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法華三部経の要点 ◇◇39
立正佼成会会長 庭野日敬

今後の家庭にはいよいよ宗教が必要

愛情は想像から生まれた

 前回に、久遠の仏さまの大慈悲を信ずる人こそ救われる人だと述べました。それに対して、どうすれば五官で感じとれぬものを「信ずることができよう」か……と質問する人がありました。同じような気持ちをいだいている人も多いことと思いますので、この際じっくりと説明しておきましょう。
 たしかに、五官で感じとれないものを「信じなさい」といわれてもにわかに信じうるものではありません。初めは想像するよりほかはないのです。「仏さまはどういうお姿でいらっしゃるのだろうか。仏像や仏画に見られるようなお姿だろうか。それとも白髪・白衣の神々しいお姿だろうか。姿・形はなく、ただ目もくらむような光明そのものだろうか」。そんなふうに想像してみるのです。それをくりかえし、重ねているうちに、その想像がしだいに実感を持つようになり、ついには抜きさしならぬものとして心の中に定着するようになります。
 この「想像する」ということが、人間にとってじつに重大な意味を持つものなのです。人間らしい人間の第一条件である「愛情」というものも、この「想像」という心の作用から生まれたものだといわれています。
 われわれがまだ原始人だったころのことですが、まだ他の動物とあまり差のなかったヒトがだんだん頭脳が発達してくるにつれて、過去の経験にもとづいて先ざきのことを想像できるようになりました。また、目の前に起こったことでないものごとを心にえがくことができるようになりました。
 たとえば、猛獣などがそのへんをうろついているときなど、洞窟(どうくつ)の中でジッとしていながら、外にいる仲間のことを考えたのです。トラやライオンが不意に襲ってきた。逃げるに逃げられない。ついに鋭いツメにかけられてしまう。その様子を想像して「あ、たいへんだ」と自分も恐怖を覚える。次の瞬間「ああ、あの人がかわいそうだ」という思いがわいてくる。それが「感情」の発生です。そして「同情」の発生です。
 このように、人間にとっていちばん高貴な心の作用である「愛情」とか「思いやり」とかは、じつに「想像」からこそ生まれたのです。

想像の欠如が冷たい社会を

 ところが、じつはこの「五官で感じとれないものを想像する」という心の作用が近頃の子供に失われつつあるのです。これはゆゆしい大事だと思います。ひる間は塾やおけいこごと通いに追いまくられ、夜は個室にこもってひとりコンピューターゲームで遊ぶ。友だちづき合いは少ない。すべてが即物的な生活です。
 むかしの子供は、赤頭巾ちゃんの映画を見ても、オオカミが森の中のおばあさんの家に入ろうとするのを見ると、思わず「入らないで!」と叫んだりしたものです。ところが今の子供は、「カラスなぜ鳴くの」の歌に対しても「カラスの勝手でしょ」といったそっけない対応をするようになりました。
 「思いやり」とか「同情」とかいう情緒を持つことが人間らしさの大きな条件であって、これが欠けたらまさに冷血動物みたいなものだといっていいでしょう。そして、そのような人間が増えたら、この世はエゴとエゴとがむき出しにいがみ合う修羅の世界となってしまいましょう。
 ですから、これからの教育には「五官に感じとれないものを想像する」という心の作用を養うことが絶対必要な条件となりましょう。
 家庭においても、目に見えぬ神仏を拝む宗教がどんなに大切であるかは、この一事をもってしてもうなずけることと思います。
                                                      

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