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人間釈尊63
異端者をも追放されず
1
...人間釈尊(63) 立正佼成会会長 庭野日敬 異端者をも追放されず プレイボーイ迦留陀夷 迦留陀夷(かるだい)は、浄飯王の師であるバラモンの子で、美ぼうと才気と弁舌で知られた貴公子でした。浄飯王はシッダールタ太子に出家の気配があるのを察し、快活明朗な彼を太子の侍者とし、太子の気持ちをなんとか現世の快楽へと引き戻そうとされましたが、結局その効はなかったのでした。 太子が出家された後、迦留陀夷はカピラ国の大臣となり、友好国の舎衛国によく出かけ、ハシノク王にもしばしばお目にかかっています。舎衛国の大臣・密護とも親友の間柄でしたが、いつしか密護の奥さんとも不倫関係に陥るというプレイボーイでした。 お釈迦さまが成道されてから、浄飯王は何度も使いを送って帰国を促されましたが、使いの者はみんなお釈迦さまのもとで出家してしまい、一人として帰って来ません。浄飯王は最後の手段として迦留陀夷を使者として出されたのですが、彼もどうしたわけか出家してお弟子になってしまいました。 しかし、迦留陀夷は「ぜひ一度お帰りになるように」とお釈迦さまを説得しましたので、お釈迦さまも老父王を慰めに行こうというお気持ちになられ、歴史的な帰国となったのでした。ぜんぜん違った性格と思想の持ち主なのに、どこか気の合うところがあったのではないかと推測されるのです。 家庭教化の名手でもあった 迦留陀夷は比丘となってからも相変わらずやんちゃぶりを発揮していました。六群の比丘という暴れ者仲間のリーダーとなって、祇園精舎の森のカラスを何十羽も射落としたり、少年比丘たちを引き連れて町を練り歩き、人々をからかったり、いたずらをしたりしました。 王宮にも自由に出入りできたのですが、ある時フト末利夫人の裸体を見たことから、祇園精舎に帰って「おれは王妃の裸を見たぞ」と触れ回ったこともありました。そのほか、比丘尼や町の女性と問題を起こしたことも度々あったのです。 もちろん、その都度、お釈迦さまは彼を呼びつけ厳しく叱責されたのですが、戒律の定めでは、ある違反を初めて犯した時は「教団からの追放」という最大の罰は与えないことになっていましたので、その規則の通りいつもお叱りだけにとどめられたのでした。 そうした問題児だった一方では、酸いも甘いも噛み分けた、いわゆるワケ知りだけに、親子・夫婦のいざこざを納めるのが上手で、家庭ぐるみ教化して仏法へ導いた数が舎衛城だけで九百九十九家に達したといいます。 ところが、最後に教化しようとしたある主婦が、ひそかに情を通じていた盗賊の首領との仲を割かれるのではないかと思い、その男をたきつけて迦留陀夷を殺そうとたくらんだのでした。そして、迦留陀夷が女の招きによってその家に行って法を説き、夜道を帰るところを、一刀のもとに斬り殺されたのでした。じつに壮烈な殉教だったのです。 翌日、全比丘の集会がありましたが、迦留陀夷の姿が見えないのでみんなが不審に思っていると、お釈迦さまは神通力で昨夜の殉教を知っておられ、 「迦留陀夷とわたしは若い時分からの親しい友であったが、ああ、いまついに別れることになった」 と、悲しげにおおせられたといいます。 この一語に、お釈迦さまの迦留陀夷に対する特別なお気持ちがうかがわれるように思います。単なる師弟という間柄を超えた人間的愛情をそこに感じとっても、仏さまに対する冒瀆にはならないのではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊64
【機関紙誌】
釈尊の前世物語
人間釈尊64
釈尊の前世物語
1
...人間釈尊(64) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の前世物語 人民の犠牲となった猿の王 お釈迦さまが祇園精舎で大勢の人たちにこんな話をなさいました。 ――むかしある所に五百匹の猿を従えた猿の王がいた。ある年がたいへんな干ばつで、山の木々にも実がよく生(な)らなかった。それもほとんど食べつくしてしまった。ところが、川一つ隔てた王城の園林には果樹がたくさん栽培されているので、猿王(えんおう)は一族を引き連れて移り住み、命をつないでいた。 しかし、園林の番人がそれを見つけて厳重な檻(おり)を作り、そこへ残らず追い込んでしまった。檻の一方だけは開いていたが、そこは川に面したけわしいがけになっており、逃げ出すことはできなかった。 猿王は一族の猿どもに命じて藤蔓(ふじづる)を集めさせ、それをつないで一本の綱とした。その一方の端を木に結びつけ、他方の端を自分の腰に結びつけ、ブランコのように川の上空を飛んで対岸の木の枝につかまった。そして蔓をその木に結びつけようとしたが、ほんの少しだけ長さが足りず、前足でつかまっているのが精いっぱいだった。 そこへ番人が見回りに来る気配がしたので、猿王はしっかと木の枝にしがみつき「みんな、早く渡れ」と叫んだ。五百の猿たちは藤蔓を伝い、最後には猿王の背中を渡って、無事に川を渡ることができた。 そのとたんに猿王は精根つきてバッタリと地上に落ち、気を失ってしまった。それを見た番人は猿王を捕らえて国王の前に引き据えた。猿王は「王さまの園林を荒らして申し訳ございません。これはわたくしの命令でしたことですから、どうぞわたくしだけを処刑して一族は見のがして頂きとう存じます。わたくしの肉はほんの少しですけれども、王さまはじめ皆さまの一晩のおかずにしてください」と申し上げた。 王はその心根に感動して、猿王を許したばかりか、国内に布告して猿たちが餌を取るのを妨げないようにと命じたのであった。 その猿王がいまのわたしであり、国王は阿難、五百の一族はいまの五百人の比丘たちである――と。 ジャータカの持つ意義 このようなお釈迦さまの前世の物語をジャータカ(本生譚)といい、仏典に出ているだけで約五百五十あります。普通の人間は、出生と同時に過去世のことはすっかり忘れてしまうのだといわれていますが、非常な神通力をもたれた世尊はあるいはそのような記憶を持っておられたのかもしれません。法華経でも、提婆達多品や常不軽菩薩品で前世の思い出を語っておられます。 仏教学者たちは、ジャータカは――世にもすぐれたお釈迦さまのお徳はとうてい現世の修行だけで達成されたものとは考えられないとした後世の信仰者たちが創作したものだ――としています。おそらく大部分のジャータカがそうなのでしょう。 しかし、だからといって、ジャータカを一種のお伽噺(おとぎばなし)として軽く見てはならないのです。わたしたちも子供のころ巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺に夢中になったものではありませんか。時代が変わっても、子供たちはアンデルセンやグリムの童話をむさぼり読み、それがどれぐらい子供たちの胸に美しい感動を刻みこみ、どれくらい温かな情緒を育て、一生の人間形成に役立ったか、計り知れないものがあります。 ですから、お釈迦さまの説かれた譬え話や、仏典に出てくる因縁話などを、けっして――ありえないこと――などと軽く見過ごしてはならないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊65
【機関紙誌】
譬喩から思索は限りなく
人間釈尊65
譬喩から思索は限りなく
1
...人間釈尊(65) 立正佼成会会長 庭野日敬 譬喩から思索は限りなく 麻を背負った二人の男 お釈迦さまが祇園精舎で多くの人々にこんな話をなさいました。 ――ある所に二人の友だち同士があって、仕事を求めて旅に出た。山を越え野を越えして歩いていると、ある荒野に麻がたくさん生い茂っているのを見つけ、これはお金になると早速それを刈り取り、背負えるだけ背負って故郷へ帰りかけた。 すると途中の山かげにたくさんの銀塊が転がっていた。第一の男は、背負っていた麻を捨てて、その銀塊を袋に入れて背負った。第二の男はそれを見向きもしなかった。 また旅を続けていると、土の中から金らしいものが顔を出しているのを見つけた。第一の男がそこを掘ってみると、金の塊がゴロゴロ出てきた。「これはすごい」と、すぐに銀塊と取り換えたが、第二の男はちょっと欲しそうな顔をしただけで取ろうともしない。 第一の男が――天からの授かりものなのにどうして取らないのか――と聞くと、 「麻をしっかり背負いこんでいて、おいそれと背中から下ろせないんだ」と言う。 「ぼくが手伝ってやるよ」 「いや、このままでいい。せっかく遠方から運んで来た麻だ。いまさら捨てるわけにはいかない」 「愚かなことを言うな。こうしてやる!」 第一の男は強引に友だちの麻の束を解き下ろそうとしたが、あまりしっかり結びつけてあるので、容易に取れない。第二の男は、 「余計なことをしてくれるな。おれに構わず先に行ってくれ」と言う。 仕方なくそのまま家に帰った彼は、莫大な財産を持って帰ったので、家族にも喜ばれ、一生幸せに暮らした。 それにひきかえ、第二の男は家族からは愚か者と呼ばれたばかりか、一生貧乏暮らしをしなければならなかった。 一つの譬喩から拡がるもの 中阿含経に出てくるこの譬え話は、読みようによっては別の解釈もできますが、ここでは善をみつけたら、それまで身につけていた悪を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てて、善へ乗り換えよ……という教訓だとされています。 しかし、現代のわれわれがこの譬え話を読みますと、それをヒントとして、いろいろな連想が限りなくひろがっていくのです。 たとえば、ある低俗な信仰にはまりこんでいる人が、すぐれた高等宗教に巡り合ったとき、それに見向きもせず相変わらず迷信にとらわれておれば、一生を迷ったまま過ごさねばならない。 また、たとえば、ある思想を「これこそ真理だ」と固く思い込んでいた人が、それが誤った考えであり、もっとすぐれた思想があることを知っても、以前から背負っている思想を捨てるのは無節操だという無用のこだわりから、誤った思想にかじりつき、かえって世の中に害毒を流す。そのことに気づいて立て直しをしようとしている国が、世界に二つほどあります。 また、たとえば、金権政治と官僚主義を背中に固く結びつけている一国の指導層が、自由自在で創造的なやり方が目の前にあっても、勇敢にそれに乗り換えることをせず、国民をほんとうに幸せにできない国もどこかにある。 また、たとえば、二千年前の宗教上の恨みを麻の束のように捨てようとせず、いまだに争いを繰り返し、お互いが不幸になっている国々が中東にある。 このように、一つの譬え話から、思いは限りなくひろがっていき、そこから正しい道がおのずから見えてくるものです。ですから、仏典に出てくる譬え話を一概に無知の人のためのものと決めつけてはならないのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
開祖 (19880608A) 第3回国連軍縮特別総会「第3回国連軍縮特別総会への提言」
【音声】
開祖 (19880608A) 第3回国連軍縮特別総会「第3回国連軍縮特別総会への提言」
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...法話コード=開祖-1988-06-08-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=第3回国連軍縮特別総会「第3回国連軍縮特別総会への提言」 日 時=1988(昭和63)年6月8日 録音分=6分 場 所=ニューヨーク、国連本部 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19880608A) 第3回国連軍縮特別総会「第3回国連軍縮特別総会への提言」
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...○庭野開祖会長 関係各位に厚くお礼を申し上げます。 わたくしは幸運にも第1回並びに第2回の軍縮特別総会に際しましても意見発表の機会に恵まれました。 その間(かん)わたくしが一貫して米ソ首脳に主張し続けましたことは、「危険を冒してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである」ということでございました。 と同時に世界の安全が力による恐怖の均衡ではなく、新しい価値観に基づくものでなければならぬということを申してまいりました。 そして現在、米ソ間のINF全廃条約が締結されましたことは、新しい軍縮時代の幕開けとして高く評価したいと存じます。 時間の制約がございますので、次に要約した5項目だけでも6月25日の閉会までに、全会一致で採択されますことを、わたくしは心から願うものであります。 一つ、戦略核ミサイルのうち、少なくとも5割を廃棄すること。 二つ、包括的核実験禁止の合意と調印は、すべての国が速やかに実施すること。 3、現存する核兵器を凍結すること。 4、世界のあらゆる国は、西暦2,000年までに全核兵器を廃棄すること。 5、宇宙は平和的研究にのみ使われるべきものであるという見地から、SDIの開発には特に留意すべきこと。 さて、わたくしが所属している世界宗教者平和会議では、1970年の共同会議におきまして、次のように決議していることを報告したいと存じます。 すなわち「われわれは日本(にっぽん)の平和憲法を全人類に推奨したいと思う。われわれ宗教者はこのような憲法のあり方を守ろうとしている日本の国民に敬意を表明し、日本の国民がこの悲願の達成するよう、世界の宗教者がこれに協力するよう、心から訴えるものである」。 ところが現在、日本の防衛費をもっと増やすべきでは、(咳払い)増やすべきではあるまいかという声も聞かれますが、それはアジアの国々に、いたずらに不安を与えるだけであります。 それは軍縮にいちばん必要な信頼の醸成に反するものであります。 平和とは、つとに人類の生存の問題であり、安全とは他者とともに生きるという自覚の上に成り立つものであります。 その意味で、わたくしは「外(そと)なる平和」とともに、「内(うち)なる平和」にもっと留意すべきことを申し述べまして、わたくしの意見発表と致します。 ご清聴ありがとうございます。(一同 拍手)...
人間釈尊66
【機関紙誌】
パセナーディ王との別れ
人間釈尊66
パセナーディ王との別れ
1
...人間釈尊(66) 立正佼成会会長 庭野日敬 パセナーディ王との別れ 師弟であり親友でもあった パセナーディ(波斯匿=はしのく)王とお釈迦さまは、もちろん師弟の間柄ではありましたが、その数々の接触を振り返ってみますと、なにか親しい友という感じがしてなりません。 あるとき王が、下腹を突き出すようにしてハァハァ息をしているのを見て、 「苦しそうだが、どうしたのですか」 と聞かれ、王が、 「今朝の食事を少し食べ過ぎたようで……」 と答えると、 「食べ過ぎはいけません。量を知って食をとることですよ。そうすれば寿命も延びるのですよ」 と忠告なさったこともあります。 あるときは、祖母を失って悄然(しょうぜん)としている王に、 川の水は休みなく流れ、往って帰ることはない。人の命もそれと同じである。逝く者は帰らない。たとえ千年の寿命があっても、必ず死んで去るのである。云々 という偈(げ)を詠んで、その悲しみを静められたこともあります。 このような親しい関係は晩年に至るまで変わることはありませんでした。 世間と僧伽を比べて 晩年のある時期、お釈迦さまが釈迦族の国のメーダルンバという村にご滞在になっていました。ちょうどそのときパセナーディ王が近くまで所用で来たので、お釈迦さまを訪問しました。 ところが、いつもと違って王の顔色が冴(さ)えないのを見られて、 「王よ。何か心配事でもあるのですか」 とお尋ねになりますと、 「はい。心にかかることがいっぱいあります」 「どんなこと……」 「いまや、国は国と争い、王族は王族と争い、バラモンはバラモンと争い、金持ちは金持ちと争っております」 「うーむ。そのとおり」 「しかも、母は子と争い、子は母と争い、父は子と争い、子は父と争い、兄弟は兄弟姉妹と争い、姉妹は兄弟姉妹と争い、友人は友人と争っております」 お釈迦さまは、何度もうなずきながら聞いておられました。 二十世紀末のわれわれが、このパセナーディ王のこの言葉を読むとき、現在の世界の情勢や国内の世相と思いくらべて、何か慄然(りつぜん)たるものを覚えざるをえません。 さて、王は言葉を改めて、 「その点、世尊の僧伽(さんが)を見ていますと、お弟子さん方はよく和合し、共に喜び、争うことはありません。乳と水のように融和し、お互いに愛情をこめた眼で見ながら暮らしておられます。じつに世の中の最高の手本でございます」。 お釈迦さまは、口辺に微笑を浮かべながら聞いておられます。そのとき王は、改まった口調で、 「世尊よ。世尊もクシャトリヤ(王族)でいらっしゃいます。わたくしもクシャトリヤです。世尊もコーサラ人ですし、わたくしもコーサラ人です。世尊も八十歳になられましたが、わたくしも八十歳になりました」 「王よ。そのとおりですね」 「わたくしは世尊に最上の尊敬と親愛を抱いていることを申し上げておきます。……さて、用事がございますので、これで失礼いたします」 そして座を立ち、辞去して行きました。 お釈迦さまは、それからマガダ国の霊鷲山に戻られ、そして最後の旅に出られたのですから、これがパセナーディ王との一生の別れだったのでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊67
【機関紙誌】
舎利弗の死を迎えられて
人間釈尊67
舎利弗の死を迎えられて
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...人間釈尊(67) 立正佼成会会長 庭野日敬 舎利弗の死を迎えられて 師と己の死期を知って お釈迦さまが最後の旅にお出かけになる少し前のことです。 かねてから病気がちだった舎利弗は、自分の寿命があまり長くないことを知っていたのですが、と同時に、世尊の入涅槃も遠くないことを、その天眼をもって見抜いていました。 ある日、禅定から出て澄み極まった心境にあったとき、ふと思い出したのは、過去の諸仏の高弟たちはみな師よりも先に入滅したという言い伝えでした。 ――そうだ。自分としても、世尊のご入滅をこの目で見たてまつるのは忍びえない。一日でも先に涅槃に入ることにしよう―― そう決意した舎利弗は、竹林精舎のお釈迦さまのみもとに行って申し上げました。 「世尊。わたしは近いうちに涅槃に入ろうと存じます。どうぞお許しください」 世尊は黙然として舎利弗の顔をみつめておられるばかりです。一言もお答えになりません。舎利弗は繰り返し繰り返し三度も同じことをお願いしました。世尊はようやく、 「なぜこの世にとどまることを願わず、涅槃に入ることを急ぐのか」 とお尋ねになりました。舎利弗は、 「過去の諸仏に仕えた弟子たちは、みな師より先に涅槃に入ったと聞いておりますので……」 とお答えします。世尊はしばらくじっとお考えになっておられましたが、 「そうか。そなたはよくその時を知った。では、どこで涅槃に入るつもりか」 「故郷の母を訪ねまして、その地で……」 「よろしい。許してあげよう」 「ありがとうございます。長年お導きくださいましたご恩は永久に忘却いたしません。最後の礼拝をさせて頂きます」 舎利弗はみ足に額をつけて伏し拝み、両の手を合わせて世尊を仰ぎ見ながら、お姿が見えなくなるまで後じさりして去って行きました。世尊は慈しみをこめた眼で、じっと見つめていらっしゃいました。 遺骨をわが掌に乗せよ 舎利弗は久しぶりに母を見舞い、ねんごろに仏法を説いて大安心を得せしめたあと、一人で別室に退き、右わきを下にして横になりました。そしてゆったりと禅定に入ってゆき、その極みにおいて静かに息を引き取ったのでした。 ずっとお供をしていた侍者のマハーチュンダは、涙ながらに遺体を火葬に付し、遺骨を抱いて竹林精舎へ帰ってきました。 迎えに出た阿難は、驚きと悲しみで声をあげて泣きながら世尊のおん前に手をつき、 「何ということでしょう。舎利弗長老が入滅されました」 と申し上げます。世尊は、 「嘆くことはない。すべては移り変わるのがこの世の定めではないか」 と慰められましたが、しかし、そのお顔はさすがに曇ってみえました。世尊はマハーチュンダに向かって、 「マハーチュンダよ。その遺骨をわたしの掌の上に乗せておくれ」 とおっしゃいました。 マハーチュンダが恐る恐る進み出て舎利弗の遺骨をお手の上に乗せますと、お釈迦さまはそれを大勢の比丘たちに示しながら、 「これが数日前までそなたたちに法を説いた大智舎利弗である。わたしの子の遺骨である。よく見ておくがよい」 とおっしゃるのでした。 人間味あふれるそのお言葉に、泣かない比丘はありませんでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊68
【機関紙誌】
最後の旅への出発
人間釈尊68
最後の旅への出発
1
...人間釈尊(68) 立正佼成会会長 庭野日敬 最後の旅への出発 「連れていっておくれ」 ある日お釈迦さまは、霊鷲山のご香室でひとり瞑想(めいそう)にふけっておられましたが、やがて傍らにいた阿難に、 「阿難よ。旅に出よう。今度は北へ向かって行こう」とおおせられました。 おん年すでに八十歳、お足もともなんとなくおぼつかないおからだなのに、また布教の旅にお出かけになろうとは、なんという強靭(きょうじん)な精神力でありましょう。 それにしても、北を目指されたのはどういうわけでしょうか。北といえば、生まれ育たれたカピラバストの方向です。やはりお年を召して故郷に引かれる思いが生じられたのではないかとも推測されるのですが、仏伝にはそれについてはなんら記されていません。 さて、阿難と数人のお弟子を連れて旅立たれたお釈迦さまは、まずナーランダ村におとどまりになりました。この地は、後に史上最大の仏教大学が建てられた所で、七世紀に中国の玄奘(げんじょう)三蔵(『西遊記』の主人公)もここで数年間学び、そのころは一万人の学僧がいたということです。 その地にしばらくご滞在になってから、お釈迦さまは「阿難よ。パータリ村へ連れていっておくれ」とおおせられました。中村元先生著『ゴータマ・ブッダ』の注に――「行こう」というパーリ文よりも「つれていってくれ」という梵文(ぼんぶん)のほうが、老齢の釈尊の姿をよく示している――とありますが、まことにそのとおりで、以前にも増して何かと阿難の介護が必要だったのでありましょう。 川を渡す人々への称賛 パータリ村はガンジス河の舟着き場で、北へおもむく旅人はここを通らねばならぬ交通の要衝でした。後には首都として栄えた所です。 人々は村をあげて世尊のご一行をお迎えし、心からの接待を申し上げました。世尊は村人たちのために戒・定・慧の三学についてこんこんとお説き聞かせになったと、仏伝には記されています。 いよいよ世尊がここからガンジス河を渡られる日が来ました。村人たちは総出でお見送りしました。ちょうどマガダ国の大臣が二人、この地に都城を築くために来ておりましたが、そのうちの一人がこう申し上げました。 「世尊よ。きょう世尊がお出になるこの門を『ゴータマの門』と名付けましょう。世尊がお渡りになる渡し場を『ゴータマの渡し』と名付けようと存じます」 世尊は感慨深げにその言葉をお聞きになりながら、一隻の筏(いかだ)にお乗りになったのでした。 さて、向こう岸にお着きになった世尊は、しばらくの間、はるかパータリ村のほうを眺めておられましたが、やがてお目を転じて、こちらの岸辺で働いている船頭たちや、筏造りの人々を親しげにご覧になりながら、次のような偈(げ)をお詠みになりました。 深い所をすてて橋を造り、流れを渡る人々もある。浮き袋を結びつけて筏を造って渡る人もある。渡り終わった人々は賢者である。 この偈の表面の意味は、煩悩と人生苦に満ちた世界から解脱の彼岸に渡る修行の種々相と、渡り終えた人の尊さを詠まれたのであることは明らかです。しかし、中村元先生は「交通が不便であった時代に、橋や筏をつくって実際に交通の便を開いてくれる人々に対する称賛の気持ちが含まれている、と見てよいであろう」と解説しておられます。 そういう見方をすれば、人間としての釈尊のお姿がまざまざと目前に浮かび上がってきて、ひとしお懐かしい思いが込み上げてくるのを覚えるではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊69
【機関紙誌】
これが最後の眺めであろう
人間釈尊69
これが最後の眺めであろう
1
...人間釈尊(69) 立正佼成会会長 庭野日敬 これが最後の眺めであろう 重き病を克服されて ガンジス河を北へ渡られたお釈迦さまの一行は、ヴェーサーリー(毘舎離)の都の近くに足をとどめられました。 かつてこの一帯に疫病が流行したとき、お釈迦さまを招請して祈願して頂いたところ、たちまちその疫病が終息したので、ヴェーサーリーの人々はとくに世尊に感謝し、帰依し、その教えを聞くことを喜びとしていました。お釈迦さまもしばしばここを訪れられ、法をお説きになった懐かしい土地です。 今度この地に来られたとき、雨期が始まりました。前にも書いたように、雨期の約三カ月のあいだは道も田畑も水びたしになり、旅をすることはできません。そこで一ヵ所にとどまって、いわゆる夏安居(げあんご)という修行をするのが教団のしきたりになっていました。 ところが、この年はあいにくたいへんな凶作で村々は食糧不足に苦しんでいました。そこでお釈迦さまは、比丘たちをヴェーサーリーの知人の家に分宿させ、ご自分は阿難と共にヴェルヴァーナ(竹林)という村で夏安居に入られたのでした。 もちろんこの村も食糧に困っており、ついには馬の飼料を召し上がらねばならなくなりました。おそろしい暑熱と湿度の高い季節でもあり、ひどく胃腸をそこなわれ、死ぬほどの苦しみをなさいました。しかし世尊は、比類のない精神力をもってその重病を克服されたのです。ホッとした阿難が、 「ああ、世尊のご病気が重くあらせられたときは、目の前が真っ暗になる思いでございました。ただ、教団の今後について何か遺言をなさらないうちは入滅されるはずがないと思っておりましたが……」と申し上げますと、 「わたしはすでに余すところなく法を説いた。もうわたしを頼りにすることはない。これからは各自が自らを灯(ともしび)とし、自らを依りどころとし、法を灯とし、法を依りどころとして修行しなければならないのだ」 と、有名な「自灯明・法灯明」の教えをお説きになったのでした。 象のごとく眺められた ある日、世尊は阿難を連れてヴェーサーリーの町に托鉢に行かれ、帰って食事をすまされると、 「阿難よ。日中の休息をとるためにチャーパーラ霊樹のもとへ行こう」とおおせられました。そして、神聖な木といわれるその大樹の木陰に座具を敷いてお休みになりました。そのとき次のような感想を述べられたといいます。 「阿難よ。ヴェーサーリーは楽しい。ヴデーナ霊樹は楽しい。バフブッタ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい」 そしてまた、こうもおおせられたとあります。 「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と。(中村元著『ゴータマ・ブッダ』より) お釈迦さまはご入滅の日の近いのをハッキリ予知されていたそうですが、現世に対するこうした楽しく明るい、そして肯定的な回顧をなさったことに、あらためて深い感銘を覚えざるをえません。 さて、いよいよヴェーサーリーを去られる日がきました。お釈迦さまは、象が眺めるように(と仏伝には記されている)ヴェーサーリーの町のたたずまいを眺めながら、おおせられました。 「阿難よ。これはわたしがヴェーサーリーを見る最後の眺めであろう」と。 これはまた、違った響きをもってわれわれの胸にしみこむ、人間味あふれるお言葉ではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊70
【機関紙誌】
阿難へ感謝のお言葉
人間釈尊70
阿難へ感謝のお言葉
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...人間釈尊(70) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿難へ感謝のお言葉 刻々と死に近づきながら ヴェーサーリーに別れを告げられてから、世尊はバーヴァー村の金属細工人チュンダ所有のマンゴー林に足をとどめられました。 チュンダは敬虔(けいけん)な信者でしたので、大喜びで世尊をお迎えし、世尊も――『道に生きる者』『道を説く者』がこの世で最も尊い存在である――という教えをねんごろにお説きになりました。 ところが、ここで思いがけないことが起こりました。チュンダがご供養申し上げた食事の中に、世尊だけに特別にお出ししたキノコ(一説には豚肉ともいう)がありましたが、そのキノコにあたって中毒にかかられた世尊は猛烈な腹痛を起こされ、激しい下痢をなさったのです。 それでも、その苦痛を耐え忍びながら、クシナーラへと出発されたのでした。しかし、いくらもお歩きにならないうちに、 「阿難よ。わたしは疲れた。わたしは座りたい。上衣を四つにたたんで敷いておくれ」と命ぜられました。座られるとすぐ、 「阿難よ。水を持ってきておくれ。わたしはのどが渇いている。水が飲みたい」 とおっしゃるのです。近くの河からくんできてさしあげると、おいしそうに飲まれてから、 「さあ、これからカクッター河のところへ行こう」 と阿難をうながして歩き出されました。そしてカクッター河にたどりつかれると、流れに入って水浴され、また水をたっぷりお飲みになりました。 そして岸に上がられると、「わたしは横になりたい。上衣を四つ折りにして敷いておくれ」と命ぜられるのでした。前には「座りたい」とおっしゃり、今度は「横になりたい」とおっしゃったことからも、体力が急速に衰えつつあったことが如実にうかがわれます。こうして、バーヴァーからクシナーラまではわずか数キロの道のりなのに、二十五回もお休みになったといいます。 その苦痛のなかから、 「阿難よ。そなたはチュンダの所へ行って、食事にキノコを出したことをくれぐれも後悔しないように言っておくれ。わたしの成道の因をつくってくれたスジャータの乳粥(ちちがゆ)と同じように、チュンダの供養した食事によって無余涅槃界(肉体さえも残さない絶対平安の世界)へ入ることができるのだから、最大の功徳なのだ……と、そう伝えるのだよ」 と命ぜられました。その深い思いやりのお言葉に人間釈尊のお徳の結晶があると言っても、けっして言い過ぎではないでしょう。 阿難よ、よく仕えてくれた クシナーラ村に入られた世尊は、阿難に、 「さあ、わたしのために、サーラ双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いておくれ。わたしは疲れた。横になりたい」 とおいいつけになりました。いよいよご臨終の時が近づいたのです。阿難は悲しみのあまり、お床の傍らで激しくしゃくりあげていました。すると世尊は、 「阿難よ。泣くのはやめなさい。わたしがいつも教えていたではないか。愛するものや好むものとも必ず別れなければならない。生じたもの、存在するものは必ず滅するものだ……と……」 それから言葉を改められ、 「阿難よ。そなたは長いあいだわたしによく仕えてくれた。そなたは善いことをしたのだよ。これからも努めはげむことだ。必ずすべての煩悩を除き尽くした身になるだろう」 と優しくおおせられたのでした。 阿難がどんな気持ちでそのお言葉を聞いたか、察するに余りがあります。 そのとき、クシナーラには夕暗が迫りつつありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
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