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仏教者のことば(51)
立正佼成会会長 庭野日敬

 衆生仏を礼(らい)すれば、仏これを見たもう。衆生仏を唱うれば、仏これを聞きたもう。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じたもう。
 法然上人・日本(勅修御伝)

目に見えぬ実在を信ずる

 われわれの周囲には、いろいろな電波が飛び交っています。テレビの電波、ラジオの電波、自動車電話の電波、トランシーバーを使う市民ラジオの電波等々、それらには中波あり、短波あり、超短波あり、極超短波などがありますが、目に見えず、耳にも聞こえません。しかし、ラジオ受信機なり、テレビ受像機なりをその波長に合わせれば、たちまち音声が聞こえ、画像が現れます。
 仏とわれわれ衆生との関係もそれと同じです。仏とは目に見えぬ存在です。仏の三つの身については前(第四十七回)に説明しましたので詳しくはそれを読み返して頂くとして、法身の仏とは宇宙の大生命であり、宇宙に充ち満ちてわれわれを生かし、存在せしめている根源のエネルギーですが、もちろんわれわれの目には見えません。
 しかし、われわれが「自分は確かに法身の仏に生かされているのだ」「宇宙の大生命が造り出された天地の万物に生かされているのだ」と深くしみじみと思えば、たちまち心が広々となり、すべての人間とはもちろんのこと、大自然のすべての物と仲よしになろうという気持ちになります。そういう気持ちになることは人間として最高の幸せであります。最高の救いであります。それというのも、われわれの心の受信機を法身の仏、すなわち宇宙の大生命の波長に合わせたればこそ、つかみ得た幸せであり、救いにほかならないのです。

愛する者は愛される

 法然上人の右の言葉は、おそらく報身の仏について申されたものでありましょう。報身の仏とは、永遠不滅の最高級霊として霊界に実在され、地上のわれわれを守護し、指導してくださる大慈悲の発信機のようなお方です。もちろん目には見えません。しかし、信仰者はその実在を信じるのです。
 信じるようになる過程にはいろいろあります。心の極めて純粋な人は、信頼する師なり僧なりから「仏さまは確かにいらっしゃるんですよ」と聞かされただけでたちまち信ずるようになるもので、イエス・キリストも「見ずして信ずる者は幸いなり」と言われたように、じつに幸せな人です。神なり仏なりに波長の合う心を自然と持ち合わせているからです。その他の普通の人は、経典を学んだり、説法を聞いたりすることを繰り返した結果、「なるほど」と納得して信ずるようになるわけです。
 どちらでもいいのです。とにかく上に掲げた言葉のとおり、仏の実在を信じて心から礼拝すれば、心の波長が仏の波長と合致しますから、仏もその人のほうを向いてくださるのです。南無仏と唱えれば、仏もそれを聞いてくださるのです。仏を念ずれば、仏もその人のことを念じてくださるのです。これは、熱心な信仰者が宗教的体験として必ず直感する事実です。そして、信仰ならでは得られぬ法悦の境地なのです。
 またこのことは、世俗の世界の人間関係においてもそのまま通用する原理です。ある人を「いい人だな」という目で見れば、以心伝心でそれが通じ、その人もこちらに好感を持つようになります。こちらが相手を信頼すれば、相手もそれに応(こた)えるようになります。「愛する者は愛される」という言葉のとおりです。
 ですから、われわれはできうる限り広々とした温かい心を持って、多くの人に愛情をささげたいものです。そうすれば、必ず真の意味の幸せな人生が約束されるでしょう。
題字 田岡正堂

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