間であられました。そして、人間を限りなく愛するお方でありました。とりわけ、病者をいたわる慈悲心はことさら深かったようです。  その慈悲心も、透徹した智慧に裏打ちされたものであったことに、われわれは深い感銘を覚えざるをえません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊53

初めて五戒を授けられた人

1 ...人間釈尊(53) 立正佼成会会長 庭野日敬 初めて五戒を授けられた人 人間はこうあるべきだ  ダンミカは非常に熱心な在家信者でした。あるとき五百人もの仲間を連れて祇園精舎にお参りし、お釈迦さまに、在家の仏教者はどういう生き方をするのが最高であるかをお尋ねしました。お釈迦さまは次のようにお説きになりました。  「第一に、生きものを殺してはならない。他の人に殺させてもならない。また、人が殺すのを容認してもならない。  第二に、与えられないものを、他の人の物と知って、これを取ってはならない。また、他の人が盗むのを容認してはならない。  第三に、性行為を慎むことである。すくなくとも、他人の妻と通じてはならない。  第四に、集会の中で、あるいは人と対しているとき、嘘(うそ)を言ってはいけない。人びとが嘘を語るのを容認してはならない。  第五に、酒を飲んではならない。人に飲ませてもよくない。(薬として飲む酒は除くとして)酒は人を狂わせるからである」  そのほかにも、いろいろと教えられましたが、最後に、  「正当な商売をしなさい。そうして正しく得られた財をもって父母を養うことである。以上のように行じて放逸を慎むならば、死んでから自光(自ら光を放つ)という神々の住む天界に生まれるであろう」  と締めくくられました。  これは、最も古いお釈迦さまの言行録であるスッタニパータに記録されていることですから、俗人への戒めの原点である五戒を初めてうかがったのは、おそらくこのダンミカでありましょう。 臨終のダンミカ  そのダンミカはどのような一生を送り、どんな死を迎えたか。中村元先生著『人間釈尊の探求』にはこう述べられています。  ダンミカは仏の教えをよく守り、毎日のように修行僧のために食事や日常用品を布施し、また、妻や子も深く仏教を信じていたので、円満で幸せな生活を送っていました。  そのうち病を得てそれが重くなり、いざ死に臨もうとしたとき、お釈迦さまにお願いして修行僧に枕元で心の静まるお経を読んでもらいました。お経が始まるとダンミカは、  「待ってくれ、待ってくれ」  と叫ぶのでした。妻や子たちは、「ああ、どんなに仏教を信じていても、やっぱり死ぬのは恐ろしいのか」と、嘆き悲しみました。ダンミカがそう叫んだきり息を引き取ったように見えたので、修行僧は読経をやめて帰って行きました。  そのとき、いままで意識のなかったダンミカがふっと息を吹きかえし、妻や子たちが泣いているのを見て、「どうしたのか」と尋ねましたので、「あなたが、待ってくれ、待ってくれと叫び声をあげたので、やっぱり死ぬのは怖いのだろうと思って泣いていたのです」と答えました。するとダンミカはこう言ったのです。  「そうではない。読経が始まるとすぐ天人が枕元にやってきて『私たちの世界は楽しいですよ。早くいらっしゃい』と声をかけたのだ。だけど私は、もっとお経を聞いていたかったから、『待ってくれ、待ってくれ』と言ったんだよ」  そう言い終えると、静かに大往生を遂げました。ダンミカは兜率天(とそつてん)に生まれたということです。ともあれ、ダンミカこそは在家仏教徒の最高の典型だと言っていいでしょう。  なお、この五戒は、混乱を極めた現代において新しく見直さなければならぬ戒めであると、わたしは信じています。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊54

懺悔は大いなる善

1 ...人間釈尊(54) 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔は大いなる善 舎利弗を讒訴した比丘  お釈迦さまが成道されてから四十年ほどたったころの出来事です。夏安居(げあんご=雨期の三ヵ月間一ヵ所にとどまってする修行)を終わった舎利弗が、お釈迦さまのお許しを得て布教の旅に出かけました。  舎利弗が祇園精舎を出て行った直後に、一人の比丘がお釈迦さまのもとへ来て、  「世尊。舎利弗長老は私をさんざん侮辱して旅に出ました」  と申し上げました。世尊は傍らにいた比丘に、  「急いで舎利弗を呼び返しなさい」  と命じられ、阿難に、  「すべての比丘たちに、これから舎利弗が説法をするから講堂に集まるように伝えなさい」  と言いつけられました。  一同が講堂に参集した時、舎利弗も戻ってきました。お釈迦さまは舎利弗を正面に座らせて、お尋ねになりました。  「そなたが出かけたあと、一人の比丘が来て、そなたにさんざん悔辱されたと告げたが、それは本当か」  舎利弗は立ち上がって深々と一礼し、  「世尊、私は今年八十歳になろうとしておりますが、殺生したおぼえもなく、嘘をついたことも、他人の悪口を言ったことも、記憶にございません。もしそんなことがあったとしたら、ずいぶん心が乱れていた時のことでしょう。しかし、きょうは夏安居を終えたばかりで、心は澄み切っております。どうして他人を悔辱などすることがありましょう。世尊。大地はどんな不浄な物でもそれを受け、逆らうことをしません。大小便でも、痰(たん)や唾(つば)でもそれを拒否しません。世尊。水はよいものでもよくないものでもそれを受け入れて洗い清めます。きょうの私はそのような気持ちでおります。もし誤ってある比丘を悔辱したのであれば、この場で彼に懺悔いたしましょう」  真心からほとばしる舎利弗の熱弁に、並み居る一同深く感動しました。例の比丘は、真っ赤な顔をしてうつむいていました。 懺悔は仏法の一大事  お釈迦さまはその比丘に対して、  「いまの言葉を聞いたか。そなたこそ懺悔しなければならないのではないか」とおっしゃいました。その比丘はブルブル震え出し、  「世尊。悪うございました。どうぞわたくしの懺悔をお受けくださいませ」  「いや、わたしにではなく、舎利弗に向かって懺悔しなければならないのだ」  そこで、その比丘は舎利弗の足に額をつけて礼拝し、涙ながらに言うのでした。  「私は、あなたがあまりにも智慧にすぐれ、世尊のご信頼が厚いのに妬(ねた)み心を起こし、ついに讒言(ざんげん)の罪を犯してしまいました。どうぞお許しください」  舎利弗は、その比丘の頭を優しくなでながら、  「懺悔は仏法の中でも最も大切な行いの一つで、広大な意義を持つものです。過ちを懺悔することは大いなる善です。よく勇気を出して懺悔しましたね。わたしはあなたの懺悔を快く受けますよ」  と言いました。  お釈迦さまはお口もとに微笑を浮かべながら、その光景を眺めていらっしゃいました。そして、美しいその結末をごらんになって、何度もうなずかれたのでした。  じつはお釈迦さまは、初めからその比丘の訴えが嘘であることを承知していらっしゃったのです。しかし、ちょうどいい機会だとお考えになり、わざわざ一山の大衆を集めて懺悔ということの尊さを見せしめられたのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊55

舎利弗と羅睺羅の忍辱も

1 ...人間釈尊(55) 立正佼成会会長 庭野日敬 舎利弗と羅睺羅の忍辱も 異教徒に打たれた舎利弗  舎利弗がお釈迦さまのお弟子になってから間もないころのことです。一緒に入門した親友の目連と霊鷲山の洞窟にこもって修行をしていましたが、ある日、舎利弗が外へ出たところへ、カタという鬼とウパカタという鬼(雑阿含経の本文には「鬼」とありますが、おそらく凶悪な異教徒だったのでしょう)が現れて、ウパカタのほうがいきなり舎利弗をなぐりつけました。舎利弗の顔が一瞬ゆがんだほどの怪力でした。  物音を聞きつけて目連が飛び出してみると、舎利弗が顔をおさえています。  「どうした……」  「うん、ウパカタになぐられた」  「痛いだろう。大丈夫か」  「ものすごく痛いが、平気だよ」  「舎利弗、君はすごいね。あの鬼が岩を打てば岩は糠(ぬか)のように砕けると聞いている。それなのに大した傷も受けず、平気でいる。君の徳の力が偉大なことの証拠だよ」  と目連は賛嘆しました。  後でこのことを聞かれたお釈迦さまは、次のような偈を詠まれて舎利弗をおほめになりました。   心、金剛のごとく   堅くして動かず   己れに執(しゅう)する心なければ   怒って打つ鬼の力も及ばず   かくのごとく心を修むれば   苦痛も何であろうか 忍辱ほど快いものはない  後年、お釈迦さまがひとり子の羅睺羅を出家せしめられた時、幼い羅睺羅を舎利弗に預けられたのは、舎利弗がたんに「智慧第一」といわれるほど頭脳明晰だったばかりでなく、このような「徳の人」でもあったからでありましょう。  因縁の不思議といいましょうか、その羅睺羅も養い親と同じような目に遭ったことがあるのです。  ある朝、羅睺羅は舎利弗のあとについて王舎城の町を托鉢していました。すると、一人の男が飛び出してきて舎利弗の鉢の中へ砂を投げ入れ、十歩ばかり後ろを歩いていた羅睺羅の顔をなぐりつけました。当時まだ新興宗教だった仏教の修行者は、往々にしてこうした暴行を受けたのです。  舎利弗が振り返ってみると、眼の上あたりが切れて血が流れています。逃げて行く悪者を追いかけようともせず、すぐ羅睺羅の所へ駆け寄って舎利弗は、  「痛かっただろう。だがね、世尊の弟子であるからには、どんなことがあっても怒ってはならないんだよ。いいかね」  「ハイ」  「世尊はいつも、慈しみをもって衆生を憐れめとお教えになっておられる。そして『忍辱ほど快いものはない』と仰せられている。いいかね、怒りながら我慢するのはほんとうの忍辱ではない。忍辱は快いものだとおっしゃる世尊のご真意を悟らなければいけないよ」  「ハイ。よくわかります」  羅睺羅は小川の流れで血に汚れた顔を洗い、澄んだ眼で舎利弗を見上げながら言いました。  「わたしはあの人を気の毒に思います。あの人は不幸から不幸への暗い道をたどって行くに違いありません。あんな無法な人をどうしたらいいのか、それがわからずに残念です」  羅睺羅の立派さは、もちろん舎利弗の教化の賜です。しかし、われわれはさらに二人の師であるお釈迦さまの偉大さをしのばずにはおられません。とりわけ「忍辱ほど快いものはない」の一語、これほど宗教者の特質を表したことばはないと言ってもいいでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊56

峻厳な一面もあられた

1 ...人間釈尊(56) 立正佼成会会長 庭野日敬 峻厳な一面もあられた 不公平の黙過をご叱責  お釈迦さまの舎利弗に対する信頼は絶大なものがありました。しかし、あくまでも理性の人であったお釈迦さまは、舎利弗がどんなことをしようともとがめ立てしないといった、愛情におぼれるようなことはなさらなかったのです。  わたしが調べたかぎり、舎利弗がお釈迦さまに厳しく注意されたことが二回ほどあります。  その一つは、ある日、舎利弗を最上座とする比丘の一行が信者の家に招待された時のことです。帰ってきた沙弥(しゃみ=少年僧)にお釈迦さまが、  「どうだったか。みんな満足に施食を受けたか」  とお聞きになりますと、  「満足の者もあり、不満足の者もございました。上座の比丘たちにはおいしいごちそうが出ましたが、わたくしども下座の者には胡麻の搾り粕と菜を煮合わせたのと米の飯だけでした」と、少年らしく率直に答えました。  お釈迦さまはすぐ舎利弗をお呼びになり、  「最上座のそなたが、信者の不公平なもてなしを黙過するとは何事であるか」とお叱りになりました。  舎利弗はただただ恐れ入って引き下がり、食べてきたばかりのごちそうを吐き、ひそかに懺悔の真心を表したのでした。 論難すべきは論難せよ  もう一つは、提婆事件に関することです。提婆達多は、国王アジャセの支援もあって、相当数の弟子たちを引き連れてお釈迦さまに背き、別派を立てようとたくらんでいました。そして、教団内に混乱を起こすことを目的として、次のような戒律の改革案を提出しました。 一、比丘は林中に住み、都市の付近に住んではならない。 二、比丘は信者の食事の招待を受けてはならない。 三、比丘は終生ボロをつづった衣を着るべきで、信者の献じた衣を着てはならない。 四、比丘は樹下に眠るべきであって、家の中に寝てはならない。 五、比丘は魚鳥の肉を食してはならない。  しかし、お釈迦さまは――大勢の比丘の中には元気な者もおれば病気がちの者もおり、全部が全部そのような厳しい生活ができるものではない。仏道は心の解脱をこそ求めるものであるから、あまり形式にこだわることはない。戒律も比丘らしい生活から逸脱しないためのものであって、あまり束縛をきつくするとかえって道を求める気持ちを委縮させることになる――というお考えでした。  そこで舎利弗をお呼びになって、  「提婆達多の所に行って、この五則は仏道修行にふさわしくないと徹底的に論破してきなさい」  と命ぜられました。舎利弗はいつになくもじもじしています。  「どうしたのか。何か異論でもあるのか」  「いいえ。世尊の仰せのとおりでございますが、じつはかねがねわたくしは提婆達多の才能を褒めたたえておりましたので、どうもバツが悪いのでございます」  と申します。するとお釈迦さまはキッとしたお顔で、  「褒めるべきことは褒めるのが道理であり、論難すべきことは論難するのが道理である。行ってきなさい」  と決然と仰せられました。舎利弗は一言もなく恐れ入って出掛けて行き、使命を果たしたのでした。  お釈迦さまには、こうした秋霜烈日のごとき一面もあられたのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊57

仏縁の種子はいつか芽ぶく

1 ...人間釈尊(57) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏縁の種子はいつか芽ぶく 有名なウパカの後日譚  霊鷲山のあるマガダ国の南方にヴァンカハーラという地方がありました。文化の低い土地で、住民はたいてい野獣を狩り、その肉を町へ売りに行って生活していました。  その土地へウパカという修行者が遍歴してきました。民度は低くても宗教の修行者を大事にする土地でしたので、しばらくそこにとどまっているうちに、猟師のかしらの娘チャーパーに熱烈な恋をし、修行を捨ててその娘と一緒になったのです。  入り婿となった彼は、義父が狩りをしてきた獣の肉を町へ売りに行かされていましたが、そのうち子供ができました。妻のチャーパーは、赤ん坊が泣くと、こんな子守唄をうたうのでした。(渡辺照宏師訳による)   ウパカの子供   坊さんの子供   肉屋の子供   泣くのはおよし  いくら婿養子の身とはいえ、妻にこのような侮辱を受けてはたまりません。清浄の身であった修行者時代を振り返っては、物思いにふける毎日でした。  ある時ふと思い出したのは、ずっと以前に会った聖者のことです。ガヤ近くの道を歩いていた時、いかにも神々しい姿の沙門とすれちがいました。思わず呼び止めて、  「あなたは清らかな顔をしておられるが、だれを師として出家し、どのような教えに帰依しておられるのですか」  と尋ねると、その沙門は決然として答えました。  「わたしは一切知者であり、一切勝者である。一切の煩悩を滅し尽くして解脱した者である。自ら悟りを開いたのであり、この世に師はなく、わたしと等しいものはない。わたしは仏陀である」  ウパカは、半ば驚き、半ばあきれて、  「あるいはそうかもしれん」  と言い捨て、首をかしげながら歩み去って行きました。  これは、お釈迦さまが成道直後、五比丘に法を説こうと鹿野苑へおもむかれた途中の出来事で、世界で最初に仏の教えを聞くチャンスを失ったことで有名な、あのウパカがこのウパカなのです。 蒔かれた仏縁の種子は  ――いま世に名高い釈迦牟尼という聖者はきっとあの方に違いない――そういうひらめきを覚えたウパカは、お目にかかって教えを受けたいと思い立つと、もう矢も盾もたまらなくなりました。その決心を妻に告げたところ、チャーパーはさすがに自分の非をわび、思いとどまってくれと懇願しましたが、それを振り切って祇園精舎へと旅立ったのでした。  祇園精舎に着いたウパカは、仏前に出て、  「世尊。わたくしを覚えていらっしゃいますか」  「覚えている。ガヤの付近で会ったね。あれからどうしていたのか」  「はい、あちこちを遍歴しまして、最近はヴァンカハーラで俗人となっておりました」  「年をとったようだが、また出家する気があるかね」  「はい、出家いたしとう存じます」  こうして入門したウパカは一心に修行を続け、澄みきった解脱の境地に達することができました。ガヤ付近で言葉を交わした時はそっけなく別れてしまったのでしたが、仏縁というのは不思議なもので、こうしてついにはまことの師弟となり、まことの幸せを得ることができたのでした。  なお、チャーパーは、子供を父に預けてウパカの後を追い、これまた仏門に入って立派な尼僧となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊58

砂の供養を快く受けられた

1 ...人間釈尊(58) 立正佼成会会長 庭野日敬 砂の供養を快く受けられた 世尊の鉢の中に砂を  ある朝お釈迦さまは阿難を連れて王舎城に托鉢に出かけられました。  城門を入るとすぐに少しばかりの広場があり、周りにはニグルダの木やセンダンの木が茂っており、双思鳥が美しい声でさえずっています。  その広場のまん中で二人の子供が砂遊びをしていました。ジャヤという子とビジャヤという子でした。  無心に砂いじりをしていたビジャヤがふと目を上げると、見るからに神々しい沙門が鉢を持って歩いて来られます。そのお顔からは金色の光が差し渡っているように見えました。  「あ、仏さまだ」  ビジャヤは直感しました。  「何か供養申し上げなければ」  そう思ったビジャヤは、両手に砂をすくい上げると、お釈迦さまの鉢の中へ入れ、手を合わせて拝むのでした。そして、かわいい顔を真っすぐにお釈迦さまの方へ向けて、きれいな声で偈(げ=詩)を詠んだのです。   仏さまのおからだからは   美しい光が出ています   仏さまのお顔は   金いろに輝いています   尊いお方よ   ここに砂をさしあげます   わたしをお救いくださいませ  お釈迦さまはニッコリとほほ笑まれ、快くその供養をお受けになり、静かに立ち去って行かれました。 子の無邪気と世尊の温かさ  阿難は世尊のお心をはかりかねながら、ついて歩いていましたが、とうとうたまりかねて、  「世尊は、いま砂の供養をお受けになり、ニッコリお笑いになりました。諸仏は何か特別な因縁があった時、お笑いになると聞いていますが、世尊はどうしていまお笑いになったのですか」  とお尋ねしますと、お釈迦さまは、  「わたしが入滅してから百年後に、この童子はパレンプ村に生まれて、姓を孔雀といい、名を阿育というであろう。のちに大王となって天下を治め、また仏の遺骨を広く分かち、八万四千の塔を建てて供養するであろう。そのことが見えてきたから微笑が浮かんだのである」  そうおおせられた世尊は、  「阿難よ。この童子が捧げた砂を竹林精舎の経行処(きょうぎょうしょ)にまいておくれ」  と命ぜられました。  これがアショカ大王出生の予言であると言われていますが、予言うんぬんはまずさしおくとして、このエピソードに現れた子供の無邪気な行為とお釈迦さまのお心の温かさに、限りない懐かしさを覚えずにはおられません。  と同時に頭に浮かぶのは、法華経方便品にある「万善成仏」の教えです。  昔ある童子が遊びの中で砂を集めて仏塔をつくった……その子はすでに仏道を成じた。  ある童子はたわむれに、木の枝や自分の指で砂の上に仏の絵をかいた……その子も次第に功徳を積み、大悲心を具えるようになって、ついに仏道を成じた。  このように、小さな仏縁がいつかは大きい実を結ぶのだということを、アショカ王出世の予言に託しておおせられたのではないかと、わたしにはそう思われてなりません。  いずれにしても、砂を差し上げた子供の純粋な心を微笑をもって受けられたお釈迦さまの人間味に、われわれの心もほのぼのと温かくなるのを覚えるではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊59

人間平等の思想は不滅

1 ...人間釈尊(59) 立正佼成会会長 庭野日敬 人間平等の思想は不滅 どの河の水も海に入れば  前(36回)の肥くみニーダの話の最後でも触れましたが、同じようなことがナンダの入門のときにも起こりました。  ナンダはお釈迦さまの異母弟で、浄飯王の後を継ぐべき王子でした。そのナンダが出家して入門するとき、教団のしきたりどおり、先輩の足に額をつけて礼拝していました。  その途中で、次の先輩の顔を見たとたん、ナンダは困惑の色を浮かべて立ちつくしてしまいました。その比丘がかつて奴隷階級の身だったウパリだったからです。  ウパリはカピラバストの理髪師でしたが、あるとき頭をそるお客が急に増えたので不思議に思って人に聞くと、シッダールタ太子が仏陀となって帰って来られ、そのたぐいなき人格を慕って出家する人が多いのだということ、しかも釈尊教団では身分の上下を問わず平等に扱われるのだと聞き、喜び勇んで入門したのでした。そうした事情もあり、ひたすら戒律を守って修行しましたので、ついに教団で「持戒第一」と認められるまでになったのでした。  そのことを知らぬナンダは、元奴隷階級だったウパリの足を拝むなんていくらなんでもできはしないという気持ちだったのです。その様子を見られたお釈迦さまは、  「ナンダよ。あのインダス河やガンジス河など四大河の水は、河にあるうちは別々だが、大海に流れこんでしまえば同じ海の水になってしまうではないか。そのように、俗世間には四つの階級があるが、わたしの所へ来たら階級の別なんかありはしない。みんな兄弟だ。さあ、ウパリの足を拝みなさい」  とおさとしになり、ナンダもお言葉に従ったのでありました。 インドで仏教が消えた理由  仏教がインドで興ったのにインドでは消えてしまった理由については、いろいろな説があります。  最も常識的なのは、イスラム教徒の侵入による仏教僧の殺りくと仏教文化財の潰滅ということです。しかし、その信仰が民衆の中に深く定着しておれば、日本における隠れキリシタンのようにどこかに残るはずであり、それさえなかったのは、あの酷烈な気候風土のもとに住む人にとって理性的な仏教の教義がふさわしくなかったのだ、という説もあります。  ところが、意外なことにもう一つ、このナンダがウパリの礼拝を嫌ったような感情の問題が潜んでいるという説も有力になっているのです。  カースト(身分階級)制は、今は憲法によって形式上はなくなっていますが、潜在的にはまだまだ牢固として残っています。例えば現在でも、ホテルで床(ゆか)の掃除をするボーイは決してベッドなどをいじることを許されません。ベッドメークはほかのボーイがするのです。つまり、ここにも身分の別があるのです。  しかし、お釈迦さまが打ち出された「人間平等」の大思想は、抜きさしならぬ真理の上に立つものでありますから、いつかは必ずインドの地にも復活するでしょう。その先触れとして、かつてのネール首相は、最下層階級出身のアンベドカル博士を法務大臣に任命しました。素晴らしい業績でした。  われわれ日本人もこうした問題に無関心であってはならないでしょう。また、身分のことよりもっと広い貧富の差とか、民度の高低とか、文化の相違とかいった面で、第三世界の人々に対する差別感をぬぐい切っていないのではないか……そのようなことを改めて反省する必要があると思いますが、どうでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊60

譬喩の名人でもあられた

1 ...人間釈尊(60) 立正佼成会会長 庭野日敬 譬喩の名人でもあられた 一滴の水と善根の譬え  お釈迦さまが祇園精舎でこのような話をなさいました。  ――わたしがある所で多くの人に法を説いていたら、一人のバラモンが自分の髪の毛を一本抜いてその尖端に一滴の水をつけ、  「世尊、この水をさし上げます。つきましては、この水が風や日光に当たって乾かぬよう、また、鳥や獣にも飲まれぬよう、不増不減のままに保存して頂きたい」  という難問を出してきた。わたしはその髪の毛を受け取ると、すぐガンジス河に投げ入れた――  こう語られてから、次のような解説を加えられました。  「ガンジス河に投げ入れた一滴の水は、大河の水の中にあって乾くこともなく、鳥獣に飲まれることもなく、ついには大海に流れ入って永久に生きつづけるであろう。それと同じように、そなたたちが社会の人たちのために積んだ善根は、たとえ一滴の水ほどの微細なものであっても、広い社会の中で永遠のいのちを持ちつづけるのである」  われわれ現代人でもこの譬えを聞くと、「エネルギー不滅の法則」を思い出して、なるほどと納得させられます。 われわれ人間は死刑囚  また、霊鷲山での説法でこんな話をなさったこともあります。  ――ある死刑囚が、どうしても生きていたいと思い余って脱獄した。その国の法律では、脱獄者は象に踏み殺させることになっていたので、役人は兇暴な象にその男のあとを追わせた。  地響きをたてて大象が迫ってくるのを見た脱獄囚は、ちょうどそこにあった井戸へ飛び込もうとすると、井戸の底には大きな竜が口を開けているのだ。アッと驚いたが逃げ出すわけにはいかず、井戸の中に垂れ下がっている一本のカズラにすがりついていた。  すると、二匹のネズミが出てきて、カズラの上のほうをガリガリかじり始めた。もうダメだ……と絶望感にさいなまれていると、口のあたりにポタリと一滴の蜜が落ちてきた。たいそう甘い。見上げてみると、井戸の上に生い茂ったカエデの大木からしたたり落ちる樹液なのである。  やれ嬉(うれ)しやとそれを嘗(な)めて生命をつないでいるうちに、井戸から出ることもできず、底に下りることもできぬ中途半端な境涯ながら、だんだんそうした暮らしに慣れてきて、ただその一滴ずつの蜜の甘さを楽しみに、いつかはカズラが切れることも忘れ、はかないぶら下がりの生活をつづけていたのであった。  普通一般の人間にしても、この死刑囚と似たようなものである。いつかは必ず肉体の死がやってくるのを忘れ、ただその日その日の歓楽を追って暮らしているのだ――  この話を聞いていますと、それが譬え話だとわかってはいても、なにか惻々(そくそく)と身に迫るものを覚えます。たしかにわれわれはカズラにぶら下がっている死刑囚のようなものです。しかし、絶望してはならない。現実のカズラのほかにもう一本の見えざる堅固な綱をわれわれは知っているのです。言うまでもなく、人間のいのちの永遠を説く仏道にほかなりません。このことが、この譬え話の底にかくされているわけです。  理屈っぽくなった現代人は、ともすれば譬喩というものにソッポを向きたがります。しかし、お釈迦さまの説かれた譬喩にはじつに深い哲学が秘められているのです。法華経の七つの譬え話もそのとおりです。素直な心になってよくよく味わいたいものです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊61

良い説法の四つの要素

1 ...人間釈尊(61) 立正佼成会会長 庭野日敬 良い説法の四つの要素 議論のための議論は空しい  お釈迦さまの十大弟子の一人に摩訶倶絺羅(まかくちら)という尊者がいますが、じつはこの人は舎利弗の母の弟なのです。  一家は秀才ぞろいだったようで、倶絺羅があるとき舎利弗をみごもっていた姉と哲学上の議論を闘わしたところ、苦もなく言い負かされてしまいました。倶絺羅は「いつもの姉と違う。きっと腹の中の胎児が教えているに違いない。生まれない前からこうだから、生まれて大きくなったらどんな知恵者になるかわかったものではない。いまのうちに諸国を行脚して勉学を重ねておかなければ……」と考え、バラモンの修行者の仲間に入って南インドへ旅したのでした。  そこでバラモン教の十八大経をことごとく読破し、ひとかどの大学者になったつもりで、故郷のマガダ国へ帰ってきました。帰ってみると、家族はほとんど死に絶え、まだ見ぬ甥(おい)の舎利弗が最近にわかに有名になったゴータマ・ブッダの弟子になっていると聞きました。  さっそく竹林精舎を訪れた倶絺羅は、まずゴータマ・ブッダなる人に論戦をいどんでみました。倶絺羅は、  「わたしは懐疑論者です。人間がうち立てた一切の説を認めません。あなたの説はどんな説か知らないが……」  と切り出しますと、お釈迦さまは、  「一切の説は認めないこと、それもそなたがうち立てた説ではないか。その論法でいけば自分自身の説をも認めないことになる。そのようなのを議論のための議論といい、自分も悟れないし、世間の人をも救えないのだぞ」とさとされました。倶絺羅は一言もなく恐れ入ってしまいました。  それからお釈迦さまは、縁起の法をはじめ、諸行無常の理から四諦の教えまで順を追ってお説き聞かせになりましたので、にわかに夢から覚めたようになり、その場で入門をお願いして許されたのでした。  舎利弗が入門して十五日目のことでしたが、舎利弗はそのときお釈迦さまをうしろからあおいでさしあげていながら、それらの法門を初めて開き、そくざに悟りを開いたといいます。 現代にも必要な「四弁」  倶絺羅もほどなく仏法に通達するようになり、とりわけ教義を説く弁舌においては並ぶ者がないといわれるようになりました。あるときお釈迦さまは、大勢の比丘たちに倶絺羅の説法ぶりを次のようにお褒めになりました。  「比丘たちよ。倶絺羅はこの世に行われているあらゆる思想に通じ、その意義を明らかに解説することができる。これを『義弁』という。  また倶絺羅は、如来の説いた法のすべてを総括して心得、欠けるところなくそれを説く。これを『法弁』という。  さらに倶絺羅は、仏の言葉はもとより、世の人々が話す俗語にもよく通じ、たくみにそれを用いて法を説く。これを『辞弁』という。  また倶絺羅は、法を説くときいささかも憶することなく堂々と説き、大衆は知らず知らずのうちにそれに引き込まれて法悦を覚える。これを『応弁』という。  比丘たちよ。そなたたちも法を説くときは摩訶倶絺羅のように『四弁』を具備することを心がけるがよい」  この「四弁」は、二千五百年後のわれわれ仏弟子にとっても、そのまま服膺(ふくよう)すべき心得であると思います。一つ覚えのように仏法を古典的な解説のみで説いても、人々はよく納得できず、魅力をも覚えません。あるいは現代科学に裏づけさせたり、あるいは社会情勢の現実に即したり、あるいは流行語などを用いてユーモラスに説いたり、さまざまな工夫が必要なのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊62

仏も貪欲であられた

1 ...人間釈尊(62) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏も貪欲であられた 倒れても前へ杖を投げて  お釈迦さまが祇園精舎におられたとき、比丘たちに次のようなむかし話をされました。  ――あるところにシュミラという修行者がいた。シュミラはたいそう説法が上手で、よく人々を良い道へみちびいた。  あるとき国王に呼ばれて法を説いたところ、ことのほか気に入られて、  「そなたに褒美をとらせよう。望みの物を言うがよい。何なりとかなえてやろう」  と言われた。シュミラは、  「では申し上げます。わたくしのために広い土地をください。そこに僧坊を建ててください」  とお願いした。王は、  「よろしい。そなたが一瞬も休むことなく走りつづけて行き着いた所までの土地を残らずそなたに寄進しよう」  と約束された。そこでシュミラは身軽ないでたちになって走り出した。しだいに息が切れ、足も重くなった。しかし、少しでも広い土地が欲しいという一心から、けんめいに走りつづけた。  やがて、もはや一歩も進めないほどヘトヘトになってしまった。しかし、なおも最後の力をふりしぼってヨタヨタと歩いて行った。  いよいよ精も根も尽き果てたシュミラは、ばったりと地上に倒れた。しかし、彼は土に爪を立てるようにして這(は)って行った。そのうち這う力もなくなった。すると今度は体を横にして転がり始めた。が、ついにその力も尽きてしまった。  そのときシュミラはどうしたでしょうか? 持っていた杖(つえ)を前の方へ投げて、  「この杖の落ちた所までがわしの土地だ」  と叫んだのであった―― これが仏の貪欲  この話をなさったお釈迦さまは、  「わたしもこのシュミラと同じく貪欲なんだよ。もちろん土地が欲しいのでもなく、僧坊が欲しいのでもない。一歩でも多くの土地へ行って一人でも多くの人を救いたい。できることならこの三千世界の生きとし生けるものすべてを救いたい。これがわたしの貪欲なのだ。  しかし、わたしも人間だ。体力にも寿命にも限りがある。いつかは倒れてしまうだろう。その時までわたしは走りつづける。布教の旅をつづけるのだ」  とおおせられました。  そのお言葉のとおりのことを、お釈迦さまは実行されたのでした。八十歳にもなられて、リューマチ性背痛という持病を持ちながら、なおも布教の旅に出かけられたのです。  ベールヴァという村にさしかかられたとき、ちょうど雨期に入りましたので、そこで雨安居(第二十七回参照)をされたのでしたが、その年は米が不作でやむなく馬糧を召し上がったために、ひどく胃腸を害され、死の一歩手前を彷徨(ほうこう)されたのでした。  それでも、たぐいなき精神力をもってその重病を克服されると、衰弱した肉体に鞭(むち)うつようにして再び北へ向かって旅立たれたのです。  そしてついに力尽きてクシナーラという村でお倒れになりました。いよいよご入滅という時に、スダッタという異教徒が教えを乞(こ)いに来ました。阿難が――世尊はご臨終であられるから――と言って面会を断っているのを聞かれたお釈迦さまは、  「阿難よ、法を聞きに来た人を拒んではならぬ。通しなさい」  と言って枕元に呼ばれ、四諦の法をお説きになったのでした。それこそが、シュミラが倒れても前方へ杖を投げて「ここまでわたしの土地だ」と叫んだ所行そのままだったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊63

異端者をも追放されず

1 ...人間釈尊(63) 立正佼成会会長 庭野日敬 異端者をも追放されず プレイボーイ迦留陀夷  迦留陀夷(かるだい)は、浄飯王の師であるバラモンの子で、美ぼうと才気と弁舌で知られた貴公子でした。浄飯王はシッダールタ太子に出家の気配があるのを察し、快活明朗な彼を太子の侍者とし、太子の気持ちをなんとか現世の快楽へと引き戻そうとされましたが、結局その効はなかったのでした。  太子が出家された後、迦留陀夷はカピラ国の大臣となり、友好国の舎衛国によく出かけ、ハシノク王にもしばしばお目にかかっています。舎衛国の大臣・密護とも親友の間柄でしたが、いつしか密護の奥さんとも不倫関係に陥るというプレイボーイでした。  お釈迦さまが成道されてから、浄飯王は何度も使いを送って帰国を促されましたが、使いの者はみんなお釈迦さまのもとで出家してしまい、一人として帰って来ません。浄飯王は最後の手段として迦留陀夷を使者として出されたのですが、彼もどうしたわけか出家してお弟子になってしまいました。  しかし、迦留陀夷は「ぜひ一度お帰りになるように」とお釈迦さまを説得しましたので、お釈迦さまも老父王を慰めに行こうというお気持ちになられ、歴史的な帰国となったのでした。ぜんぜん違った性格と思想の持ち主なのに、どこか気の合うところがあったのではないかと推測されるのです。 家庭教化の名手でもあった  迦留陀夷は比丘となってからも相変わらずやんちゃぶりを発揮していました。六群の比丘という暴れ者仲間のリーダーとなって、祇園精舎の森のカラスを何十羽も射落としたり、少年比丘たちを引き連れて町を練り歩き、人々をからかったり、いたずらをしたりしました。  王宮にも自由に出入りできたのですが、ある時フト末利夫人の裸体を見たことから、祇園精舎に帰って「おれは王妃の裸を見たぞ」と触れ回ったこともありました。そのほか、比丘尼や町の女性と問題を起こしたことも度々あったのです。  もちろん、その都度、お釈迦さまは彼を呼びつけ厳しく叱責されたのですが、戒律の定めでは、ある違反を初めて犯した時は「教団からの追放」という最大の罰は与えないことになっていましたので、その規則の通りいつもお叱りだけにとどめられたのでした。  そうした問題児だった一方では、酸いも甘いも噛み分けた、いわゆるワケ知りだけに、親子・夫婦のいざこざを納めるのが上手で、家庭ぐるみ教化して仏法へ導いた数が舎衛城だけで九百九十九家に達したといいます。  ところが、最後に教化しようとしたある主婦が、ひそかに情を通じていた盗賊の首領との仲を割かれるのではないかと思い、その男をたきつけて迦留陀夷を殺そうとたくらんだのでした。そして、迦留陀夷が女の招きによってその家に行って法を説き、夜道を帰るところを、一刀のもとに斬り殺されたのでした。じつに壮烈な殉教だったのです。  翌日、全比丘の集会がありましたが、迦留陀夷の姿が見えないのでみんなが不審に思っていると、お釈迦さまは神通力で昨夜の殉教を知っておられ、  「迦留陀夷とわたしは若い時分からの親しい友であったが、ああ、いまついに別れることになった」  と、悲しげにおおせられたといいます。  この一語に、お釈迦さまの迦留陀夷に対する特別なお気持ちがうかがわれるように思います。単なる師弟という間柄を超えた人間的愛情をそこに感じとっても、仏さまに対する冒瀆にはならないのではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊64

釈尊の前世物語

1 ...人間釈尊(64) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の前世物語 人民の犠牲となった猿の王  お釈迦さまが祇園精舎で大勢の人たちにこんな話をなさいました。  ――むかしある所に五百匹の猿を従えた猿の王がいた。ある年がたいへんな干ばつで、山の木々にも実がよく生(な)らなかった。それもほとんど食べつくしてしまった。ところが、川一つ隔てた王城の園林には果樹がたくさん栽培されているので、猿王(えんおう)は一族を引き連れて移り住み、命をつないでいた。  しかし、園林の番人がそれを見つけて厳重な檻(おり)を作り、そこへ残らず追い込んでしまった。檻の一方だけは開いていたが、そこは川に面したけわしいがけになっており、逃げ出すことはできなかった。  猿王は一族の猿どもに命じて藤蔓(ふじづる)を集めさせ、それをつないで一本の綱とした。その一方の端を木に結びつけ、他方の端を自分の腰に結びつけ、ブランコのように川の上空を飛んで対岸の木の枝につかまった。そして蔓をその木に結びつけようとしたが、ほんの少しだけ長さが足りず、前足でつかまっているのが精いっぱいだった。  そこへ番人が見回りに来る気配がしたので、猿王はしっかと木の枝にしがみつき「みんな、早く渡れ」と叫んだ。五百の猿たちは藤蔓を伝い、最後には猿王の背中を渡って、無事に川を渡ることができた。  そのとたんに猿王は精根つきてバッタリと地上に落ち、気を失ってしまった。それを見た番人は猿王を捕らえて国王の前に引き据えた。猿王は「王さまの園林を荒らして申し訳ございません。これはわたくしの命令でしたことですから、どうぞわたくしだけを処刑して一族は見のがして頂きとう存じます。わたくしの肉はほんの少しですけれども、王さまはじめ皆さまの一晩のおかずにしてください」と申し上げた。  王はその心根に感動して、猿王を許したばかりか、国内に布告して猿たちが餌を取るのを妨げないようにと命じたのであった。  その猿王がいまのわたしであり、国王は阿難、五百の一族はいまの五百人の比丘たちである――と。 ジャータカの持つ意義  このようなお釈迦さまの前世の物語をジャータカ(本生譚)といい、仏典に出ているだけで約五百五十あります。普通の人間は、出生と同時に過去世のことはすっかり忘れてしまうのだといわれていますが、非常な神通力をもたれた世尊はあるいはそのような記憶を持っておられたのかもしれません。法華経でも、提婆達多品や常不軽菩薩品で前世の思い出を語っておられます。  仏教学者たちは、ジャータカは――世にもすぐれたお釈迦さまのお徳はとうてい現世の修行だけで達成されたものとは考えられないとした後世の信仰者たちが創作したものだ――としています。おそらく大部分のジャータカがそうなのでしょう。  しかし、だからといって、ジャータカを一種のお伽噺(おとぎばなし)として軽く見てはならないのです。わたしたちも子供のころ巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺に夢中になったものではありませんか。時代が変わっても、子供たちはアンデルセンやグリムの童話をむさぼり読み、それがどれぐらい子供たちの胸に美しい感動を刻みこみ、どれくらい温かな情緒を育て、一生の人間形成に役立ったか、計り知れないものがあります。  ですから、お釈迦さまの説かれた譬え話や、仏典に出てくる因縁話などを、けっして――ありえないこと――などと軽く見過ごしてはならないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊65

譬喩から思索は限りなく

1 ...人間釈尊(65) 立正佼成会会長 庭野日敬 譬喩から思索は限りなく 麻を背負った二人の男  お釈迦さまが祇園精舎で多くの人々にこんな話をなさいました。  ――ある所に二人の友だち同士があって、仕事を求めて旅に出た。山を越え野を越えして歩いていると、ある荒野に麻がたくさん生い茂っているのを見つけ、これはお金になると早速それを刈り取り、背負えるだけ背負って故郷へ帰りかけた。  すると途中の山かげにたくさんの銀塊が転がっていた。第一の男は、背負っていた麻を捨てて、その銀塊を袋に入れて背負った。第二の男はそれを見向きもしなかった。  また旅を続けていると、土の中から金らしいものが顔を出しているのを見つけた。第一の男がそこを掘ってみると、金の塊がゴロゴロ出てきた。「これはすごい」と、すぐに銀塊と取り換えたが、第二の男はちょっと欲しそうな顔をしただけで取ろうともしない。  第一の男が――天からの授かりものなのにどうして取らないのか――と聞くと、  「麻をしっかり背負いこんでいて、おいそれと背中から下ろせないんだ」と言う。  「ぼくが手伝ってやるよ」  「いや、このままでいい。せっかく遠方から運んで来た麻だ。いまさら捨てるわけにはいかない」  「愚かなことを言うな。こうしてやる!」  第一の男は強引に友だちの麻の束を解き下ろそうとしたが、あまりしっかり結びつけてあるので、容易に取れない。第二の男は、  「余計なことをしてくれるな。おれに構わず先に行ってくれ」と言う。  仕方なくそのまま家に帰った彼は、莫大な財産を持って帰ったので、家族にも喜ばれ、一生幸せに暮らした。  それにひきかえ、第二の男は家族からは愚か者と呼ばれたばかりか、一生貧乏暮らしをしなければならなかった。 一つの譬喩から拡がるもの  中阿含経に出てくるこの譬え話は、読みようによっては別の解釈もできますが、ここでは善をみつけたら、それまで身につけていた悪を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てて、善へ乗り換えよ……という教訓だとされています。  しかし、現代のわれわれがこの譬え話を読みますと、それをヒントとして、いろいろな連想が限りなくひろがっていくのです。  たとえば、ある低俗な信仰にはまりこんでいる人が、すぐれた高等宗教に巡り合ったとき、それに見向きもせず相変わらず迷信にとらわれておれば、一生を迷ったまま過ごさねばならない。  また、たとえば、ある思想を「これこそ真理だ」と固く思い込んでいた人が、それが誤った考えであり、もっとすぐれた思想があることを知っても、以前から背負っている思想を捨てるのは無節操だという無用のこだわりから、誤った思想にかじりつき、かえって世の中に害毒を流す。そのことに気づいて立て直しをしようとしている国が、世界に二つほどあります。  また、たとえば、金権政治と官僚主義を背中に固く結びつけている一国の指導層が、自由自在で創造的なやり方が目の前にあっても、勇敢にそれに乗り換えることをせず、国民をほんとうに幸せにできない国もどこかにある。  また、たとえば、二千年前の宗教上の恨みを麻の束のように捨てようとせず、いまだに争いを繰り返し、お互いが不幸になっている国々が中東にある。  このように、一つの譬え話から、思いは限りなくひろがっていき、そこから正しい道がおのずから見えてくるものです。ですから、仏典に出てくる譬え話を一概に無知の人のためのものと決めつけてはならないのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊66

パセナーディ王との別れ

1 ...人間釈尊(66) 立正佼成会会長 庭野日敬 パセナーディ王との別れ 師弟であり親友でもあった  パセナーディ(波斯匿=はしのく)王とお釈迦さまは、もちろん師弟の間柄ではありましたが、その数々の接触を振り返ってみますと、なにか親しい友という感じがしてなりません。  あるとき王が、下腹を突き出すようにしてハァハァ息をしているのを見て、  「苦しそうだが、どうしたのですか」  と聞かれ、王が、  「今朝の食事を少し食べ過ぎたようで……」  と答えると、  「食べ過ぎはいけません。量を知って食をとることですよ。そうすれば寿命も延びるのですよ」  と忠告なさったこともあります。  あるときは、祖母を失って悄然(しょうぜん)としている王に、  川の水は休みなく流れ、往って帰ることはない。人の命もそれと同じである。逝く者は帰らない。たとえ千年の寿命があっても、必ず死んで去るのである。云々  という偈(げ)を詠んで、その悲しみを静められたこともあります。  このような親しい関係は晩年に至るまで変わることはありませんでした。 世間と僧伽を比べて  晩年のある時期、お釈迦さまが釈迦族の国のメーダルンバという村にご滞在になっていました。ちょうどそのときパセナーディ王が近くまで所用で来たので、お釈迦さまを訪問しました。  ところが、いつもと違って王の顔色が冴(さ)えないのを見られて、  「王よ。何か心配事でもあるのですか」  とお尋ねになりますと、  「はい。心にかかることがいっぱいあります」  「どんなこと……」  「いまや、国は国と争い、王族は王族と争い、バラモンはバラモンと争い、金持ちは金持ちと争っております」  「うーむ。そのとおり」  「しかも、母は子と争い、子は母と争い、父は子と争い、子は父と争い、兄弟は兄弟姉妹と争い、姉妹は兄弟姉妹と争い、友人は友人と争っております」  お釈迦さまは、何度もうなずきながら聞いておられました。  二十世紀末のわれわれが、このパセナーディ王のこの言葉を読むとき、現在の世界の情勢や国内の世相と思いくらべて、何か慄然(りつぜん)たるものを覚えざるをえません。  さて、王は言葉を改めて、  「その点、世尊の僧伽(さんが)を見ていますと、お弟子さん方はよく和合し、共に喜び、争うことはありません。乳と水のように融和し、お互いに愛情をこめた眼で見ながら暮らしておられます。じつに世の中の最高の手本でございます」。  お釈迦さまは、口辺に微笑を浮かべながら聞いておられます。そのとき王は、改まった口調で、  「世尊よ。世尊もクシャトリヤ(王族)でいらっしゃいます。わたくしもクシャトリヤです。世尊もコーサラ人ですし、わたくしもコーサラ人です。世尊も八十歳になられましたが、わたくしも八十歳になりました」  「王よ。そのとおりですね」  「わたくしは世尊に最上の尊敬と親愛を抱いていることを申し上げておきます。……さて、用事がございますので、これで失礼いたします」  そして座を立ち、辞去して行きました。  お釈迦さまは、それからマガダ国の霊鷲山に戻られ、そして最後の旅に出られたのですから、これがパセナーディ王との一生の別れだったのでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊67

舎利弗の死を迎えられて

1 ...人間釈尊(67) 立正佼成会会長 庭野日敬 舎利弗の死を迎えられて 師と己の死期を知って  お釈迦さまが最後の旅にお出かけになる少し前のことです。  かねてから病気がちだった舎利弗は、自分の寿命があまり長くないことを知っていたのですが、と同時に、世尊の入涅槃も遠くないことを、その天眼をもって見抜いていました。  ある日、禅定から出て澄み極まった心境にあったとき、ふと思い出したのは、過去の諸仏の高弟たちはみな師よりも先に入滅したという言い伝えでした。  ――そうだ。自分としても、世尊のご入滅をこの目で見たてまつるのは忍びえない。一日でも先に涅槃に入ることにしよう――  そう決意した舎利弗は、竹林精舎のお釈迦さまのみもとに行って申し上げました。  「世尊。わたしは近いうちに涅槃に入ろうと存じます。どうぞお許しください」  世尊は黙然として舎利弗の顔をみつめておられるばかりです。一言もお答えになりません。舎利弗は繰り返し繰り返し三度も同じことをお願いしました。世尊はようやく、  「なぜこの世にとどまることを願わず、涅槃に入ることを急ぐのか」  とお尋ねになりました。舎利弗は、  「過去の諸仏に仕えた弟子たちは、みな師より先に涅槃に入ったと聞いておりますので……」  とお答えします。世尊はしばらくじっとお考えになっておられましたが、  「そうか。そなたはよくその時を知った。では、どこで涅槃に入るつもりか」  「故郷の母を訪ねまして、その地で……」  「よろしい。許してあげよう」  「ありがとうございます。長年お導きくださいましたご恩は永久に忘却いたしません。最後の礼拝をさせて頂きます」  舎利弗はみ足に額をつけて伏し拝み、両の手を合わせて世尊を仰ぎ見ながら、お姿が見えなくなるまで後じさりして去って行きました。世尊は慈しみをこめた眼で、じっと見つめていらっしゃいました。 遺骨をわが掌に乗せよ  舎利弗は久しぶりに母を見舞い、ねんごろに仏法を説いて大安心を得せしめたあと、一人で別室に退き、右わきを下にして横になりました。そしてゆったりと禅定に入ってゆき、その極みにおいて静かに息を引き取ったのでした。  ずっとお供をしていた侍者のマハーチュンダは、涙ながらに遺体を火葬に付し、遺骨を抱いて竹林精舎へ帰ってきました。  迎えに出た阿難は、驚きと悲しみで声をあげて泣きながら世尊のおん前に手をつき、  「何ということでしょう。舎利弗長老が入滅されました」  と申し上げます。世尊は、  「嘆くことはない。すべては移り変わるのがこの世の定めではないか」  と慰められましたが、しかし、そのお顔はさすがに曇ってみえました。世尊はマハーチュンダに向かって、  「マハーチュンダよ。その遺骨をわたしの掌の上に乗せておくれ」  とおっしゃいました。  マハーチュンダが恐る恐る進み出て舎利弗の遺骨をお手の上に乗せますと、お釈迦さまはそれを大勢の比丘たちに示しながら、  「これが数日前までそなたたちに法を説いた大智舎利弗である。わたしの子の遺骨である。よく見ておくがよい」  とおっしゃるのでした。  人間味あふれるそのお言葉に、泣かない比丘はありませんでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊68

最後の旅への出発

1 ...人間釈尊(68) 立正佼成会会長 庭野日敬 最後の旅への出発 「連れていっておくれ」  ある日お釈迦さまは、霊鷲山のご香室でひとり瞑想(めいそう)にふけっておられましたが、やがて傍らにいた阿難に、  「阿難よ。旅に出よう。今度は北へ向かって行こう」とおおせられました。  おん年すでに八十歳、お足もともなんとなくおぼつかないおからだなのに、また布教の旅にお出かけになろうとは、なんという強靭(きょうじん)な精神力でありましょう。  それにしても、北を目指されたのはどういうわけでしょうか。北といえば、生まれ育たれたカピラバストの方向です。やはりお年を召して故郷に引かれる思いが生じられたのではないかとも推測されるのですが、仏伝にはそれについてはなんら記されていません。  さて、阿難と数人のお弟子を連れて旅立たれたお釈迦さまは、まずナーランダ村におとどまりになりました。この地は、後に史上最大の仏教大学が建てられた所で、七世紀に中国の玄奘(げんじょう)三蔵(『西遊記』の主人公)もここで数年間学び、そのころは一万人の学僧がいたということです。  その地にしばらくご滞在になってから、お釈迦さまは「阿難よ。パータリ村へ連れていっておくれ」とおおせられました。中村元先生著『ゴータマ・ブッダ』の注に――「行こう」というパーリ文よりも「つれていってくれ」という梵文(ぼんぶん)のほうが、老齢の釈尊の姿をよく示している――とありますが、まことにそのとおりで、以前にも増して何かと阿難の介護が必要だったのでありましょう。 川を渡す人々への称賛  パータリ村はガンジス河の舟着き場で、北へおもむく旅人はここを通らねばならぬ交通の要衝でした。後には首都として栄えた所です。  人々は村をあげて世尊のご一行をお迎えし、心からの接待を申し上げました。世尊は村人たちのために戒・定・慧の三学についてこんこんとお説き聞かせになったと、仏伝には記されています。  いよいよ世尊がここからガンジス河を渡られる日が来ました。村人たちは総出でお見送りしました。ちょうどマガダ国の大臣が二人、この地に都城を築くために来ておりましたが、そのうちの一人がこう申し上げました。  「世尊よ。きょう世尊がお出になるこの門を『ゴータマの門』と名付けましょう。世尊がお渡りになる渡し場を『ゴータマの渡し』と名付けようと存じます」  世尊は感慨深げにその言葉をお聞きになりながら、一隻の筏(いかだ)にお乗りになったのでした。  さて、向こう岸にお着きになった世尊は、しばらくの間、はるかパータリ村のほうを眺めておられましたが、やがてお目を転じて、こちらの岸辺で働いている船頭たちや、筏造りの人々を親しげにご覧になりながら、次のような偈(げ)をお詠みになりました。  深い所をすてて橋を造り、流れを渡る人々もある。浮き袋を結びつけて筏を造って渡る人もある。渡り終わった人々は賢者である。  この偈の表面の意味は、煩悩と人生苦に満ちた世界から解脱の彼岸に渡る修行の種々相と、渡り終えた人の尊さを詠まれたのであることは明らかです。しかし、中村元先生は「交通が不便であった時代に、橋や筏をつくって実際に交通の便を開いてくれる人々に対する称賛の気持ちが含まれている、と見てよいであろう」と解説しておられます。  そういう見方をすれば、人間としての釈尊のお姿がまざまざと目前に浮かび上がってきて、ひとしお懐かしい思いが込み上げてくるのを覚えるではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊69

これが最後の眺めであろう

1 ...人間釈尊(69) 立正佼成会会長 庭野日敬 これが最後の眺めであろう 重き病を克服されて  ガンジス河を北へ渡られたお釈迦さまの一行は、ヴェーサーリー(毘舎離)の都の近くに足をとどめられました。  かつてこの一帯に疫病が流行したとき、お釈迦さまを招請して祈願して頂いたところ、たちまちその疫病が終息したので、ヴェーサーリーの人々はとくに世尊に感謝し、帰依し、その教えを聞くことを喜びとしていました。お釈迦さまもしばしばここを訪れられ、法をお説きになった懐かしい土地です。  今度この地に来られたとき、雨期が始まりました。前にも書いたように、雨期の約三カ月のあいだは道も田畑も水びたしになり、旅をすることはできません。そこで一ヵ所にとどまって、いわゆる夏安居(げあんご)という修行をするのが教団のしきたりになっていました。  ところが、この年はあいにくたいへんな凶作で村々は食糧不足に苦しんでいました。そこでお釈迦さまは、比丘たちをヴェーサーリーの知人の家に分宿させ、ご自分は阿難と共にヴェルヴァーナ(竹林)という村で夏安居に入られたのでした。  もちろんこの村も食糧に困っており、ついには馬の飼料を召し上がらねばならなくなりました。おそろしい暑熱と湿度の高い季節でもあり、ひどく胃腸をそこなわれ、死ぬほどの苦しみをなさいました。しかし世尊は、比類のない精神力をもってその重病を克服されたのです。ホッとした阿難が、  「ああ、世尊のご病気が重くあらせられたときは、目の前が真っ暗になる思いでございました。ただ、教団の今後について何か遺言をなさらないうちは入滅されるはずがないと思っておりましたが……」と申し上げますと、  「わたしはすでに余すところなく法を説いた。もうわたしを頼りにすることはない。これからは各自が自らを灯(ともしび)とし、自らを依りどころとし、法を灯とし、法を依りどころとして修行しなければならないのだ」  と、有名な「自灯明・法灯明」の教えをお説きになったのでした。 象のごとく眺められた  ある日、世尊は阿難を連れてヴェーサーリーの町に托鉢に行かれ、帰って食事をすまされると、  「阿難よ。日中の休息をとるためにチャーパーラ霊樹のもとへ行こう」とおおせられました。そして、神聖な木といわれるその大樹の木陰に座具を敷いてお休みになりました。そのとき次のような感想を述べられたといいます。  「阿難よ。ヴェーサーリーは楽しい。ヴデーナ霊樹は楽しい。バフブッタ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい」  そしてまた、こうもおおせられたとあります。  「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と。(中村元著『ゴータマ・ブッダ』より)  お釈迦さまはご入滅の日の近いのをハッキリ予知されていたそうですが、現世に対するこうした楽しく明るい、そして肯定的な回顧をなさったことに、あらためて深い感銘を覚えざるをえません。  さて、いよいよヴェーサーリーを去られる日がきました。お釈迦さまは、象が眺めるように(と仏伝には記されている)ヴェーサーリーの町のたたずまいを眺めながら、おおせられました。  「阿難よ。これはわたしがヴェーサーリーを見る最後の眺めであろう」と。  これはまた、違った響きをもってわれわれの胸にしみこむ、人間味あふれるお言葉ではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊70

阿難へ感謝のお言葉

1 ...人間釈尊(70) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿難へ感謝のお言葉 刻々と死に近づきながら  ヴェーサーリーに別れを告げられてから、世尊はバーヴァー村の金属細工人チュンダ所有のマンゴー林に足をとどめられました。  チュンダは敬虔(けいけん)な信者でしたので、大喜びで世尊をお迎えし、世尊も――『道に生きる者』『道を説く者』がこの世で最も尊い存在である――という教えをねんごろにお説きになりました。  ところが、ここで思いがけないことが起こりました。チュンダがご供養申し上げた食事の中に、世尊だけに特別にお出ししたキノコ(一説には豚肉ともいう)がありましたが、そのキノコにあたって中毒にかかられた世尊は猛烈な腹痛を起こされ、激しい下痢をなさったのです。  それでも、その苦痛を耐え忍びながら、クシナーラへと出発されたのでした。しかし、いくらもお歩きにならないうちに、  「阿難よ。わたしは疲れた。わたしは座りたい。上衣を四つにたたんで敷いておくれ」と命ぜられました。座られるとすぐ、  「阿難よ。水を持ってきておくれ。わたしはのどが渇いている。水が飲みたい」  とおっしゃるのです。近くの河からくんできてさしあげると、おいしそうに飲まれてから、  「さあ、これからカクッター河のところへ行こう」  と阿難をうながして歩き出されました。そしてカクッター河にたどりつかれると、流れに入って水浴され、また水をたっぷりお飲みになりました。  そして岸に上がられると、「わたしは横になりたい。上衣を四つ折りにして敷いておくれ」と命ぜられるのでした。前には「座りたい」とおっしゃり、今度は「横になりたい」とおっしゃったことからも、体力が急速に衰えつつあったことが如実にうかがわれます。こうして、バーヴァーからクシナーラまではわずか数キロの道のりなのに、二十五回もお休みになったといいます。  その苦痛のなかから、  「阿難よ。そなたはチュンダの所へ行って、食事にキノコを出したことをくれぐれも後悔しないように言っておくれ。わたしの成道の因をつくってくれたスジャータの乳粥(ちちがゆ)と同じように、チュンダの供養した食事によって無余涅槃界(肉体さえも残さない絶対平安の世界)へ入ることができるのだから、最大の功徳なのだ……と、そう伝えるのだよ」  と命ぜられました。その深い思いやりのお言葉に人間釈尊のお徳の結晶があると言っても、けっして言い過ぎではないでしょう。 阿難よ、よく仕えてくれた  クシナーラ村に入られた世尊は、阿難に、  「さあ、わたしのために、サーラ双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いておくれ。わたしは疲れた。横になりたい」  とおいいつけになりました。いよいよご臨終の時が近づいたのです。阿難は悲しみのあまり、お床の傍らで激しくしゃくりあげていました。すると世尊は、  「阿難よ。泣くのはやめなさい。わたしがいつも教えていたではないか。愛するものや好むものとも必ず別れなければならない。生じたもの、存在するものは必ず滅するものだ……と……」  それから言葉を改められ、  「阿難よ。そなたは長いあいだわたしによく仕えてくれた。そなたは善いことをしたのだよ。これからも努めはげむことだ。必ずすべての煩悩を除き尽くした身になるだろう」  と優しくおおせられたのでした。  阿難がどんな気持ちでそのお言葉を聞いたか、察するに余りがあります。  そのとき、クシナーラには夕暗が迫りつつありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊71

大いなる人は去ったが

1 ...人間釈尊(71) 立正佼成会会長 庭野日敬 大いなる人は去ったが 臨終に際しても説法  その夜、クシナーラの町に住むスバッダという異教の修行者が、ぜひお釈迦さまの教えを聞きたいとやってきました。  阿難が、もうご臨終が間近いのだから世尊をわずらわしてはならないと断りますと、「だからこそお命のあるうちにお目にかかりたいのです。わたくしには大きな疑問があるのですから……」と言って動きません。  そのやりとりをお聞きになった世尊は、  「阿難よ。道を聞きに来た人を拒んではならない。通しなさい」  とおおせられました。スバッダはお床の近くへにじり寄ると、まず多くの宗教家の名前を次々に挙げ、  「こういう人たちは、教団を持ち、多くの弟子や世間の大衆に崇敬されていますが、かれらは自分の知恵で悟っているのでしょうか。あるいは悟っていない者もいるのではないでしょうか」  と、お尋ねしました。すると世尊は、  「そんなことは問題にならない。スバッダよ。ある宗教において、ものごとを正しく見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しい生活をし、正しい努力をし、正しい方向へ向けて思念し、正しい瞑想をして不動の心境に達するという八つの聖なる道を教えない者は、それは『道の人』とは言えないのだよ」  と、お説きになりました。スバッダは目が覚めたようになり、お弟子に加えていただきたいとお願いし、特に入門を許されました。彼がお釈迦さまの最後のお弟子となったのでした。  思えば、お釈迦さまが鹿野園で五人の修行者に初めて法をお説きになったときも、この八正道の教えをお説きになり、ここで最後にお説きになったのも、やはり八正道だったのです。ということからしても、仏教の実践面の教えは――布施ということ以外は――この八正道に集約されていると断じても差しつかえないでしょう。 限りなく懐かしい人  さて、夜もしんしんと更けてきました。お釈迦さまは阿難に向かって次のような遺言をなさいました。  「わたしが死んだからといって、『自分たちの師はいない』などと考えてはならない。わたしが説いた教えと、わたしが制定した戒律がそなたたちの師である。ただし、細かい戒律の項目は、教団のみんなの同意があれば廃止してもよろしい」  お釈迦さまはしばらく沈黙しておられましたが、再び口を開いておおせられました。  「さあ、比丘たちよ。質問はないか。あったら今のうちに聞いておきなさい。わたしが死んでから、聞いておけばよかったと後悔しないように……」  しかし、だれひとり質問を発する者はありませんでした。そこでお釈迦さまは、  「では比丘たちよ。すべてのものごとは移り行くものである。怠らず努力するがよい」  そして、優しいおん目で比丘たちを見回されてから、静かに、安らかに、息をお引き取りになったのでした。まことに「大いなる死」でありました。  長部経典に、お釈迦さまのお人柄を集約して、こう記されています。(中村元先生訳による)  「修行者ゴータマは、実に『さあ来なさい』『よく来たね』と語る人であり、親しみのあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色ははればれとし、自分のほうから先に話しかける人である」  われわれは、仏としての世尊を限りなく尊崇すると同時に、人間釈尊として無限の懐かしさを覚えざるをえないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...