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庭野日敬開祖 ゴルフ
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工事終了後の大聖堂
【写真】
開祖 (19820624A) 第2回国連軍縮特別総会
【音声】
開祖 (19820624A) 第2回国連軍縮特別総会
1
...法話コード=開祖-1982-06-24-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=第2回国連軍縮特別総会で国際自由宗教連盟会長として演説 日 時=1982(昭和57)年6月24日 録音分=11分 場 所=ニューヨーク 国連本部 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19820624A) 第2回国連軍縮特別総会
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...○庭野開祖会長 (一同 拍手)(咳払い) えー、(咳払い)わたくしは、第1回国連軍縮特別総会において、(咳払い)世界宗教者平和会議を代表して、時のカーター大統領とブレジネフ書記長両閣下に対し「戦争のために危険を冒すよりも平和のために危険を冒すべきである」との勧告を行いましたにもかかわらず、世界の危機状況はますます深刻化しつつあります。そして、本日再び国際自由宗教連盟の会長としてお話をする機会をお与えくださいました国連関係者に感謝の意を表するとともに、軍縮に向けて努力される国連の使命を高く評価するものであります。 20カ国、46加盟団体を有するIARFは、人びとの国連支持教化を目指し、さまざまな活動を行ってまいりました。このIARFを代表して、また世界唯一の原爆被爆国日本(にほん)の仏教徒として、わたくしが世界の人びとに訴えなければならないことの第一点は、核兵器が配備されたいま、戦争の意味がまったく一変してしまったということであります。 これまでの戦争には、当事者双方になんらかの正当性を主張し得る根拠を見つけることができました。しかし、核戦争がもたらす恐るべき破壊と殺戮(せつりく)の前には、どのような正義も不正義も吹っ飛んでしまいます。生き残る者のない戦争に勝者も敗者もありません。傍観者であることさえも許されません。あるものは生命の尊厳に対する冒涜、ただそれだけであります。そのことをわたくしたちは広島、長崎によってまざまざと見せつけられたのであります。広島と長崎の犠牲者は、人類が3発目の原爆を絶対に使ってはならないことを教える殉教者でありました。 人類が生き残るためには核兵器を廃絶する以外にはないということも、1年間に使われる6,000億ドルもの巨額の軍事費の一部を開発途上国の援助に回すことによって、世界の飢餓と貧困をなくし得ることをもすでに周知のことであります。 過日、フランスにおいて開かれました先進国首脳会議は、増大をする、世界不況に対する処方せんとして、新技術開発の必要性を強調致しました。しかし、それは武器のための技術開発であってはならず、あくまでも人びとの生活を潤す技術革新でなければならぬことは当然であります。とはいえ、人びとの生活を変えるような目ぼしい技術革新は、いうはやすく、実現はここしばらく望むべきもないというのが実情であります。わたくしは、このサミット会議が、ベルサイユ宮殿の打ち上げ花火に過ぎないといわれるゆえんはここにあると思うのであります。 なぜならば、この会議が単なる希望表明に終わり、世界不況の根本的原因である超大国の軍拡中心の経済政策、及びアメリカの高金利政策に対し、その是正を促すことがなかったからであります。...
開祖 (19820624A) 第2回国連軍縮特別総会
3
...よってわたくしはここに、1年間に使われる6,000億ドルの軍事費を半分の3,000億ドルにまで削減するという勇気を各国政府首脳に望むものであります。 日本の立正佼成会及び新宗連は、核兵器廃絶と軍縮を求める署名運動を全国的規模で展開致しましたが、わずか2カ月余という短い期間に3,700万人の、うや、上回る国民の署名が得られたのであります。人類の運命は一握りの各国政府代表によって決められるのではなく、草の根の人びとの人類的な広がりと連帯によって決定されなければなりません。 いまを去る41年前(ぜん)、日本(にほん)が真珠湾に奇襲攻撃を加えたその報復として、原爆投下という悲惨な結果を招いた経緯に、仏教徒であるわたくしは深いザンゲとともに因縁の道理を思わずにはいられないのであります。そして、唯一の被爆国となった日本(にっぽん)は、恨みに報いるに恨みをもってしても問題の真の解決にはならないという反省のもとに、現在の憲法を受け入れたのであります。爾来日本(にっぽん)は、ひたすら世界の平和を希求し、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して今日(こんにち)の繁栄を見たわけであります。 わたくしは、世界がこの日本(にっぽん)国憲法に理解と共感を抱き、やがては同様趣旨の憲法を、共倒れ必至の核戦争という無残な体験を経ずして模索されんことをこいねごうものであります。そのときにこそ信頼と愛による国際的安全保障は可能となると存ずるのであります。 その新しい世界の安全保障への道、全面完全軍縮への第一歩として、わたくしたちは国連並びに各国政府に次のような要望を致します。 一つ、戦略兵器削減交渉の実効ある推進。 二つ、核実験全面禁止条約の締結。 三つ、兵器としての使用を目的とする核分裂物質の製造凍結への交渉開始。 四(よん)、全核保有国に対し、それらの国々が核兵器を決して使用しないという誓約の要請。 五、平和実現と平和維持に関する国連憲章の国連安全保障理事会による実践。 六、世界軍縮キャンペーンへ向かっての精神的、財政的支持。 特に世界にはまだ核兵器の効用に対する迷信を抱く人びとの多くあること、並びに核兵器が人間に与えるむごたらしさをあまりにも知らなさ過ぎる現状をゆうり(憂慮)し、目下の急務は核兵器廃絶のために世界世論を喚起することであると痛感するものであります。 ここに立正佼成会は、平和と国際間の相互理解促進のために向こう1カ年間に100万ドルを世界軍縮キャンペーンの諸活動に拠出することを表明するものであります。(一同 拍手) わたくしは、国連の有効の活動が一層広く展開され、世界恒久平和の、平和を祈念してわたくしのスピーチを閉じたいと存じます。...
第2回国連軍縮特別総会
【写真】
長崎教会 ご巡教
【写真】
法華三部経の要点8
【機関紙誌】
無量義とは一法より生ず
法華三部経の要点8
無量義とは一法より生ず
1
...法華三部経の要点 ◇◇8 立正佼成会会長 庭野日敬 無量義とは一法より生ず 性欲無量だから説法無量 これまで「この世のすべてのものごとの変化のありさまをよく観察しなさい」と教えられてきましたが、ここで一転して、それを人々の説法のしかたに絞り「是(かく)の如(ごと)く観じ已(おわ)って、衆生の諸の根性欲に入る」とおおせられました。いよいよこの無量義経(もちろん後につづく妙法蓮華経も)の眼目である「人を救う」という本題に入るわけです。 根というのは「機根」のことで、その人が持っている根本的な能力のこと。性というのは性質。欲というのは欲望。この三つは人それぞれによって持ち前が違います。人を救うには、まずその持ち前を見究めよというわけです。そして、こうお説きになります。 「性欲(しょうよく)無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦(また)無量なり」 性質と欲望は人によって千差万別です。金銭を極度に欲する人、愛欲に溺(おぼ)れる人、名誉欲にかられている人、権勢には目のない人等々、数えあげればきりがありません。 いや、そのようにある欲求を極端に求める人もありますが、世の多くの人はそれらの欲求をおおむねいくらかずつ持ち合わせており、その持ち合わせ方の分量が人によって違うわけです。よくコーヒーなどでいろんな種類の品種を混ぜ合わせるのをブレンドするといいますが、人間の性質や欲望もそれと同じで、ごく普通の人でもさまざまな性質や欲望を自分なりにブレンドして持ち合わせているのです。 そのブレンドのありようがじつに千差万別なのです。ですから、人に仏法を説いて救いに導くには、その人の性質や欲望のブレンドのありようをしっかりと見究めて、それに応じた教えを説かなければならない……というのが「性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦無量なり」の意味なのです。 どうかすると、どんな人に対しても型にはまった同じような説き方をする人がありますが、それでは現実に人を救えるものではありません。われわれの教団では「会員即布教者」を旗印としていますから、この「性欲無量なるが故に、説法無量なり」という一句こそは、全会員が常に頭に刻み込んでおかねばならぬ金言なのであります。 久遠本仏の大いなる慈悲 この一句は人を導く現実的な手段を述べられたものですが、しかし、その手段の枝葉末節ばかりにとらわれていますと、つい小手先の導きに終わり、大事な根本を忘れてしまう恐れがあります。そこで、続いて、 「無量義とは一法より生ず。其(そ)の一法とは即ち無相なり、是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを、名(なづ)けて実相とす」 とお説きになるのです。 それぞれの人の性質・欲望に応じてそれにふさわしい内容の法を説かなければならないのだけれども、その千差万別の説法の内容(無量義)も必ず宇宙の真理である一つの法にもとづくものでなければならない……というのです。 そのあとにつづく「其の一法とは即ち無相なり」に始まる実相ということはたいへん難しい教えですが、宗教的にわかりやすく言いますと、「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」ということになりましょう。 一人びとりは、現象面ではさまざまな姿・形・性質・欲望を持っているのだけれども、もとをただせば、久遠本仏の実の子という尊い存在だということです。別の言葉で言えば、みんな仏性をもっているのだということです。そのことをしっかりと胸の底におさめていてこそ、ほんとうの教化、ほんとうの救いができるというのです。 ...
法華三部経の要点9
【機関紙誌】
真実の慈悲とは何か
法華三部経の要点9
真実の慈悲とは何か
1
...法華三部経の要点 ◇◇9 立正佼成会会長 庭野日敬 真実の慈悲とは何か 仏の掌の外へは出られない 前回までに解説した無量義の説法の結論として、お釈迦さまは次のようにおおせられています。 「菩薩の皆さん。このような真実の相(すがた)を悟り、その悟りがすっかり身についてしまったときに起こる慈悲心というものは、はっきりした根拠の上に立った慈悲心でありますから、その働きは、必ず立派な結果となって現れるものです。すなわち、それぞれの境遇そのままで、多くの人々の苦しみを抜き去ってあげることができましょう。苦しみを抜き去ったら、そこで再び法を説いて、多くの人々に生きる喜びを与えることができましょう」と。 このお言葉の最初にある「このような真実の相」というのは、前回に述べたように「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」という真実を指すのです。 この真実を悟ることこそが最高の悟りなのです。考えてもごらんなさい。ひと握りの土、一匹の虫、一本の草、ひと片(ひら)の雲、一人の人間、どれとして久遠本仏の大いなる慈悲に生かされていないものがありますか。そのような存在を想像できますか。できないでしょう。そのとおりなのです。 人間の知恵がいくら進んだからといって、この本仏の大いなる慈悲の埒外(らちがい)に出ることはできないのです。孫悟空がお釈迦さまの掌(てのひら)から飛び立って三千里も飛んで行き、違った世界へ出たと思って着地してみたところ、やはりお釈迦さまの掌の上だった……という説話は、この真実を如実に物語っているのです。 共に生かされている一体感 では、そのような悟りに達したとき、われわれの心にどんな変化が起こるのでしょうか。一言にしていえば、「この世のすべてのものは自分と同じように仏に生かされているのだ」という思いが、切々として胸にわいてくるのです。あの人も、この人も、自分と同じように本仏に生かされている兄弟姉妹だ……という思いです。あの虫も、この草も、自分と同じように仏性をもっている同胞だ……という思いです。切実な一体感です。 そのような一体感が心の底に定着すればどうなるか。例えば苦しんでいる人を見れば、我を忘れて「ああ、なんとかしてあげたい」という思いがおのずからわいてくるのです。それがほんとうの慈悲心というものなのです。本仏の大慈悲に直結する真実の慈悲なのです。原文に「是(かく)の如(ごと)き真実の相に安住し已(おわ)って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於(おい)て、真に能(よ)く苦を抜く」とあるのは、そこのところを言っているのです。 ロシアの文豪ツルゲーネフが、朝早く散歩に出ると、一人の男が近づいてきて、「どうぞお恵みを」と手を差し出しました。ブラリと出た散歩だったので、あいにくお金を持っていなかったツルゲーネフは「許してくれ。わたしは今お金を持っていない。今わたしにできるのはこれだけだ」と言って、その男の手をしっかりと握ったのです。そして「からだに気をつけなさい。そして、早く何か仕事をみつけて働くことですよ」と励ましました。その男は感激して、「だんなの握手が何よりのお恵みです。これからしっかり働きます」とはっきり誓って立ち去ったということです。 これこそが真の慈悲というものです。思わず手を握って励まさずにはおられなかった……そこに大きな一体感があったのです。だからこそ、そのたった一つの行動が相手にほんとうの幸せをもたらしたのです。 ...
法華三部経の要点10
【機関紙誌】
四十余年には未だ真実を顕さず
法華三部経の要点10
四十余年には未だ真実を顕さず
1
...法華三部経の要点 ◇◇10 立正佼成会会長 庭野日敬 四十余年には未だ真実を顕さず 究極の真理は妙法蓮華経に 無量義経・説法品の中にどうしても見落としてはならぬ要点があります。それは…… 「諸の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず」 とある、この一節の末尾の一句です。「人々の性質や欲望が千差万別であるから、これまでは方便(その人の機根に応じた適切な手段)によってさまざまな説き方をしてきた。それで、この四十年余りの間には、究極の真理をすっかり説き明かすことがなかったのである」とのおおせです。 古来、この「四十余年には云々」の一句が、無量義経が妙法蓮華経の開経であることを決定するポイントの一つとされてきました。と同時に、妙法蓮華経が法の真実の奥の奥(究極の真理)を顕されたお経であることの文証となる重大な一句なのです。 「真実」と「事実」との違い それならば、これまでお釈迦さまは真実でないことをお説きになったのかといえば、決してそうではありません。 たいていの人が「真実」と「事実」を混同しているようですから、この機会にその違いをハッキリさせておきましょう。 「事実」というのは、現象のうえに現れた客観的なものごとを言います。前回にツルゲーネフがもの乞(ご)いをする男の手を握った話を書きましたが、その「手を握った」ということが「事実」なのです。 それに対して、「真実」というのは、仏法で言えば「究極の真理」のことであり、人間に即して言えば、その人の心の本質である「誠(まこと)」です。「真心(まごころ)」です。 こういった「真実」は目に見えないものですので、心ない人はそれを悟ることができません。たとえば、ツルゲーネフがもの乞いの男と握手したその場を通りかかったある人が「あの汚い手を握るなんて……」と思ったかもしれません。ひとの心の中の「誠」が見えないからです。 もう一つ例を挙げましょう。お釈迦さまがこんな話をなさったことがあります。 ――ヒマラヤの山中に寒苦鳥(かんくちょう)という鳥がいる。夜はひどく寒いので、雌の鳥は一晩じゅう「寒苦必死(かんくひっし=寒くて死にそうだ)」と鳴き続ける。雄の鳥はそれに応じて「夜明造巣(やみょうぞうか=夜が明けたら巣を造ろう)」と鳴き続ける。しかし、夜が明け日が差して暖かになると、ついノンビリして巣を造ることを忘れてしまう。そうしてまた夜を迎えると「寒苦必死」「夜明造巣」と鳴き続けるのだ――。 これはお釈迦さま得意の譬え話で「事実」ではありません。しかしわれわれはこの話を聞くと、われわれ凡夫の人生に対する態度をつくづくと反省させられます。そうさせるものが、フィクション(物語)の中にある「真実」なのです。 お釈迦さまは、これまでの四十余年間、このような巧みな方便を用いて現実に人々を救ってこられました。舎利弗のような高弟たちも、まだ法の真実のすべてを受け入れるだけの機根が熟していなかったので、お釈迦さまは――説いてもムダであろう、かえって迷いを深めるかもしれない――とお考えになって、さし控えておいでになったのです。 ところが、妙法蓮華経の方便品で、「法を聞いて実践すれば、だれもが私と同じになれる。すべての人を成仏させるために、方便力でもって法を説いてきたのだ」と述べられ、仏の本願をお説きになったので、まず舎利弗が悟りを開き大歓喜したのです。そして寿量品に至ってさらに深遠な真実を悟ることになるのです。 「四十余年には未だ真実を顕さず」にはこのような重大な意味があるわけです。 ...
法華三部経の要点11
【機関紙誌】
義異なるが故に解異なり
法華三部経の要点11
義異なるが故に解異なり
1
...法華三部経の要点 ◇◇11 立正佼成会会長 庭野日敬 義異なるが故に解異なり 「空」は積極的に解するもの 無量義経の説法品には、妙法蓮華経以前のお釈迦さまの説法についていろいろと解説されています。「初説・中説・後説、文辞は是(こ)れ一なれども而(しか)も義別異なり。義異なるが故に衆生の解(げ)異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦(また)異なり」という一節もその重要な一つです。 すなわち――これまで「空」とか「十二因縁」とか「六波羅蜜」などを繰り返し説いてきたが、説く言葉(文辞)は同じでも、初めて説いたときと、中ごろと、今ここに説くのとでは意味・内容に開きがあるのだ。そのために人々の受け取り方に違いが生じ、したがって、得た悟りにもおのずから違いがあるのだ――とのおおせなのです。 このことは、われわれがお導きをするに際しても重要なことですから、よく心得ておきたいものです。例えば、「空」の教えには、「この世の現象はすべて仮の現れであって、実体はないのだ」という意味(義)があります。これをうっかり否定的なムードで聞いてしまうと、仙人のような生活や悟りを追求する人にだけ通用するような「義」となってしまうこともありましょう。 したがって、普通の生活をしている人がこの「義」にとらわれると、ひどい虚無感に陥ってとんでもないことにもなりかねません。 しかし、この「空」の義を、「空であるすべての現象はある原因(因)にある条件(縁)が合致してあらわれたものである」と肯定的に正しく受け取りますと、「どのようなことに対しても、自分がよい縁となれば、ものごとをよい方向へ変えることができるのだ」という積極的な気持ちが生じ、勇気りんりんたるものを覚えるでしょう。あとで説かれる妙法蓮華経は、こうした積極的な受け取り方を教えているのです。 不殺生戒の現代的な「解」 また、例えば五戒の第一である不殺生戒にしても、その「義」には広狭の大きな開きがあります。いちばん狭い「義」は、あらゆる生きものを殺してはならぬということです。提婆達多はこの義にこだわり、戒律の改革案をお釈迦さまにつきつけ「比丘は魚や肉を食べてはならぬ」という規則をつくられるよう迫りました。 ところが、大自然の姿を透徹した眼で眺めてみますと、いわゆる食物連鎖という冷厳な事実があります。タカが小鳥を食べ、小鳥は昆虫を食べ、昆虫は植物の葉を食べますが、その代わりそれらの動物たちは自らの死骸によって土壌を肥やし植物を育てるという恩返しをします。そのような連鎖関係によってすべての生態系がバランスを保っているのです。 お釈迦さまはこのような大自然の姿を徹見しておられたのでしょう。比丘たちにも、自分で魚や肉を捕って食べることは禁じられましたが、托鉢などで出されたときなどはありがたく受け取り、食べてよいと定められていました。もちろん、提婆改革案など一蹴(いっしゅう)されたのです。 さて、二十世紀末のわれわれはこの不殺生戒をどのような義に解せばいいのでしょうか。「戦争をしてはならぬ」というのが第一義であることは言うまでもありません。もう一つ大切なのは「物の殺生をつつしめ」ということだろうと思います。地球の限りある資源を人間はあまりにもほしいままに浪費しつつあります。便利で安逸な生活をしたいという欲望を限りなく肥大させ、そのために「物のいのち」をムダに殺生しつつあるのです。少欲知足の生活における物の消費は、前に申した大きな連鎖の一環になるのですが、ムダな消費は全体のバランスを崩し、自然を汚染・破壊する自殺行為となります。 このように、経典の文辞はその「義」を時代に応じて柔軟に解せねばならないのです。 ...
法華三部経の要点12
【機関紙誌】
教えは実践にこそ生きる
法華三部経の要点12
教えは実践にこそ生きる
1
...法華三部経の要点 ◇◇12 立正佼成会会長 庭野日敬 教えは実践にこそ生きる 究極の慈悲心とは それでは無量義経の十功徳品に移りましょう。この品の第一の要点は、大荘厳菩薩が「この教えはいったいどこから出てきたものでございましょうか。そしてどういう目的へ向かって行くものでございましょうか。また、この教えの住みつく所はどこでございましょうか」とお尋ねしたのに対して、お釈迦さまは、 「善男子、是(こ)の経は、本(もと)諸仏の室宅の中より来り、去つて一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す」 とお答えになっているところです。 これは、無量義経の「本質」と「目的」と「目的の完成」とを短い文句の中に言い尽くされた重大なポイントであります。 「本諸仏の室宅の中より来り」というのは、この教えは諸仏のお住まいになっているお部屋から出たものであるというのですから、つまり諸仏の大慈悲心からほとばしり出たものであるということです。 慈悲心にも広狭深浅いろいろあります。例えば、飢えに苦しんでいる開発途上国の人々に食糧を送ってあげるのも慈悲心です。その人たちに農業技術を教え、食糧自給の道を開いてあげるのはより深い慈悲心です。さらに、海外協力隊員が実践しているように、現地の人々と生活を共にしながら「自立の精神」を育てていこうとするのはもっと広大な慈悲心といえましょう。 身近な例をあげれば、子供が転んだとき「かわいそうに……」と助け起こすのは小さな慈悲心であり、「坊やは強いからひとりで立てるよ」と励まして手を貸さないのは大きい慈悲心ともいえましょう。 では仏さまの大慈悲心とはどんなものかといいますと、「この世のあらゆる存在をあるがままに生かしてやりたい」というみ心であり、これが究極の慈悲心なのです。これを現代風に表現しますと、「ありとあらゆる存在に、その本来の存在価値を十分に発揮させたいというのが仏の大慈悲心なのである」ということになります。 「成仏」という言葉がありますが、その最も広い意味は「それぞれの持つ存在価値と使命を百パーセント完遂する」ということです。これは、人間のみに限らず、あらゆる生物・無生物にも通ずる真実であり、「草木国土悉皆成仏」という言葉がそのことを端的に言い表しています。そして、それこそが無量義経の「本質」であるというわけです。 現実に人を救ってこそ 次の「一切衆生の発菩提心に至り」ですが、菩提心というのを『仏教語大辞典』で引いてみますと、「さとりを求めて仏道を行おうとする心」とあります。そういう心を起こすのが発菩提心ですから、すべての人々にそのような心を起こさせるのが無量義経の「目的」だというのです。 次の、この教えはどこに住するかというのは、「この教えは、どこにおれば最も真価を発揮するか」ということです。 その場所は、お寺の中でもありません。書物の中でもありません。頭脳の中でもありません。人を救うという菩薩行の中にこそそれがあるのだ……と説いてあるのです。現実に人を救わなければ、仏法も絵に描いたモチに過ぎないからです。ですから、菩薩行の実践こそが無量義経の「目的完成」の道だというわけです。 この三ヵ条はたんに無量義経のみならず、次に説かれる妙法蓮華経の、いやあらゆる大乗仏教典の「本質」と「目的」と「目的の完成」を述べ尽くしたものと知るべきでありましょう。 ...
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