心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(33)
立正佼成会会長 庭野日敬
最深部の無意識は人類共通
仏教で説く心の構造
これまでは、主として無意識の底に沈む暗い心を取り上げてきました。これは仏教でいう末那識(まなしき)に当たるものです。仏教では心の世界の構造をどう見ているかといいますと、代表的なのは(八識)という考え方です。八識というのは眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意の六識に、末那識・阿頼耶識(あらやしき)を加えた八つの心のはたらきです(大乗仏教では、第九識として阿摩羅識を加えますが、これは真如・仏性そのものですから、ここでは触れません)。
はじめの五識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって外界のものごとを感じ取るはたらきであり、意というのは、感じ取ったものごとを「美しい」とか、「好きだ」とか判断したり、「これをやろう」とか「これはやるまい」などと意志したりする心のはたらきをいいます。以上の六識は、われわれがハッキリ意識することのできる心で、いわゆる表面の心です。
末那識・阿頼耶識は、無意識の世界です。まず末那識ですが、仏教では、これが一切衆生妄惑の根本であると説かれているのです。すべての生きものは、もともとは宇宙の大生命であり、清らかな光明そのものだったのですが、これが一定のからだを持つ生命体となってこの世に現れたとたんに、自分のからだにとらわれ、そのからだを保ち、殖やすことに懸命になってしまったのです。そのためには、前(三十一回)にも述べたように、どんなわがままでも、残忍なことでもやってきました。この自己中心の無意識的な心が末那識です。人間のいわゆる煩悩もここから起こり、ここにしみついているわけです。
阿頼耶識は万有の根源
阿頼耶識というのは、(一切万法顕現の原因としての潜勢力)と定義づけた人もおられるように、宇宙万物の存在の根源をなしている宇宙意志ともいうべき心をいうのです。万有を蔵するというので(蔵識)とも名づけられ、万有発生の種子であるとして、(種子識・しゅうじしき)とも呼ばれます。
心の世界はおよそつかみ難いものですが、この阿頼耶識ともなれば、いよいよ難しく、説明しようにも的確な仕方がなく、それをつかまえる方法も軽々には述べられません。ただ、次の二つの事例をつなぎ合わせると、なんとなく領得できるように思います。
発明王エジソンが、死ぬ少し前に、次のような言葉を残しています。
「着想は宇宙空間から来る。途方もなく、信じられない……と思うかもしれないが、それは事実だ。考えは空間から浮かび出るのだ」
文化勲章受賞の数学者・岡潔博士は、その名著(春宵十話)に次のように書いておられます(他の著書にも何度か引用しましたが、あまりにも貴重な体験だけに、経典の金言と同様、何十回繰り返し、引用してもよいと信じます)。
「七、八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうもひとところうまくゆかなかった。ところが、終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうした或る日、おつとめのあとで考えが或る方向へ向いて、わかってしまった。この時のわかり方は、以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたように、いちめんにあったものが固まりになって分れてしまったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」
発明とか数学とかいえば、まったく理性のみの所産だと考えられがちです。表面の心で理詰めに詰めていって、ある結果に到達するもの、と考えるのが普通です。ところがそうではなく、理詰めの前や後に、あるいはその中間にポッカリあいた無意識のエアポケットがあって、そこから貴重なアイデアがひらめいてくるものだということは、お二人の証言によって明らかだと思うのです。
阿頼耶識によき形を与える
スイスの有名な心理学者・ユングは、無意識の世界を分けて、個人的無意識と普遍的無意識としています。普遍的無意識というのは、ある家族にはみんなに共通する潜在意識があり、ある文化圏に属する人間(たとえば、東洋文化の中にいるアジア人)にも共通の潜在意識があり、もっと深く探れば、人類全体に共通の潜在意識があるというのです。
この普遍的無意識ということは、すでに世界の学者の間に認められている説ですが、これを阿頼耶識と同様に解釈している学者もいます。たとえば、アメリカのE・ホルムス博士は、普遍的潜在意識は、抽象的で、形のない状態における(心)であり、それは潜在的エネルギーであって、形をもつものに形づくられるように身がまえているのだ……と説明しています(西岡旻佐子訳(心の科学)2による)。この(身がまえている)という表現は、まことに説得力があります。エジソンや岡博士は、この身がまえていた普遍的無意識を素直に飛び出させ、それによき形を与える、なにものかをもっておられたのでありましょう。(つづく)
婦女形(法隆寺五重塔塑像)
絵 増谷直樹
―一念三千の現代的展開―(33)
立正佼成会会長 庭野日敬
最深部の無意識は人類共通
仏教で説く心の構造
これまでは、主として無意識の底に沈む暗い心を取り上げてきました。これは仏教でいう末那識(まなしき)に当たるものです。仏教では心の世界の構造をどう見ているかといいますと、代表的なのは(八識)という考え方です。八識というのは眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意の六識に、末那識・阿頼耶識(あらやしき)を加えた八つの心のはたらきです(大乗仏教では、第九識として阿摩羅識を加えますが、これは真如・仏性そのものですから、ここでは触れません)。
はじめの五識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって外界のものごとを感じ取るはたらきであり、意というのは、感じ取ったものごとを「美しい」とか、「好きだ」とか判断したり、「これをやろう」とか「これはやるまい」などと意志したりする心のはたらきをいいます。以上の六識は、われわれがハッキリ意識することのできる心で、いわゆる表面の心です。
末那識・阿頼耶識は、無意識の世界です。まず末那識ですが、仏教では、これが一切衆生妄惑の根本であると説かれているのです。すべての生きものは、もともとは宇宙の大生命であり、清らかな光明そのものだったのですが、これが一定のからだを持つ生命体となってこの世に現れたとたんに、自分のからだにとらわれ、そのからだを保ち、殖やすことに懸命になってしまったのです。そのためには、前(三十一回)にも述べたように、どんなわがままでも、残忍なことでもやってきました。この自己中心の無意識的な心が末那識です。人間のいわゆる煩悩もここから起こり、ここにしみついているわけです。
阿頼耶識は万有の根源
阿頼耶識というのは、(一切万法顕現の原因としての潜勢力)と定義づけた人もおられるように、宇宙万物の存在の根源をなしている宇宙意志ともいうべき心をいうのです。万有を蔵するというので(蔵識)とも名づけられ、万有発生の種子であるとして、(種子識・しゅうじしき)とも呼ばれます。
心の世界はおよそつかみ難いものですが、この阿頼耶識ともなれば、いよいよ難しく、説明しようにも的確な仕方がなく、それをつかまえる方法も軽々には述べられません。ただ、次の二つの事例をつなぎ合わせると、なんとなく領得できるように思います。
発明王エジソンが、死ぬ少し前に、次のような言葉を残しています。
「着想は宇宙空間から来る。途方もなく、信じられない……と思うかもしれないが、それは事実だ。考えは空間から浮かび出るのだ」
文化勲章受賞の数学者・岡潔博士は、その名著(春宵十話)に次のように書いておられます(他の著書にも何度か引用しましたが、あまりにも貴重な体験だけに、経典の金言と同様、何十回繰り返し、引用してもよいと信じます)。
「七、八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうもひとところうまくゆかなかった。ところが、終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうした或る日、おつとめのあとで考えが或る方向へ向いて、わかってしまった。この時のわかり方は、以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたように、いちめんにあったものが固まりになって分れてしまったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」
発明とか数学とかいえば、まったく理性のみの所産だと考えられがちです。表面の心で理詰めに詰めていって、ある結果に到達するもの、と考えるのが普通です。ところがそうではなく、理詰めの前や後に、あるいはその中間にポッカリあいた無意識のエアポケットがあって、そこから貴重なアイデアがひらめいてくるものだということは、お二人の証言によって明らかだと思うのです。
阿頼耶識によき形を与える
スイスの有名な心理学者・ユングは、無意識の世界を分けて、個人的無意識と普遍的無意識としています。普遍的無意識というのは、ある家族にはみんなに共通する潜在意識があり、ある文化圏に属する人間(たとえば、東洋文化の中にいるアジア人)にも共通の潜在意識があり、もっと深く探れば、人類全体に共通の潜在意識があるというのです。
この普遍的無意識ということは、すでに世界の学者の間に認められている説ですが、これを阿頼耶識と同様に解釈している学者もいます。たとえば、アメリカのE・ホルムス博士は、普遍的潜在意識は、抽象的で、形のない状態における(心)であり、それは潜在的エネルギーであって、形をもつものに形づくられるように身がまえているのだ……と説明しています(西岡旻佐子訳(心の科学)2による)。この(身がまえている)という表現は、まことに説得力があります。エジソンや岡博士は、この身がまえていた普遍的無意識を素直に飛び出させ、それによき形を与える、なにものかをもっておられたのでありましょう。(つづく)
婦女形(法隆寺五重塔塑像)
絵 増谷直樹