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仏教者のことば(64)
立正佼成会会長 庭野日敬

 返す返すも今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付きて泣き悲しみ給いしをば、いかなる世にも忘れ難し。たとい殿の罪深くして地獄に入り給わば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏のこしらえさせ給うとも、用い参らせ候べからず。同じく地獄なるべし。
 日蓮聖人・日本(崇峻天皇御書)

共に地獄へ行っても

 いわゆる「龍の口の御難」で、平頼綱のひきいる一団の兵が松葉ヶ谷の草庵に押し寄せ、聖人を馬上に縛り上げて引き回し、龍の口で斬首することになりました。
 それを聞いて駆けつけた四条金吾頼基と三人の兄弟は長谷で一行に追いつき、頼基は「ご聖人がお首を召されるなら、わたくしもご一緒に切腹、殉死いたします」と、馬の口を取って離れず、刑場まで行きました。そして、いよいよという時になると、「ああ、お命もただいま……」と、声をあげて泣くのでした。
 そのとき日蓮聖人は「なんという考え違いですか。法華経の行者が法難に遭って死ぬのは覚悟の上であって、法悦です。かねてそのことは約束してあったではありませんか。笑って見送るのですぞ」ときびしく申されました。
 しかし、そのときの四条金吾の真情は、深く深く聖人のみ心に刻みこまれて離れなかったのでありましょう。後日、宮仕えの身の金吾の深い苦悩に対して、短慮を戒め、自重を勧められた前掲のお手紙の一節に、そのことがまざまざと表されています。
 とりわけ、「日蓮を仏になるよう釈迦牟尼仏がどんなにお誘いになっても(こしらえさせ給うとも)、それには隨いますまい。そなたと同じく地獄に行きましょう」というくだりには、聖人の烈々たる師弟愛といいますか、友情といいますか、とにかく人間としての最高の価値である「魂」の尊さが、ひしひしと胸に伝わってくるのを覚えます。

人間関係の冷え込み

 最近、人と人との間が急速に冷えてきつつあります。教師と生徒の間、親と子の間、夫と妻の間などに、寒ざむとした透き間風が吹き抜けつつあります。何より悲しいことです。このまま進めば、人間世界は砂をかむようなものになり、ほんとうの喜びも、幸せもない世界になってしまうのではないでしょうか。
 なぜこういうことになったかをつらつら観じてみますと、人生のすべてを計算づくで考える風潮が人びとの心にしみ渡ったせいではないか。欲得抜きで何かを好きになる――俗な言葉でいえばとことん惚れこむ――そういう純粋さをおろそかにする気持ちがはびこってきたせいではないかと思われるのです。
 私事にわたって恐縮ですが、わたしが恩師新井助信先生に法華経の講義を聞いたとき、わたしは法華経に魂まで吸い込まれる思いでした。その気持ちが伝わったのでしょう。受講者がわたし一人になっても、新井先生は喜んで一対一で講義してくださいました。お互い、正月の元日さえも休みませんでした。奥さまもあきれておいででした。こういう師弟関係を持ちえたことは、わたしの一生の幸せだったと思っています。
 慶応義塾大学の塾長だった小泉信三博士は何かの本に「わたしがもう一度生まれ変わっても、また家内と夫婦になりたい」と書いておられましたが、これがほんとうの夫婦というものでしょう。
 いずれにしても、日蓮聖人のこのお言葉には、こうした人間関係のギリギリ最高の境地が何の飾りけもなく表白されていると、感に打たれざるを得ません。
題字 田岡正堂

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