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心が変われば世界が変わる
 ―一念三千の現代的展開―(40)
 立正佼成会会長 庭野日敬

業の法則を実証する転生

生まれ変わりの経過は

 では、生まれ変わりはどういう経過で行われるのでしょうか。人間が死んで肉体は分解しても、魂は肉体から離れて存在し続けると言われています。そしてもしそれが未純化であり、再び人間として修行をする必要のある魂ならば、その進化の状態にふさわしい夫婦の肉体を借りて母の胎内に宿り、新しい苦の人生を体験しつつ魂の進化を続けるものとされています。ですから、肉体のいのちは父母および先祖代々から受け継ぐのですけれども、魂ははるかな前世から自分のものであり、未来永劫に至るまで自分のものであるわけです。自分のものというよりは、自分自身そのものなのです。
 仏教で説く業の思想もこれから出たものである。法華経の歴劫修行(何度も何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、人格の完成へ向かうという思想も、やはりここから出ているのであります。
 文化勲章受章の電子工学の世界的先駆者岡部金治郎博士は、科学者の目をもって魂の問題と生まれ変わりを研究している方ですが、その著(人間死んだらどうなるか)に、こう述べておられます。「……子供の魂は両親のそれらにはまったく関係のない外来のものであって、ある時期に宿ったことになる。その時期はよくわからないが、おそらく胎児になるかならないかのとき、すなわち、受精卵が胎児になろうとするころではないかと思われる」
 また、その改訂版(人間死んだらこうなるだろう)には、次のように結論づけておられます。
 「人間を含むすべての動物の主体は、魂であって、肉体は、魂が、その精神的機能を発揮するのに必要なものではあるが、主体ではない。魂から見れば、肉体は、新陳代謝によって絶えず変化している流れ者であり、またよそものであるといえよう」「人間死ねば肉体はもちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう」

法華経に説かれる業報

 法華経の譬諭品や勧発品に、この経を信ずる人を嘲笑したり、憎んだりする者が次の世でどんな業報を受けるかがさまざまに説かれています。人間に生まれ変わっても、諸根暗鈍であるとか、もろもろの悪重病をもって生まれる等々とあります。反対に、この経を素直に信受し、法の如くに行い、広く人に説くような人は、後の世にも善処に生じ、道を以て楽を受け、人間に生まれても利根にして智慧あり、人相も円満具足しているであろう……等々と、薬草諭品、随喜功徳品その他にいろいろと説かれています。
 これらを、たいていの人は、戒めのための方便のように受け取ります。もっと悪意をもって、我が田に水を引く言葉だとか、脅迫的言辞だとか言う人もあります。それは、いずれも短見であって、業の法則・転生ということからすれば、まことにそうあるべきことなのであります。
 一八七七年にアメリカのケンタッキーで生まれたエドガー・ケーシーという人は、ふとしたことから催眠状態に入って人々の前世の姿を透視する能力を得、それによって病気を治すいろいろな指示を与え、多くの人を救いました。ケーシーが透視した生まれ変わりの例は、二千五百件に及び、心理学者のジナ・サーミナラ女史がその転生例から、病気、結婚運、職業能力、家族構成等の前世的原因を分析して(超心理学が解明する転生の秘密)という著書にまとめ、全米的に評判となり、日本語訳も(たま出版)から出ています。
 その本を読みますと、右に引いたような法華経の文言がなるほどと納得できる例がたくさんあります。

前世で人を水に浸した報い

 例えば二歳の時から毎晩寝小便をする子がいました。母親は普通の医者から精神科医にまでかかって手を尽くしましたが、いっこうによくならず、とうとう十歳を迎えました。たまたまエドガー・ケーシーの評判を聞いた両親は、相談に行きました。ケーシーが催眠に入って透視したところ、その少年の前生は、アメリカ初期の清教徒時代、つまり魔女裁判がよく行われていたころの福音伝道師で、魔女の容疑を受けた者を椅子に縛りつけて池に沈める刑を積極的にした人であることがわかりました。人を水浸しにしたその報いが夜尿症となって現れ、自分が毎晩水浸しになったわけです。
 ケーシーは、(椅子浸し)などという刑があったことなど全然知らなかったのですが、百科事典を引いてみて、自分が透視した事柄の意味を知り、少年が眠りに入る前にある暗示を与えるように両親に指示しました。その指示のとおり、母親は子供のベッドのそばに座って、低い単調な声でこう話しかけたのでした。「あなたは親切で立派な人です。あなたは多くの人を幸福にするでしょう。あなたはつき合うすべての人を助けるでしょう。あたなは親切な立派な人です」。同じ意味のことをいろいろな言い方で五分から十分ぐらい、子供が眠りかけたとき繰り返しました。
 すると、その晩、九年越しの寝小便のくせはピタリとやんだのです。それから数ヵ月間、母親はその暗示を続け、その間一度も寝小便をせず、次第に一週に一回の暗示ですむようになり、遂にその必要もなくなったというのです。サーミナラ女史は、この暗示について、大切なのは「寝小便ををしてはいけない」という肉体的意識に呼びかける暗示ではなく、霊的意識ともいうべきものに暗示が向けられたことである……と述べています。
 もちろん現実の生活はいろいろな要素が錯綜していますから、直ちにそのまま現れないことが多いものです。だからといって、タカをくくっていてはいけないのであって、魂には善因も悪因もそのままピシリと記録されるものと知らねばなりません。(つづく)

 侍者像・婦女形(法隆寺)
 絵 増谷直樹

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