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法華三部経の要点 ◇◇40
立正佼成会会長 庭野日敬

雑草という草はない

万物はもともと同根

 現代の物理学は、すべての物質が電子・陽子・中性子等の素粒子から出来ていることをつきとめました。それによって、この世の万物がもともとは同根であり、平等な存在であることが実証されました。
 空気とか、水とか、土とかいう無機物でもわれわれ人間と同根だというのですから、ましてや人間どうしが本質的には平等な存在であることは、もはや実感をもってうなずかざるをえないでしょう。ところが、同じ人間どうしでも、現実のあらわれにおいてはさまざまな相違が見受けられます。身体の大きい人、小さい人、頭のいい人、鈍い人、手先の器用な人、不器用な人等々。すなわち、本質的には平等であっても、現象的には相違があることも否定できない事実です。
 たいていの人は、その差別相のみを見て、平等相を見ることをしません。だから、自分は背が低いとか、もの覚えがわるいとか、容貌(ようぼう)がよくないとかいった劣等感のとりこになる人が多いのです。もしあなたがそんな劣等感の持ち主であるならば、薬草諭品こそがそれをキレイに拭(ぬぐ)い去ってしまうでしょう。
 「其の雲より出ずる所の 一味の水に 草・木・叢林・分に隨って潤を受く 一切の諸樹 上中下等しく 其の大小に稱(かの)うて 各(おのおの)生長することを得」
 どんな人でも、世の中が必要とすればこそ、それなりの姿で存在しているのです。肉体の大小や、外見や、素質や、才能などは千差万別でも、宇宙的視野で見れば、まったく平等な「価値ある存在」であり、本質的にはまったく平等に生かされているのです。
 ここで思い出すのは、昭和天皇が口癖のようにおっしゃっておられた「雑草という草はない」というお言葉です。この一言をとりあげるだけでも昭和天皇はほんとうの意味で偉いお方だったということができましょう。

仏性を磨き出す人が最上

 自分はつまらぬ人間だと思っている人も、ちょっと気分を変えて自分を客観的にながめてみると、案外ひとよりすぐれた面があることを発見できるものです。頭の回転はよくないけれど、粘りづよくコツコツ努力する型であるとか、きりょうはよくないが世話好きでひとの面倒をよく見るのでみんなに好かれるとかいった具合です。
 ですから、自分の持っているそのような特質を見いだし、それを十分に生かすならば、自分に与えられた存在価値をりっぱに充足することができるのです。
 さらに大事なことがあります。頭脳とか、容貌とか、体格とか、財産とか、地位とかは人間の本質とはなんらかかわりのないものです。その証拠には、それらの何一つとしてあの世まで持っていけるものはないではありませんか。
 ただ一つ、つねに人間のいのちと共にあって離れないものがあります。それは心です。仏教的にいえば仏性です。これが正真正銘、人間の本質です。ですから、あなたがどんなに貧しくても、どんな境遇にあろうとも、心さえ美しければ人間として最高の存在なのです。
 したがって、信仰によって心を清め、菩薩行によって仏性を磨き出そうとする精進こそが、この世に生まれた価値を発揮する最上の道なのであります。経文にも「世尊の処を求めて(世尊のような境地に達したいと願って)我当に作仏すべしと 精進・定を行ずる 是れ上の薬草なり」とあるではありませんか。
 劣等感にさいなまれている人は特にこの薬草諭品を味読してほしいものです。この世に雑草という草はないのですから。
                                                     

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