法華三部経の要点 ◇◇37
立正佼成会会長 庭野日敬
根があってこそ枝葉も繁る
薬草諭品の大意
薬草諭品に入りましょう。この章の大意は、――久遠実成の仏さまがすべての生あるものに注がれる「慈悲」はあくまでも平等であるが、それを受ける衆生はその個性によってさまざまな受け取り方をする――ということです。別な角度から見れば、この世のものごとには「平等相」と「差別相」の両面があるという哲理が述べられているのです。
その中心になるのが『三草二木の譬え』です。「迦葉よ。たとえていえば、この世界中の山や、谷間や、平野に生えている小さな木や、大きな木や、いろいろな草や薬草などは、種類がさまざまで、名前も形もそれぞれに違っている。それらの上に降って来る雨は一相一味であって、どの木にもどの草にも平等に降り注ぐ。しかし、その雨を受けるほうは、草木の大小や種類によって受け取り方が違うのである。それぞれの草木の性質に応じて、根・茎・枝・葉が違った形で生長し、思い思いの花をひらき、思い思いの実を結ぶのである」とあります。
信・戒・定・慧の四要素を
まず、この「根・茎・枝・葉」ということから考えていってみましょう。
これは信仰の不可欠の条件である、「信」「戒」「定(じょう)」「慧(え)」を象徴しているのです。
草木にとっていちばん大切なのは根です。根がなければ茎も枝葉も出ません。その根が「信」なのです。
「信」があってこそ「戒」も守れます。在家信仰者に示された五戒の、ムダな殺生をしてはいけないとか、ウソをついてはいけない等々の「戒」も、ともすればその場その時の自分の都合によってつい破ってしまうのが凡夫の常です。ところが、仏さまを信じ、いつでも自分を見守ってくださっているのだと信じていると、どうしてもそういった「戒」を守らざるをえないのです。畏(おそ)れる心からです。
「戒」を守っておれば、おのずから心が安定します。仏さまのみ心と自分の心と波長が合致するからです。従って「定(精神が統一して乱れない境地)」にも自然と入っていけるのです。
「定」の境地に入って初めてほんとうの「慧」を得ることができます。「慧」というのは一切のものごとの真のすがたを見きわめる智慧のことです。
ここまで来ればもはや「人生の達人」と言ってもいい素晴らしい人となれるわけですが、それも元をただせば「信」という根があってこそのことです。これが宗教のいのちです。宗教の存在価値です。宗教が一般の倫理・道徳と違うエネルギーを持っている理由はこの一点にあるのです。
この根・茎・枝・葉という順序を逆に考えていってみますと、いくら根が丈夫でも、あるべき枝葉が落ちたり、茎が切られたりしたら、ついには根も腐ってしまいます。それと同じで、ほんとうの「慧」がなかったら、「信」も間違った信、すなわち迷信になってしまいます。
また、「定」がなかったら、信仰に疑惑を生じてフラフラと迷いに陥り、不幸への道へ転落する結果になります。
また「戒」を守らずに暮らしていれば、「信仰なんていらない」といった気持ちが生じ、いつしか久遠の仏さまの慈悲に背を向ける生きざまに堕落してしまいましょう。そういう生きざまがどんな結果になるかは、火を見るよりも明らかなことです。
このように、「信」「戒」「定」「慧」の四つはいつもしっかりとつながって共存していなければならないもので、どれひとつ欠けても完全ではなく、信仰はスクスクと育ってはいかないのです。このことを、ここのくだりからくみ取らねばなりません。
立正佼成会会長 庭野日敬
根があってこそ枝葉も繁る
薬草諭品の大意
薬草諭品に入りましょう。この章の大意は、――久遠実成の仏さまがすべての生あるものに注がれる「慈悲」はあくまでも平等であるが、それを受ける衆生はその個性によってさまざまな受け取り方をする――ということです。別な角度から見れば、この世のものごとには「平等相」と「差別相」の両面があるという哲理が述べられているのです。
その中心になるのが『三草二木の譬え』です。「迦葉よ。たとえていえば、この世界中の山や、谷間や、平野に生えている小さな木や、大きな木や、いろいろな草や薬草などは、種類がさまざまで、名前も形もそれぞれに違っている。それらの上に降って来る雨は一相一味であって、どの木にもどの草にも平等に降り注ぐ。しかし、その雨を受けるほうは、草木の大小や種類によって受け取り方が違うのである。それぞれの草木の性質に応じて、根・茎・枝・葉が違った形で生長し、思い思いの花をひらき、思い思いの実を結ぶのである」とあります。
信・戒・定・慧の四要素を
まず、この「根・茎・枝・葉」ということから考えていってみましょう。
これは信仰の不可欠の条件である、「信」「戒」「定(じょう)」「慧(え)」を象徴しているのです。
草木にとっていちばん大切なのは根です。根がなければ茎も枝葉も出ません。その根が「信」なのです。
「信」があってこそ「戒」も守れます。在家信仰者に示された五戒の、ムダな殺生をしてはいけないとか、ウソをついてはいけない等々の「戒」も、ともすればその場その時の自分の都合によってつい破ってしまうのが凡夫の常です。ところが、仏さまを信じ、いつでも自分を見守ってくださっているのだと信じていると、どうしてもそういった「戒」を守らざるをえないのです。畏(おそ)れる心からです。
「戒」を守っておれば、おのずから心が安定します。仏さまのみ心と自分の心と波長が合致するからです。従って「定(精神が統一して乱れない境地)」にも自然と入っていけるのです。
「定」の境地に入って初めてほんとうの「慧」を得ることができます。「慧」というのは一切のものごとの真のすがたを見きわめる智慧のことです。
ここまで来ればもはや「人生の達人」と言ってもいい素晴らしい人となれるわけですが、それも元をただせば「信」という根があってこそのことです。これが宗教のいのちです。宗教の存在価値です。宗教が一般の倫理・道徳と違うエネルギーを持っている理由はこの一点にあるのです。
この根・茎・枝・葉という順序を逆に考えていってみますと、いくら根が丈夫でも、あるべき枝葉が落ちたり、茎が切られたりしたら、ついには根も腐ってしまいます。それと同じで、ほんとうの「慧」がなかったら、「信」も間違った信、すなわち迷信になってしまいます。
また、「定」がなかったら、信仰に疑惑を生じてフラフラと迷いに陥り、不幸への道へ転落する結果になります。
また「戒」を守らずに暮らしていれば、「信仰なんていらない」といった気持ちが生じ、いつしか久遠の仏さまの慈悲に背を向ける生きざまに堕落してしまいましょう。そういう生きざまがどんな結果になるかは、火を見るよりも明らかなことです。
このように、「信」「戒」「定」「慧」の四つはいつもしっかりとつながって共存していなければならないもので、どれひとつ欠けても完全ではなく、信仰はスクスクと育ってはいかないのです。このことを、ここのくだりからくみ取らねばなりません。