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心が変われば世界が変わる
 ―一念三千の現代的展開―(18)
 立正佼成会会長 庭野日敬

劣等感を解消するには(2)

自分が生まれた因縁を思え

 劣等感を解消するには、高い所から自分を含めた人間全体をながめてみるとよい……と、前回に述べました。しかし、それでもなおかつ現実の差別感から超越しきれない人もあることと思われます。そのような人は、思い切って現象そのものと取り組んでみることも、逆療法として効果があると思われます。というのは、自分が現象人間としてこの世に生まれてきた因縁について(その因縁の理を知ることによって)一種の諦観に達することです。
 その理については、後に詳しく説明いたしますが、簡単に言えば、自分の本体は(魂)であって、肉体は借り物だということです。前の世の人生でまだ純化の修行が完成しなかった魂は、その未完成の状態にふさわしい。言い換えれば、これから続けていく修行にふさわしい父母の肉体を選んで借り、父母が新しい生命を生み出す受胎の瞬間にその新しい肉体に宿るものとされています。ですから、生まれつきの体格や、性質や、能力などがどうあろうとも、それは自分の責任であって、父母の責任ではありません。よく「こんな人間に産んでくれて……」と父母を恨む人がありますが、とんでもない考え違いです。恨むどころか、そのお腹を借りて生まれてきた不完全な自分を、命を削る思いで愛育してくれた父母のありがたさに、手を合わせなければならないのです。
 現実の自分が他より見劣りがするようであっても、それは右に述べたような因縁によるものですから、その現実を素直に認めて割り切ることが大切です。

他を愛しつつ美しく生きる

 そして、現実の自分にふさわしい仕事に、そして人生のすべてに、全力をあげて取り組むことです。苦しみもありましょうし、悩みもありましょうけれども、その苦しみ悩みに対して、あくまでも誠実な態度で立ち向かい、それを克服していく努力が肝心なのです。それが魂の修行にほかなりません。
 また、どんなに苦しい人生の中でも、周囲の人には親切を尽くし、たとえどんな小さいことでも、世のためになることをコツコツと行っていくことを忘れてはなりません。人ばかりでなく、動物・植物にも愛情を注ぎ、(物)の殺生をも慎み、つつましく生きていくことを心がけることです。このような人生は、どんなに華やかな、見かけ上の幸福な人生よりも、ずっと価値あるものであります。そうした生き方こそが、また、魂の純化の修行にほかならないのです。
 このような生き方は、やろうと思えばだれにでもできます。どんなに頭が悪くどんなに才能に恵まれない人にもできます。ですから、劣等感に悩む人は、見かけ上の劣等さを逆手にとって、このような真実のこもった、ひっそりとした美しい人生を送ることを心がけるのも一つの生き方だと信じます。

泉への道後れゆく安けさよ

 もう一つ、いたずらに他人を羨(うらや)まぬことです。「隣の芝生は青い」という諺がありますが、人間には多少ともそうした見方をする癖があります。隣の芝生が青いと思ったら、自分の庭の芝生にも水や肥料をやったり、こまめに芝刈り機をかければいいのであって、ただ羨むばかりでは、それが高じて嫉妬に変じたり、自らの劣等感をそそる結果になり、いいことは一つもありません。
 ドイツにあった話ですが、クンツという労働者が仕事からの帰りに飲食店に寄り、黒パンをかじって貧しい食事をしていると、店の前に高級自動車が止まりました。車中の人は戦争成り金らしく、召使いにビフテキとワインを運ばせて車の中で食べ始めました。クンツが思わず「ああ、おれだって同じ人間なのに、何という惨めさだ」と嘆くと、その人は「そんなに私が羨しいなら、私の身体と財産そっくりと、君の体と財産そっくりと交換しよう」と言い出しました。クンツが半信半疑で突っ立っていると、召使いが主人を抱いて車から降ろそうとしました。見ると、その人は足が二本ともなかったのでした。
 人間、多かれ少なかれ、隠れた不幸を背負っているものです。それを知らずにむやみと人を羨むのは不健全な精神です。もちろん、成長と向上の努力は常になしつつも、現在の瞬間瞬間には「私は幸せだ」という感じをもっている人、これこそほんとうに幸福な人なのです。結核で長く闘病生活を続けていた俳人の石田波郷さんが、友人と山道を歩いたときの句にこういうのがあります。
 泉への道後(おく)れゆく安けさよ
(つづく)
 菩薩像(東大寺五重塔・塑像)
 絵 増谷直樹

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