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開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会
25
...聞きにくいニュースが少なくなるという世界が、まず日本(にほん)という国をよくするということ、そして、外に向かっては、いま、申し上げたように、平和提唱ってようのことで。あらゆる精神界の方々と手をつないで、あらゆる方法もって、この核兵器っていうようのものを禁止して、そして、に、人間本然(ほんぜん)のものに目覚めるような時間までですね、この地球は破壊されたっていうようのことの恐ろしい、そういうことの来ないようの方法すると同時に、一人ひとり着実の、われわれの宗教活動としての積み上げ方式をわれわれは取って行かなきゃならない、ということが、わたしどもに課せられる使命じゃないかとこう考えるわけであります。 どうか、その意味で、層、一層の、わたくしどもの、広宣流布、要するに、われわれの修行、昼夜常精進の、修行と、こういうことをわたくしどもは、この、お誓いし合っていかなきゃならないのじゃないかと思うわけでございます。 本日は、たいへんに、くだらないようのことに話があっちこっち、なりましたけれども、まとまらないようの話になったようでございますが、報告はだいぶちょっとそれて、説法調になりましてたいへん恐縮でございましたが、どうか、この、わたしどもの、今度の、平和提唱も、皆さんの朝な夕な、また皆さんのこの何かの時に、いー、会員綱領として読み上げる、この平和境建設、寂光土の建設、というこのスローガン、それには、菩薩道に挺身することを期す、と最後にありますように、菩薩道をわたしども進めて行くっていうことが、わたしどものいちばんの要諦(ようたい)であるわけであります。...
開祖(19731012A) お会式
【音声】
開祖 (19571005A) 故恩師妙佼先生追悼説法会
【音声】
開祖 (19580822A) 帰朝挨拶
【音声】
開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会
【音声】
開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式
【音声】
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
【音声】
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
【音声】
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
【音声】
開祖 (19830407A) 第1回庭野平和賞贈呈式
【音声】
開祖 (19840727A)第25回IARF世界大会開会式
【音声】
開祖 (19880608A) 第3回国連軍縮特別総会「第3回国連軍縮特別総会への提言」
【音声】
開祖 (19911115A) 法燈継承式
【音声】
開祖 (19940417A) 故庭野直子殿本通夜お清め
【音声】
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
【音声】
開祖 (19820624A) 第2回国連軍縮特別総会
【音声】
開祖 (19941103A) WCRP開会式
【音声】
1
...誕生と庭野家の人々 一 私が生まれたのは、新潟県も上州寄りの山の中、くわしくいえば中魚沼郡十日町大字菅沼という当時で四十二戸、今は六戸しかない寒村である。 (昭和51年08月【自伝】) 私は、男五人、女一人の六人兄弟の次男に生まれました。 (昭和33年10月【速記録】) 菅沼には庭野姓と池田姓しかなかったのですが、海軍では、庭野という苗字の人はふたりだけで、私ともうひとりは赤倉出身の人でした。十日町やそのあたりの庭野家は、みんなその赤倉や、菅沼から出たもので、もともとは赤倉が本家だったようです。 (昭和54年01月【速記録】) 父重吉は次男で、十歳違いの実兄庄太郎の準養子となっていた。 というのは、この庄太郎という人が、大工もうまければ、左官もできる、桶を作らせても本職はだしという器用な人だったが、地道で骨の折れる農業がきらいだった。それにひきかえ、私の父の重吉はこつこつと働く百姓向きの性格だったので、祖父が隠居するとき先祖代々の家督を次男の重吉に譲り、その代わり長男庄太郎の準養子として親子の関係をもたせることによって、まあ一家における地位のバランスをとったわけだろう。 その庄太郎夫婦に子どもが三人、私の父母に子どもが六人、祖母は私の出生以前に亡くなっていたが、祖父がまだ健在で同じ家に住んでいたから、全部で十四人という複雑な大所帯だった。 (昭和51年08月【自伝】) 誕生と庭野家の人々 二 父は、明治八年生まれの八白の人でした。その父のすぐれていた点は実践家であったことで、父ほどのことができたら神さまになれる、といわれたくらいでした。 十歳かそこらの子どもに仕事をさせるのは、なかなか厄介なものですが、父は私たちが学校が休みのときなど、分に応じた仕事をさせました。そんなときの子どもの使い方、教え方が実にうまいのです。仕事が非常に達者でしたから、自分の手でやってしまったほうが早いのですが、それでは子どもがおぼえないからというので、どんな小さな子どもにも、いくらかずつは仕事をさせたものでした。そうやったあと、子どもにできないところや骨の折れる部分は、父が引き受けてやるのですが、実際の生活そのものを手本にさせようと考えて、そうした教え方をしたのだと思います。 なんでもできるようにと、小さなうちから仕込まれるから、子どもはどこへ行ってもわりに役に立つことができるようになります。だから子どものためにいいわけです。とにかく縄の締め方までも、こうすればきちんと締まる、と一つ一つ手をとって教えてくれた父は、また、人を使うということにかけても名人でした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 三 父は、からだの弱かった母をおおぜいの家族の中でかばい、「おかあさんにはやわらかいものを食べさせなければいけない」といって、おいしい食べ物をすすめたものでした。そして、自分ではまずいものを食べ、一番骨の折れる仕事を引き受けてやってのけました。私は父が家庭内に細かく気をくばり、父の兄(庄太郎)に対する態度とか、お互いの家庭の中に波風を立てまいとする心づかいを見て、まねのできないことだと思ったものでした。 不思議なことに、私の母の実家も兄弟二夫婦、本家も二夫婦、それに私の家も、家内の家もみんな兄弟そろって二夫婦が、それぞれ一軒の家の中でくらしておりました。 母の実家は長男夫婦に子どもがないので、次男夫婦の子どもに後を継がせている。そして私の本家もそうなのです。その先頭に立っていたのは私のおじいさんでした。 父は、弟というものは、兄に対してこういう態度をとれば家の中はうまくいく、「この私を模範にしなさい」と、陰に陽にみんなを指導しておりました。 二夫婦だから四人、そのお互いの間柄が円満にいくようにと、努力をしつづけた親の姿を見ていたものですから、上京して植木屋におりました時分、そこの夫婦が毎日けんかしているのを見て、夫婦だけなのに不和になるなんて、よほど間が抜けているのじゃないかと思ったものです。ところが、その子どもの石原さんのところへ行ったところ、ここの夫婦も親ほどではなかったけれど、やはりけんかが多い。そして、夫婦げんかを始めると、不思議に兄弟げんかにつながって、奥さんのほうの兄弟とだんなさんのほうの兄弟が、二群に分かれて対立してしまう。私はいつも、その夫婦げんかの仲裁をしたものでした。 父はまた、他人に対して非常に親切な人で、どこかの家で振舞いをやるようなことがあると、家の用事があっても出かけて行って料理人を引き受けて、手伝っていました。料理人の仕事は、寝る間もないほど忙しいものですが、父はそういう仕事を黙々と引き受け、自分だけではできないところは陣頭に立って人を指揮して分担させるのです。その采配のしかたが、また、非常にうまい。ですから、大振舞いをするようなときは、父がそこにいてくれたら大丈夫だし、安心していられるということで、村の人たちはみんな頼みにきたものです。 私の田舎では、そうしたときのお礼を物で返すようなことは、ほとんどしません。目に見える物のかたちではなく、大振舞いがすんだ翌日、手伝ってくれた人を呼んで、本座敷のときと同じくらいの人数で大振舞いをやるのです。そんなとき、一番正座に招かれて自分で使った人たちに向かい、だれそれはよくやってくれた、といってねぎらったり、若いお嫁さんにはその技術のいいところをほめたり、実になごやかにくつろいで過ごした父でした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 四 村で結婚式などがあると、父は料理人をつとめました。ですから、また、食べることについてはやかましくて、料理がへただ、と叱ったものです。また、そういうときは、「こうすればうまくできるんだ」と、自分でやってみせました。おみおつけをつくるにしても、鍋のふちすれすれになるくらいに、お湯を茶釜から移すのです。見ていて、これは大変なことになるのじゃないかと思うのですが、父は“こうしなければ味がよくならない”という。それも、茶釜からお湯をバッとそそいで、みそを入れ、全然吸ってみずに、色を見ただけでつくりあげてしまうのです。吸ってみると実にうまい。なるほど、父のようなつくり方をしないと、塩辛いおみおつけになってしまうのです。親戚で人を招くようなときも、ほとんど父が料理を引き受けたもので、味にかけては抜群の感覚をもった人でした。私は、おじいさんが板前をやったのは見ていませんが、おじいさんもまた、かなり料理ができた人のようでした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 五 私の父の行動はすばらしい。自分も一つ、この父を目標にして生きていこうと思いました。ですから、奉公に行っても、海軍に入っても、どこで働いていても、実に楽なのです。自分の家がなかなかきびしかったものですから、家以外のところのほうが私には楽に思えたのです。 父はいつも裏方の役をつとめ、表に出なければならないときは、兄(註・庭野会長にとっては叔父)を立てていました。自分で準備しておいて、いい場所には兄を引き出すのです。だから、兄のほうは、そんな場所に出て務めるべきことを務めていればいいのです。それほどに兄を立てていた父でした。私も、そのことで父からきびしくいわれたものでした。次男であった父は、「兄を偉くするもしないも、次男しだいだ。そこの家がうまくいくかいかないかは、次男の肩にかかっている。おまえがぐらぐらしたら、あとの兄弟もみんなだめになってしまう」といわれました。 親戚の四軒の家に夫婦の摩擦があるようなときにも、父は出かけていきました。すると、みんな父の顔を見ただけで、「どうも申しわけない」、とあやまったものです。それで、夫婦の仲が丸く納まってしまうのです。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 六 父の兄の自慢は、「二十八組もの仲人をした、しかも一つもこわれたものはない」、ということでした。その陰役をつとめたのは父で、あの家の娘なら大丈夫だとか、自分が使ってみたところではこの家の娘はこんないいところをもっているとか、手伝いをさせたようなときを通して、長所と短所をちゃんと見抜いている。そして、心がけのいい娘の縁談の仲立ちを兄にすすめるのです。兄は仲人役を引き受けて、主役をつとめたわけです。兄弟の仲は非常によく、兄のほうも弟をおそらく絶対的に信頼していた、といっていいと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 七 母はからだが弱かったために、四十三歳で亡くなりましたが、実に仕事の達者な人で、麻をつめで割いて糸に縒っては、毎年三反くらいの反物を織っておりました。それも、六人の子どもを育てながらの仕事で、蚕の時期には自分で蚕を飼ってお金を捻出したものでした。私ども一家が新開田を一反ほどつくれる段階にこぎつけるまでの間は、それが生活の中心をなしていたわけです。 養蚕は、気候の具合で失敗することがよくあるものです。しかし、母はその蚕を一度もはずしたことがない。つまり、失敗したためしがないのです。それだけ熱心だったわけです。 胃の弱い母は、宵のうちはおなかが張って困るとか、肩がはるといって、私によく肩たたきを頼みました。そのあと、一緒に寝るのですが、夜中に気づくと、いつも母は起きて、蚕のめんどうを見ておりました。そのくらい真剣だったのです。だから、人の失敗しがちな養蚕を、一度もはずすことがなかったのだと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 八 母が庭野家に嫁いできたのは、ほんとうは二度目だったのだそうです。それに気づいたのは、こんなことがあったからです。 私の家には壁の材料の木舞いに使ういい葦があって、ほうぼうから買いにきたものでしたが、あるとき、母が前に嫁いでいた人が、葦を買いに村にやってきたのです。おそらく、別れた嫁が菅沼にいるというくらいは知っていたのでしょうが、それが私の家だとは気づかなかったらしい。母がいつになくそわそわしているものですから、私はどうしてだろう、おかしいな、と思っておりました。 おそらく母は、私が小さいながらもわりにませていたので、これはいって聞かせておく必要があると思ったのでしょう。「実は私は、あそこへ嫁いだのだけど、あの人と合わなかったので別れた」ということを、話してくれました。 その後、母の実家に行ったとき、母から聞いた話をおばあさんにしたところ、「結婚のことでは、おまえのおかあさんは幸せだったと思うよ」、というのです。母の実家は、国道沿いの伊達という、いいところです。いったん嫁いでからもお祭りなどがあって里帰りしてくると、なかなか婚家に戻りたがらない。それで困ったものだけれど、おまえのおとうさんに嫁いだとたん、こちらに来るようなことがあっても、一晩泊まるだけで帰ってしまうようになった。おまえのおとうさんは、よほどいい男なんだなと、おばあさんは冗談のようにいうのです。私はそれを聞いて、母は父に満足しているのだな、と思いました。 二夫婦一緒の複雑な家族構成の中でも、一番低い立場に置かれた母にとっては、ほんとうは不自由なはずなのですが、それでも母は喜んで満足していたというのですから、夫婦の仲がよかったのだろうと思いました。ただ、その母は四十三歳で亡くなってしまいました。母の祖父は九十何歳まで生きていたといいますし、母の父母も、八十代まで長生きをしたなかで、母は短命で世を去りました。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 九 村にきた瞽女などを泊めてあげるのは、決まって私の家でした。村の衆も、あの奥の家なら泊めてくれるといって、案内してくるのです。三人か四人の小人数のところにひとり混じるといろいろと準備が大変ですが、私の家は十四人家族ですから、ひとりぐらい増えてもたいしたことはないのです。そして、泊まりたい人が家にくると、おじいさんが出ていって、「うちは、ごちそうはしませんぞ」といって、家に上げる。ですから、来やすいということもあったのでしょう。 おじいさんは、泊まり客に対して、「あすの朝はごはんを炊いてお弁当もつくりますが、今夜は家のものと一緒の雑炊だけど、それでもよろしかったらお泊まりなさい」といってすすめておりました。その雑炊は、大きな鍋いっぱいにつくってあるので、一人分よけいに必要になっても、別にどうということはないのです。そして、たくあんか何かありあわせのおかずと、雑炊の食事がすんだあとは、大急ぎで風呂を焚きつけて、旅の人から入って休んでもらう、というふうでした。 (昭和54年01月【速記録】)...
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