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法華三部経の要点 ◇◇20
立正佼成会会長 庭野日敬

仏教には一仏乗があるだけ

みんな仏道の上にいる

 第十七回に「法を現実化する方便こそが大切である」ことについて書きましたが、そうであればこそ法華経では、その現実化の行動者である菩薩が、仏を除けば人間の中で最も価値ある存在だと強調するわけです。
 お釈迦さまは方便品の中で、「諸仏如来は但(ただ)菩薩を教化したもう」とか「諸の菩薩を教化して声聞の弟子なし」などと、繰り返し繰り返し菩薩をたたえ、信頼するお言葉を述べておられます。
 ここで誤解してはならないのは、声聞や縁覚は相手にしないという意味ではないことです。
 ――声聞も縁覚も仏となる道の上に乗っていることは確かである。しかし、まだ積極的な歩みに踏み出していない。だから、積極的な歩みをする菩薩になるように導きたいのだ――というみ心なのです。
 「仏となる」とか「声聞」「縁覚」「菩薩」とかいえば、いかにも現実離れした存在のように思われますが、けっしてそうではありません。現代語で表現すればこういうことになります。
 仏とは、前にも書いたように、「めざめた人」のことです。宇宙の真理と人生の真実にめざめ、その悟りにもとづいてこの世のあらゆる存在を幸福に導こうという大慈悲心の持ち主なのです。
 声聞というのは、仏教の本を読んだり、説法を聞いたりして、仏の道を学ぼうとする人です。このような人も「めざめ」への道の上にいることは確かです。現代語でいえば「学習派の信仰者」ということになりましょう。
 縁覚というのは、仏の教えについてひとり静かに思索し、暝想し、「めざめ」へ近づこうとする人です。こういう人も仏への道の上にいることは確かなのです。現代語でいえば、「暝想派の信仰者」ということになりましょう。
 菩薩とは、声聞の要素も持ち、縁覚の要素も具(そな)えているのですが、ただ違うのは、他の多くの人びとへの教化や救済に奔走するという一点です。「行動派の信仰者」と名づけていいでしょう。

歩み出しさえすれば

 法華経以前では、仏道修行者が「学習派」「暝想派」「行動派」の三派に分かれているように考えられていました。事実そういう傾向が顕著でした。そして「学習派」や「暝想派」の人たちは、もっぱら煩悩から解脱することを目標として修行し、仏になるなんてとうていできないことだと思い込んでいました。お釈迦さまも、みんなの機根(教えを受ける能力)がまだ熟していないと見られて、わざと「みんな仏の道の上にいる」ということをお説きにならなかったのです。
 しかし、この法華経方便品に至って「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり 二なく亦(また)三なし」という大宣言をなさったのです。そして、法華経を行ずる者はことごとく仏になることができると、保証されたのです。
 ――これまで学習派・暝想派・行動派の別があるように考えていたが、そのような派閥の別などありはしないのだ。あるのは「仏の智慧にめざめ、その慈悲を行ずる」という大きな一本道(一仏乗)しかないのだ。学習派の人も暝想派の人もその一本道の上にいるのだ。ただ、積極的な歩み(菩薩行)を起こしていないだけのことなのだ――という素晴らしい大宣言です。
 これを仏教学者は「開三顕一」と名づけていますが、つまり――仏教書を読むことも、座禅を組むこともいいことなんだ。それも仏道の一段階なんだ。大いにやりなさい。ただし、「他を幸せに導く行動」という段階へ進むことを忘れてはいけませんよ――ということなのです。
                                                                 

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