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法華三部経の要点 ◇◇19
立正佼成会会長 庭野日敬

仏性を尊重し合うところこそ寂光土

まず自分の仏性を自覚する

 法華三部経には「仏性」という語は一回も出てきません。しかし、「仏の教えを聞き、よく持(たも)ち、よく実践する者は必ず仏となることができる」というのが、この経典をつらぬく根本理念であり、仏となれるのはそうした素質(仏性)があればこそなのですから、法華経は全巻これ仏性の教えだといってもさしつかえありません。
 さて、前回の終わりに、仏法が説く人間の本質の平等は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものだと書きましたが、今回はそのことについて考えてみることにしましょう。
 人間はだれでも仏すなわち「完成された人間」になりうる素質(仏性)が具(そな)わっているということがわかれば、われわれ凡夫にどんな変化が起こるのでしょうか。
 われわれは日常の仕事に追われてあくせく働き、また身の回りに起こるさまざまなトラブルに右往左往しながら日々を送っています。それを一生のあいだ続けながら、ついに死を迎えるのだと考えれば、なんともいえない虚無感を覚えます。自分はいったい何のために生きているのか――と、絶望的な気持ちになることもあります。
 そのような時に、法華経の教えによって「あなたのほんとうの生涯は仏になるためにあるのですよ。あなたには仏になる素質が具わっているのですよ」と聞かされると、ハッと目が覚めたようになります。「そうか。わたしにも仏になれる素質があったのか。この一生はそんなスバラシイ目的のためにあるのか」という思いが、その日からの生活を一転させ、はつらつとした、いきいきとしたものに変えてしまうのです。そして、「仏となるために、よいことを思い、よい行いをしよう」という気持ちが胸底に定着するようになります。それがすなわち「人格の向上」の原動力にほかなりません。

草木国土悉皆成仏へ

 たんに自己の人格の向上の問題だけではありません。周りの人にも「完成された人間」になりうる素質があることがわかってきますから、人びとを見る目がガラリと変わってくるのです。これまで「つまらないやつだ」とさげすんでいた相手がいても、形の上に現れた状態ではなく、その人の本質である仏性を見るようになり、必ず仏になりうる人として認められるようになります。あとの『常不軽菩薩品第二十』に登場する常不軽菩薩がその典型でしょう。
 そのようにして、すべての人間が他の人の仏性を信じ、尊重するようになれば、そこにこそ心の底からの「和」が生じます。嫉妬(しっと)することもなく、軽蔑(けいべつ)することもなく、みんなが認め合い、睦(むつ)み合って暮らすようになります。そういった社会こそが寂光土なのです。
 もう一つ大事なことがあります。「自然とも仲よくするようになる」ということです。 
仏教でいう衆生というのは、生きとし生けるものという意味です。もっと拡大解釈して、土とか水とか石とかいった無生物も、久遠の本仏に生かされているのだと仏教では見ているのです。ですから、中国の天台僧・湛然(たんねん)が言い始めたという「草木国土悉皆成仏」という理念が生まれたわけです。
 今やこの考え方は、たんに仏教の中ばかりでなく、人類の運命をにない、その危機を救う一大事となっています。人間のあまりにもわがまま勝手な生きざまが、自然を破壊し、汚染し、このまま二十一世紀になれば、地球上で生きていくことさえ難しいといわれているのですから。
 われわれが法華経精神の普及に必死に取り組んでいるのは、世界中の人間がお互いに「完成された人間」となる可能性を持つことを認め合い、と同時に、自然とも仲よくする関係になって、この世を寂光土化しようという大誓願のためにほかなりません。このことをよくよく心得ておいて頂きたいものであります。


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