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経典のことば(5)
立正佼成会会長 庭野日敬

世尊智見を得たまえる時、此の世間に於て、梵宮も、天も、人も、沙門も、およびバラモンも、世みな大いに明かなり。……其の間の所有の一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく「この所に、またまた衆生あるか。この所に、またまた衆生あるか」と。
(仏本行集経・巻30)

天地の万物が輝き出した

 これは、お釈迦さまが十二月八日の暁に菩提樹の下で仏の悟りを得られた瞬間のありさまを描写したものです。
 あたりはまだ暗く、東の空に明星だけがキラキラとまたたいていたのですが、世尊が悟りをひらかれるやいなや、すばらしい大光明が輝きわたり、神々の宮殿も、天人も、地上の人間たちも、出家者修行者も、バラモンも、ありとあらゆる存在がえもいわれぬ尊い白光に照らし出されたのです。
 すると、人間を含むすべての存在(一切衆生)が、お互いに相手を発見し、知りあい、「おお、ここにもあなたがいたのか。ここにもいたのか」と語りあった……というのです。
 仏教学者の玉城康四郎博士はその著『永遠の世界観・華厳経』のなかで、「華厳経では、自分が自分を知るだけではない、世界を知るのである。また、自分が世界を知るだけではない。世界が世界を知るのである」と述べておられます。
 この「世界が世界を知る」ということが仏教の深遠な世界観なのであって、それをわかりやすく表現したのが、ここにかかげた「一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく『この所に、またまた衆生あるか。この所に、またまた衆生あるか』と」いうことではないでしょうか。
 お釈迦さまの悟りを現代風に表現しますと、「この世のすべての存在は、宇宙に遍満しているただ一つの実在である大生命の分身である。つまり、もともとは同根なのである。しかも、それらはお互いに関連しあい、相依り、支えあって存在しているのであって、孤立しているものはただの一つもないのである」という真理です。

万人がしあわせになるには

 お釈迦さまがこの真理を悟られた瞬間に世界中に大光明が輝きわたり、いままでお互いにその存在を知らなかったもろもろの衆生が、お互いを発見し、喜びあったということには、すべての存在がほんとうにしあわせになる大直道がそこに示されていると受け取らねばなりますまい。
 わたくしどもの周囲には家族がおり、職場の仲間がおり、地域社会の隣人がおり、さらに国を同じくする多くの人たちがいます。わたくしどもはそれらの人びとの存在価値をしんから認識しているでしょうか。それらの人びとと自分とのあいだの「生かしあい」「支えあい」の関連をしみじみと感じ取っているでしょうか。
 答えはおそらくノーでしょう。ましてや世界の遠い国々の人びとへの関心の度はもっと低いものと見なければなりますまい。そうした認識の浅さが冷淡な心情を生み、その冷淡さがさまざまな原因に触発されて不幸な争いを引き起こしているのです。
 ですから、もしわれわれがお互いに宇宙の大いなるいのちを分け合っている仲間であることを心の底から悟ることができれば、そこから、手を握り肩を抱きあわずにはいられぬ友情が生じ、この世はおのずから潤いある平和世界と化していくでしょう。
 仏教の究極の目的はそこにあるのですが、その根本理念はお釈迦さまが悟りをひらかれた瞬間に決定されたといっていいでしょう。そのことが、ここに掲げたことばに象徴的に語られているわけです。
題字と絵 難波淳郎

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