経典のことば(68)
立正佼成会会長 庭野日敬
煩悩ありと雖(いえど)も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想(おもい)なけん
(無量義経・十功徳品)
猛虎と対決した二人の達人
沢庵禅師は三代将軍家光の厚い帰依を受けていましたが、あるとき江戸城に将軍を訪れますと、ちょうど朝鮮から巨大な虎が贈られてきたばかりで、城中城外の大評判になっていました。
家光は庭先に据えた虎の檻を禅師にも見せて得意になっていましたが、そのうち、傍らに控えていた柳生但馬守に「柳生、あの虎の檻に入ってみよ」と言い出しました。将軍の剣道指南役として一万石を頂いている身として、猛虎が怖いというわけにもいかず、「ハッ」と答えて檻に近づきました。
但馬守は、袴のもも立ちを高く取り、決死の形相で檻の中へ入って行きますと、虎はウォーと唸り声を発し、らんらんたる眼を光らせ、まさに飛びかかろうとする勢い。但馬守は短刀を抜いてその切尖(きっさき)をピタリと虎のほうに向け、グッとにらみつけていますと、虎はしだいに畏縮の様子を見せ、座り込んでしまいました。但馬守は素早く檻の外へ飛び出し、面目をほどこしました。
家光は、こんどは禅師に「和尚、あの中へ入れるか」と言い出しました。禅師は、「お望みとあらば入ってみましょう」と答え、身に寸鉄を帯びず、ただ手首に数珠を巻いただけで、静かに檻の中に入って行きました。
そして、その手を虎の頭の上にのせ、さも「かわいい」といったふうになでてやりますと、虎は小猫のように目を細めて禅師の胸のあたりに頭をすり寄せていきました。
その様子には、家光も、近侍の者たちも、但馬守も、ただ感嘆するばかりだった……ということです。
これが日本一の剣豪と修行を積んだ仏教者との違いです。
威をもって屈せしめる人と、常に仏と一体となり得る人との違いです。よくよく味わうべき逸話だと思います。
仏さまにお任せすれば
沢庵禅師も、人間であるかぎり、猛虎にたいする怖れは持っておられたでしょう。死を怖れるという煩悩は本能からわき上がってくるもので、どうしようもないものです。
しかし、禅師はおそらく心中に仏を念ずることによってその煩悩を一瞬に滅してしまわれたものと考えられます。そうなればもはや仏と一体になった境地なのですから「煩悩あれども煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん」だったに相違ありません。
また、そんな境地になったら、その全身から発する「気」は柔和そのものであり、慈悲そのものですから、猛虎も顔をすり寄せてきたのでありましょう。
標記のことばに、その前にある文章を補えば、「若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達し巳って、煩悩ありと雖も煩悩なきが如く……」となります。
「一偈乃至一句もせば」ということがたいへん味わい深いのです。無量義経およびその後に続く法華経全体に精通しなくてもいい、その核心である一句でもいいから、ほんとうに自分のものにしておればいいというのです。つまりは信心の深さです。仏さまの教えにたいする絶対の信です。そのような信があれば、人生行路の上でさまざまな苦難や障害にぶつかることがあっても、仏さまを念じ、仏さまにお任せして自分を無にできるので、何も怖くはなくなる、何も苦にならなくなる……というのです。
煩悩多き在家生活者にとって、じつにありがたい教えであると思います。
題字と絵 難波淳郎
立正佼成会会長 庭野日敬
煩悩ありと雖(いえど)も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想(おもい)なけん
(無量義経・十功徳品)
猛虎と対決した二人の達人
沢庵禅師は三代将軍家光の厚い帰依を受けていましたが、あるとき江戸城に将軍を訪れますと、ちょうど朝鮮から巨大な虎が贈られてきたばかりで、城中城外の大評判になっていました。
家光は庭先に据えた虎の檻を禅師にも見せて得意になっていましたが、そのうち、傍らに控えていた柳生但馬守に「柳生、あの虎の檻に入ってみよ」と言い出しました。将軍の剣道指南役として一万石を頂いている身として、猛虎が怖いというわけにもいかず、「ハッ」と答えて檻に近づきました。
但馬守は、袴のもも立ちを高く取り、決死の形相で檻の中へ入って行きますと、虎はウォーと唸り声を発し、らんらんたる眼を光らせ、まさに飛びかかろうとする勢い。但馬守は短刀を抜いてその切尖(きっさき)をピタリと虎のほうに向け、グッとにらみつけていますと、虎はしだいに畏縮の様子を見せ、座り込んでしまいました。但馬守は素早く檻の外へ飛び出し、面目をほどこしました。
家光は、こんどは禅師に「和尚、あの中へ入れるか」と言い出しました。禅師は、「お望みとあらば入ってみましょう」と答え、身に寸鉄を帯びず、ただ手首に数珠を巻いただけで、静かに檻の中に入って行きました。
そして、その手を虎の頭の上にのせ、さも「かわいい」といったふうになでてやりますと、虎は小猫のように目を細めて禅師の胸のあたりに頭をすり寄せていきました。
その様子には、家光も、近侍の者たちも、但馬守も、ただ感嘆するばかりだった……ということです。
これが日本一の剣豪と修行を積んだ仏教者との違いです。
威をもって屈せしめる人と、常に仏と一体となり得る人との違いです。よくよく味わうべき逸話だと思います。
仏さまにお任せすれば
沢庵禅師も、人間であるかぎり、猛虎にたいする怖れは持っておられたでしょう。死を怖れるという煩悩は本能からわき上がってくるもので、どうしようもないものです。
しかし、禅師はおそらく心中に仏を念ずることによってその煩悩を一瞬に滅してしまわれたものと考えられます。そうなればもはや仏と一体になった境地なのですから「煩悩あれども煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん」だったに相違ありません。
また、そんな境地になったら、その全身から発する「気」は柔和そのものであり、慈悲そのものですから、猛虎も顔をすり寄せてきたのでありましょう。
標記のことばに、その前にある文章を補えば、「若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達し巳って、煩悩ありと雖も煩悩なきが如く……」となります。
「一偈乃至一句もせば」ということがたいへん味わい深いのです。無量義経およびその後に続く法華経全体に精通しなくてもいい、その核心である一句でもいいから、ほんとうに自分のものにしておればいいというのです。つまりは信心の深さです。仏さまの教えにたいする絶対の信です。そのような信があれば、人生行路の上でさまざまな苦難や障害にぶつかることがあっても、仏さまを念じ、仏さまにお任せして自分を無にできるので、何も怖くはなくなる、何も苦にならなくなる……というのです。
煩悩多き在家生活者にとって、じつにありがたい教えであると思います。
題字と絵 難波淳郎