心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(17)
立正佼成会会長 庭野日敬
劣等感を解消するには(1)
高い所から自分を眺める
自分自身に劣等感をもちながら、スッキリしない気持で日々を暮らしている人が世の中には多いようです。せっかくの一生を、そんなジメジメした、不透明な心理状態で送るなんて、これほど不幸なことはないと思います。自分自身が不幸であるばかりでなく、そういう気持は周囲の人々にも反映して、なんとなく暗いイヤな印象を与えます。当然の成り行きとして、他人にも好意をもたれず、それがまた劣等感に輪をかけるという悪循環を繰り返すのです。
ここで断っておきたいのは、一時的な自己嫌悪と劣等感とは違うということです。われわれはある物事に失敗したり、つまらぬ言動をしたり、ふと醜い心を起こしたりしたとき、つくづく自分がイヤになることがあります。そういう一時的な自己嫌悪は、健全な精神のはたらきであり、それがあればこそ、人間は人格的にも成長し、生活的にも進歩するのです。それに対して、劣等感というのは何か決定的な様相をもって、いつも心につきまとっている卑屈な感じをいうのです。これがよくないのです。
さて、そのような劣等感を解消するにはどうすればよいか。ここでも、前に述べた(見る自己)をはたらかせればよいのです。この場合(見る自己)をどこに置けばよいかといえば、できるだけ高い所に置くのです。最初の宇宙飛行士が「地球は青い球だった」と言っています。その青い球の上にいる三十数億の人間は、もちろん見えなかったわけですけれども、仮に見えたとしたら、みんな同じような粒々だったでしょう。それほど高く上がらなくても、町外れの山の上から、あるいは四十何階建てのビルの屋上から、地上にいる自分を含めた人間全体を眺めてみるといいのです。そこから見下ろすと美人も不美人も同じです。頭のいい人も悪い人も同じです。大金持ちも貧乏人も同じです。つまり、自分もみんなと同じなのです。このことがハッキリわかれば、劣等感など飛んでいってしまうでしょう。
ものの見方に深浅五眼あり
これは決してゴマカシの見方ではありません。仏さまが衆生を見られる眼をお借りした、正しいものの見方です。仏教では、物事を見る眼に五つの種類があるとしており、これを五眼(げん)といいます。
第一は(肉眼(にくげん))です。現象に現れたものしか見ることができず、それもごく一部しか見ることのできない、視野の狭い、皮相な、近視眼的なものの見方です。
第二は(天眼(てんげん))です。肉眼では見ることのできぬ物事を見通し、見分ける能力で、昔、虫めがねのことを天眼鏡と呼んだのも、ここから出た言葉です。二十世紀の現実に即していえば、鉄も、石も、人間の身体も、目に見えぬ素粒子の集まりと知る……といったていの科学的なものの見方と考えてもいいでしょう。また、事物の表面だけでなく、その奥に隠された真相を見通す眼力と解釈してもいいでしょう。
第三は(慧眼(えげん))といって、天眼よりもさらに深く、宇宙のすべての物事の実相を明らかに見分け、それらをつらぬく理法をも手に取るように知る力です。仏教学上では(諸法の空を知る眼力)だとされています。
第四は(法眼(ほうげん))といってやはり物事の奥底を洞察する眼ではありますが、天眼が科学的な見方であり、慧眼が哲学的な見方であるのに対して、これは芸術的な見方だといえます。芭蕉の「静かさや岩にしみ入る蝉の声」の句のように、自然の生命に直入し、普通の人では感じられぬ真実を魂で感じ取る力です。この句に即していえば、芭蕉自身も蝉の声と共に岩にしみ入っているのです。
最後が(仏眼(ぶつげん))で、これこそが最高のものの見方です。肉眼・天眼・慧眼・法眼を兼ね具(そな)えていながら、すべての物事の底にあるいのちを等(ひと)し並(な)みに見、それらを等し並みに生かしてやりたいという大慈悲をたたえて見るのです。仏さまはこういう眼で一切衆生を見られるのです。つまり、宗教的なものの見方です。
肉眼に惑わされぬことこそ
さて、高い所に(見る自己)を置いて、多くの人の中の自分を眺めてみるというのは、現象にとらわれた(肉眼)から離れて、すべての存在を等し並みに見る(仏眼)に近づく方便にほかならないのです。人間それぞれ、現象の上では美醜あり、賢愚あり、強弱があるように見えますが、その底にある本質は等しく宇宙の大生命から分け与えられた純粋の生命(仏性)です。肉眼に惑わされることなく、この真実を見ることができれば、劣等感などはいっぺんに雲散霧消してしまうのであります。(つづく)
楽人、飛天(薬師寺東塔、水煙部分)
絵 増谷直樹
―一念三千の現代的展開―(17)
立正佼成会会長 庭野日敬
劣等感を解消するには(1)
高い所から自分を眺める
自分自身に劣等感をもちながら、スッキリしない気持で日々を暮らしている人が世の中には多いようです。せっかくの一生を、そんなジメジメした、不透明な心理状態で送るなんて、これほど不幸なことはないと思います。自分自身が不幸であるばかりでなく、そういう気持は周囲の人々にも反映して、なんとなく暗いイヤな印象を与えます。当然の成り行きとして、他人にも好意をもたれず、それがまた劣等感に輪をかけるという悪循環を繰り返すのです。
ここで断っておきたいのは、一時的な自己嫌悪と劣等感とは違うということです。われわれはある物事に失敗したり、つまらぬ言動をしたり、ふと醜い心を起こしたりしたとき、つくづく自分がイヤになることがあります。そういう一時的な自己嫌悪は、健全な精神のはたらきであり、それがあればこそ、人間は人格的にも成長し、生活的にも進歩するのです。それに対して、劣等感というのは何か決定的な様相をもって、いつも心につきまとっている卑屈な感じをいうのです。これがよくないのです。
さて、そのような劣等感を解消するにはどうすればよいか。ここでも、前に述べた(見る自己)をはたらかせればよいのです。この場合(見る自己)をどこに置けばよいかといえば、できるだけ高い所に置くのです。最初の宇宙飛行士が「地球は青い球だった」と言っています。その青い球の上にいる三十数億の人間は、もちろん見えなかったわけですけれども、仮に見えたとしたら、みんな同じような粒々だったでしょう。それほど高く上がらなくても、町外れの山の上から、あるいは四十何階建てのビルの屋上から、地上にいる自分を含めた人間全体を眺めてみるといいのです。そこから見下ろすと美人も不美人も同じです。頭のいい人も悪い人も同じです。大金持ちも貧乏人も同じです。つまり、自分もみんなと同じなのです。このことがハッキリわかれば、劣等感など飛んでいってしまうでしょう。
ものの見方に深浅五眼あり
これは決してゴマカシの見方ではありません。仏さまが衆生を見られる眼をお借りした、正しいものの見方です。仏教では、物事を見る眼に五つの種類があるとしており、これを五眼(げん)といいます。
第一は(肉眼(にくげん))です。現象に現れたものしか見ることができず、それもごく一部しか見ることのできない、視野の狭い、皮相な、近視眼的なものの見方です。
第二は(天眼(てんげん))です。肉眼では見ることのできぬ物事を見通し、見分ける能力で、昔、虫めがねのことを天眼鏡と呼んだのも、ここから出た言葉です。二十世紀の現実に即していえば、鉄も、石も、人間の身体も、目に見えぬ素粒子の集まりと知る……といったていの科学的なものの見方と考えてもいいでしょう。また、事物の表面だけでなく、その奥に隠された真相を見通す眼力と解釈してもいいでしょう。
第三は(慧眼(えげん))といって、天眼よりもさらに深く、宇宙のすべての物事の実相を明らかに見分け、それらをつらぬく理法をも手に取るように知る力です。仏教学上では(諸法の空を知る眼力)だとされています。
第四は(法眼(ほうげん))といってやはり物事の奥底を洞察する眼ではありますが、天眼が科学的な見方であり、慧眼が哲学的な見方であるのに対して、これは芸術的な見方だといえます。芭蕉の「静かさや岩にしみ入る蝉の声」の句のように、自然の生命に直入し、普通の人では感じられぬ真実を魂で感じ取る力です。この句に即していえば、芭蕉自身も蝉の声と共に岩にしみ入っているのです。
最後が(仏眼(ぶつげん))で、これこそが最高のものの見方です。肉眼・天眼・慧眼・法眼を兼ね具(そな)えていながら、すべての物事の底にあるいのちを等(ひと)し並(な)みに見、それらを等し並みに生かしてやりたいという大慈悲をたたえて見るのです。仏さまはこういう眼で一切衆生を見られるのです。つまり、宗教的なものの見方です。
肉眼に惑わされぬことこそ
さて、高い所に(見る自己)を置いて、多くの人の中の自分を眺めてみるというのは、現象にとらわれた(肉眼)から離れて、すべての存在を等し並みに見る(仏眼)に近づく方便にほかならないのです。人間それぞれ、現象の上では美醜あり、賢愚あり、強弱があるように見えますが、その底にある本質は等しく宇宙の大生命から分け与えられた純粋の生命(仏性)です。肉眼に惑わされることなく、この真実を見ることができれば、劣等感などはいっぺんに雲散霧消してしまうのであります。(つづく)
楽人、飛天(薬師寺東塔、水煙部分)
絵 増谷直樹