メインコンテンツに移動
ユーザーアカウントメニュー
ログイン
Toggle navigation
Main navigation
ホーム
コレクション
お知らせ
規約について
お問い合わせ
利用ガイド
全資源タイプ
機関紙誌
教団史
動画
音声
写真
法話(テキスト)
貴重書
検索
すべて
メタデータ検索
全文検索
リセット
表示件数
18
30
60
90
120
並び順
関連度
作成日 昇順
作成日 降順
タイトルヨミ 昇順
タイトルヨミ 降順
詳細検索
コレクション
- すべて -
『庭野日鑛会長のこころ』~つれづれに想うこと~
『庭野日鑛会長のこころ』~書初めから~
法話選集
年頭法話
庭野日敬法話映像作品集(平和への願い)
心に生きる開祖さま
庭野日敬法話映像作品集(仏教三大行事と釈尊伝)
心が変われば世界が変わる
仏教者のことば
経典のことば
法華三部経の要点
庭野日敬法話映像作品集(教団史)
人間釈尊
お会式
スポーツ
立正佼成会映像作品集
らしんばん
e-story
- すべて -
庭野日敬の世界
資源タイプ
- すべて -
Text
Image
MovingImage
Sound
タイトル名
作成者
公開責任部署
- すべて -
アーカイブズ課
伝道メディアグループ
開祖顕彰資料室
佼成図書館
作成日(西暦 or 和暦)
地理空間情報
ヘルプページ
64 件中の 55 件目~ 64 件目を表示
リスト
サムネイル
心が変われば世界が変わる25
【機関紙誌】
仏を見たいという願い
心が変われば世界が変わる25
仏を見たいという願い
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(25) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏を見たいという願い 対象の実在を信じなければ 私共素朴な信仰者としては、霊的存在としての仏さまが、確かにわれわれの身の回りにいらっしゃることを信ずる……と前回に書きました。こうした確信がなければ、仏教も単なる哲学であり、あるいは道徳の教えに過ぎず、われわれの魂を根底から揺り動かし、人生を変える強い力とはならないでしょう。 竹中信常博士(大正大学教授)も、その近著『仏教―心理と儀礼―』の(見仏の心理)という章の中で、次のように述べておられます。 「いかなる宗教といえども、それが宗教であるためには、そこに信仰対象として何等かの形での神的存在がなければならず、信仰度の深まりは信仰対象の実在性を強める」 「古来、仏教は理性の宗教と呼ばれているが、その半面に実在論的な信仰をもつことは、そのこと自体、仏教が生きた信仰実質を尊重したからであり、またそれゆえにこそ、生活経験と密着した宗教としての生命を持続したのである」 「このように、信仰対象の実在ということは、宗教にあっては至重の事柄であり、哲学的証明による実在の把握より、自己の生々しい体験として感覚的にこれをとらえることが、信仰教化にどれだけ有効であるか論を要しない」(傍点庭野) 仏を見んと欲する篤信者 古来の熱心な信仰者は、この最後の引用文にあるように、信仰対象の実在を自己の生々しい体験として感覚的にとらえることを一つの念願としていました。それは、法華経寿量品の「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」、観普賢経の「普賢菩薩の色身を見んと楽(ねが)わん者、多宝仏の塔を見たてまつらんと楽わん者、釈迦牟尼仏及び分身の諸仏を見たてまつらんと楽わん者云々」等、仏典の至る所に無数に見ることができます。 現在でも天台宗の行者は、それを自らの信仰の証(あかし)の一つとして願っているようで、作家の瀬戸内寂聴さんが出家して六十日間の行を終えたあと『文芸春秋』(昭和48・8)に寄せられた(荒行の比叡をおりて)という文章の中にも、そのことが明らかに記されています。「音にきこえた三千仏の礼拝は無我夢中のうちにやりとげてしまった。過去仏千体、現在仏千体、未来仏千体の名をとなえながら、五体投地礼を三千回するのである。朝の五時から夕方の六時過ぎまで続けて、ようやく終る頃、仏が見えると聞いていたが……」瀬戸内さんはついに見ることができなかったそうです。 見なくても起こる信とは しかし、その瀬戸内さんも、六十日目には次のような体験をされたのでした。「いよいよ結願の日最後の護摩火が、いきおいよく火の粉をはじきながら天井をめがけて火竜のようにかけのぼったとき、思わず胴震いして涙がふきこぼれてきた。二ヵ月の行中、私はついに仏を見ることはなかったが、その一瞬、我身即本尊、本尊即我身の観想が炎の中に凝縮し、火炎を背負った青黒(しょうこく)の不動明王の中にわが身がすいこまれて行く経験をした」。 これも非常に尊いことで、神人合一というか、仏とわれとの合体というか、そういう境地を感覚的に生々しい体験されたわけです。信仰というものは理屈ではなく、体験の世界であることが、こういう告白からもよく納得されることと思います。そして、修行した人ならば、「なるほど、そういうこともあり得るだろう」と、素直にうなずけるはずです。 前記の竹中博士の著書の中に、明治初年の有名な思想家・綱島梁川(りょうせん)の次のような言葉が引用されています。難しい文語体なので口語に意訳しますと、 「われわれが神を信ずるといいながらも、内心を顧みて、どことなくその信念が充実していないように感ずることがあるのは、目(ま)のあたり神を見たことがないからではあるまいか」……まことに、その通りだと思います。いわゆるインテリ信仰者の心の底にある嘆きでありましょう。次に、 「まだ神を見たことはなくても(信)は起こる。しかし、そうした(信)も、幾分か見たものが根底となっているのではなかろうか」とあります。見ないものを信ずるその(信)も、見たに準ずる心的経験を根底としているのだ……という意味だと思います。瀬戸内寂聴さんの結願の日の体験もそうでしょうし、親鸞上人が、たとえ師のおおせに従って念仏して地獄に落ちようともかまわない……というほど法燃上人を信じ切ったのも、やはり、師の中に間接的に仏を見たからにほかならないといえましょう。(つづく) 仏の頭部(パキスタン) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる26
【機関紙誌】
仏を見、神を見る
心が変われば世界が変わる26
仏を見、神を見る
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(26) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏を見、神を見る 錦戸新観師の尊い体験 目(ま)の当たり神仏のお姿を拝したり、お声を聞いたりしたという体験は、古往今来無数に伝えられています。どの時代にも、どの民族にも、どの宗教の信仰者にも、いや、格別の信仰をもたない者にも、共通して同じようなことが起こるということは、否定し難い客観性をもつものだと思います。よく言われるように、自己暗示による幻覚などばかりでないことは、私の身辺に起こった数多くの事実によっても、自信をもって断言できます。それらの事実は(庭野日敬自伝)にいろいろ述べましたので、ここで繰り返すのをやめ、他の方々の体験を二、三紹介することにしましょう。 私共の会の大聖堂に祀られている本尊(久遠実成釈迦牟尼世尊像)や、同じく法輪閣に安置されている(十一面千手観音像)を謹刻された錦戸新観師は、たんなる彫刻家ではなく、ほんとうの意味の信仰をもった方でありますが、その錦戸師は次のような尊い経験をもっておられます。 昭和二十四年三月、不動明王像を制作して日展に出品することを発表された師は、「不動尊は無相の法身、虚空同体」とお経に説かれているその意味を体得しようと思い立ち、出家修行にも等しい荒行を始められました。毎朝午前三時に起床、水を浴びて身を清め、(般若心経)百遍、(不動経)を百遍読誦されました。また、毎月十五日には、栃木県栃木市出流町にある出流山満願寺に参拝し、その境内にある(大悲の滝)に打たれて祈念されました。 真っ白い姿の不動明王が… こうして三ヵ月が過ぎた六月の十五日、滝に打たれる荒行のあと、本堂でご本尊の千手観音の前に端座・瞑目して、(般若心経)と(観音経)を読誦されました。すると、お数珠をサラサラと揉んだとたんに、どうしたことか、まだ新しいお数珠がパッと切れて、玉があたりに飛び散ったのでした。師は「滝に打たれたため糸が弱くなったのだろうか」と思ったり、「わたしの願いが間違っているというお示しなのか」と不安になったりされましたが、そういう気持を振り切ってふたたび瞑目して読経を続けられました。 そのうち、読経をしながらフト目を開けると、すぐ前に灯されているロウソクが、風もないのにフッと消えてしまったのです。「まるで刀で切り払ったような感じでした」と師は語っておられます。またまた言い知れぬ不安が生じ、身の細るような感じに迫られましたが、そうした弱い心を抑えつけ、勇気を奮い立たせて読経を続けられました。そのうち邪念が消え、三昧の境地に入って行ったある瞬間、一秒の何分の一かの一刹那に、真っ白い姿の不動明王が、まるで電光のように師の全身をつらぬいたのでした。師は「ああ、ありがたい。これが感得というものか」と、何ともいえぬ法悦に打たれ、全身が明るく輝き立つ思いがした、ということです。 こうして、二年後に不動明王像は完成しましたが、芸術的な美のみを対象とする日展当局者は、師の信仰一途の制作を完全に理解することができませんでした。師は、それを機に(鑑賞のための仏)を制作することをスッパリとやめ、(信仰するための仏)の謹刻に生涯を捧げる決意をされたのでした。 何気なく拝んでいた神仏が 格別の信仰をもたなかった人の見仏・見神の例を、それもごく最近の生々しい体験を紹介しましょう。カンボジアの外交官夫人だった内藤泰子さんが、革命政権の大虐殺の地獄の中から脱出しようとし、途中で、夫と二人の子を失い、ボロボロになりながらも奇跡的に生還されたのは、周知の通りです。 泰子さんは、きょうは死ぬか、あすは殺されるか、という極限状況の中で、何とか生き残って日本に帰りたい、そして亡き夫や愛児のお弔いをしたいと、日夜神や仏に救いを求め続けられたといいます。すると、優しいお顔をされた観音さまが、白い雲に乗って何度となく夢の中に現れ、絶望の底から救ってくださったというのです。内藤さんを救出に行ったNHKの取材班島村矩生記者にもこう語っておられます。「地獄としか言えない生活でしたから、自分でも奇跡だと思います。神を信じない方にはわからないでしょうが、今度という今度は神があると思いました」。 そして、その手記『カンボジア わが愛』に、こう書かれています。「成田に着いた翌日、浅草の観音さま、人形町の道了さま、巣鴨の地蔵さまにお礼参りした。信心をしたことのない私なのに、観音さまは夢に何度が出てきて私に力づけてくださった。道了さまと地蔵さまは、小さいころ母に連れられてお参りしたことがある。本当に苦しいとき、知らず知らず私は手を合わせ、お願いをしていた。そして無事に生きることができた」。 「苦しい時の神頼み」でも、その願いがひたすらであり、一心こめたものであれば、よくよく噛みしめてみる必要があると思います。(つづく) 仏頭(アフガニスタン) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる27
【機関紙誌】
仏の霊光に救われた話
心が変われば世界が変わる27
仏の霊光に救われた話
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(27) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏の霊光に救われた話 七面山の女神に呼ばれる 神や仏が実際に顕現される場合は、たいていの場合一瞬の出来事です。長くても数秒、数十秒という短い時間です。ですから、それを信じない人々から、幻覚とか錯覚とかで片づけられてしまうのです。ところが、ここに、少なくとも数十分のあいだ、仏の霊光に導かれて七面山の登山を成し遂げた。という希有な実例がありますので、紹介させて頂きます。 京都の小原弘万(おはら・ひろかず)さんという方は、般若心経を昭和五十二年八月までに百六十万遍も読誦し、また心経の豆本を作っては無料で配布され、そうした自行と利他行の功徳によってさまざまな神力(じんりき)を身につけられた現代の尊者ですが、その著『心経ひとすじ』に次のような体験を発表しておられます。 小原さんがまだ若いころ、ある発明に没頭しておられた時、その行程中に発する毒ガスに当てられて倒れ、長い間病臥する身となられました。高熱の続いたある日、妙な夢を見ました。白衣で白い鉢巻きをされた女神が、燃え盛る火をちぎっては投げ、ちぎっては投げておられるのです。不思議なことに、夢が覚めたその日から、長い間の高熱が下がってしまったのです。 ところが、ちょうどそれに符節を合わせたように、久しく会わなかった心経一筋の老行者が突然来訪され、「小原を連れて七面山へ来い」という神のお告げを受けたと言われるのです。小原さんも、じつは私もこんな夢を見たと話されると、それならばどうしても行かねばならぬということになりました。その行者さんは何十日かの断食行を終えたばかりのフラフラの状態、小原さんも高熱が下がったばかりの身、しかも、二人ともまだ七面山には登ったことがなかったのです。二人とも般若心経の信仰者でこそあれ、日蓮宗とは何の関係もなかったのです。それなのに、吉祥天女の権現であり、身延山久遠寺の守護神である七面大明神の神示を受けたのですから、初めから不思議なことだったわけです。 暗黒の足元を照らす霊光 早速二人は出発したのですが、身延は激しい雨でした。しかも、フラフラの老行者さんの腰を、これも病気上がりの小原さんが押しながら登るのですから、道はなかなかはかどりません。『般若心経ひとすじ』にはこう書かれています。 「お題目を唱えることの大きらいなこの行者さん、『南無妙』だけを唱え、あとは私に唱えろ、と命ずるのである。『ナムミョ』と、もたれ掛かって行者、『ホーレンゲーキョ』と押す私。奇妙なコンビの歩みは遅々として進まず、遂に日はトップリと暮れてしまった。もちろん夕刻までには完全に登れる予定だったが、休み休みのフラフラ二人。足元は暗くなり、やがて寸前も見えなくなった。登るに登れず、下るに下れず、激しい雨はパンツまでビッショリである」 まさに進退きわまる、その時でした。驚くべき不思議が起こったのです。暗黒の足もとが、直径一メートルぐらいの円形に、鈍(にぶ)い光ではあるが、小石が見えるくらいに照らし出されたのです。二人は抱き合って喜びました。期せずしてほとばしり出たのは、般若心経でした。声は声とならず、泣きじゃくりながら唱え終わりましたが、行者は続いて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、初めて声高らかに唱え続けたのでした。小原さんも、もちろんそれに和されたのでした。 霊光はずっとついて回った ところが、その光は、一瞬だけの現象ではなかったのです。原文には、こう書かれています。 「足元の円形の光は、進むに従って付いて回った。これが信じてもらえるだろうか。しかもこの光には暖かさがあった」「心経と題目を交互に唱えつつ、遂に目的の地に着いた。この光は一体何だったのかしら」 その疑問は、後日、般若心経百万遍を読誦し終わってから、解決されたのだそうです。それについて次のように書かれています。 「この光こそみ仏の霊光なのである。私自身、日々献燈を忘れず、神社仏閣にお参りした時、まず献燈を心掛けており、来客に対しても献燈させ、また勧めているが、私はこの献燈の光が、死後暗黒の世界を通る時、『再現して足元を照らす』と信じているのである」 法華に凝り固まっている人は、ともすれば法華三部経以外のお経を排除する傾向がありますが、それが誤りであることは、このエピソードによっても明らかでありましょう。般若心経一筋のお二人が、そろって七面大明神に呼び寄せられ、このような霊験を頂かれたのです。み仏は一つ、み仏の八万四千の教えも、巻き戻せば一つに収まるのです。(つづく) 東大寺・広目天像 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる28
【機関紙誌】
十界互具が一念三千の中心
心が変われば世界が変わる28
十界互具が一念三千の中心
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(28) 立正佼成会会長 庭野日敬 十界互具が一念三千の中心 悪人にも菩薩心はある さて、ここで(一念三千)の本文にもどりましょう。 「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり」とあります。われわれの日常の心の在り方を省みてみますと、地獄(怒り)・餓鬼(貪欲)・畜生(愚癡)・修羅(闘争)の心が、次から次へと湧いてきます。しかしそれを何とか自制し、コントロールしておおむね人間(平正)らしく生活しています。また、時には歓喜に満たされ、得意の状態(天上)になることもあります。声聞以上の(聖)の境地に上るひと時もあることについては、その項で説明した通りです。ここまでは、まずわかりやすい論理でしょう。 ところが「一法界に又十法界を具す」となると難しくなります。右の十界の一つ一つに、それぞれ十界が具わっているというのです。今、地獄界にいる人も完全に地獄界にいるのではなく、仏心もあれば菩薩心もあるというのです。それは何となくわかります。人殺しの大悪人でも、わが子は無性に可愛く、子のためなら自分の身はどうなってもいい……という気持になります。無償の愛、つまり仏の慈悲を心のどこかに具えている証拠です。 仏にも悪の因子はある ここまではわかりますが、仏界にも地獄その他の十界が全部具わっているとなると、ちょっと問題です。仏に地獄・修羅・餓鬼・畜生の心があるとなれば、お釈迦さまの尊い人格を傷つけるものとして憤激する人もありましょう。ところが天台大師は、法華経をつらぬく精神の上に立って、これまでの仏教者が考え及ばなかった、あるいは考えても言うをはばかったであろう、この真実を断固として喝破したのです。 法華経の基本となる精神は(人間平等)ということです。あらゆる人間は、その根源においては平等な存在だというのです。しかし、現実においては、下は極悪人から上は仏まで、千差万別の人間像が見られます。なぜそのような違いがあるのか。これに対する答えを天台大師は(摩訶止観)巻五に簡明直截に説いておられます。 闡提(せんだい)は修善を断じ、但(ただ)性善(しょうぜん)の在るあり、如来は修悪(しゅあく)を断じ、但性悪の在るあり 闡提というのは、ひと口に言えば最低・最悪の人間のことですが、「その闡提も性質としては善はもっているのだ。ただ善を修する(行う)ことが全くないだけのことなのだ。仏は性質としての悪はもっておられるのだが、その悪を行われることが全然ないのだ」というのです。 実に理性に徹した達見です。感情的に闡提を排撃することもなく、仏(応身の仏)を神格化して絶対視することもない平等な人間観です。これによって、われわれ凡夫も性質としてもっている善を行動化しさえすれば、菩薩にも仏にもなれるのだ、ということがハッキリとわかり、明るい希望をもつことができるのです。 また「如来にも性悪は在る」というのも、ありがたいことです。もしお釈迦さまの心に悪の因子が全然なかったとしたら、悪というものはどんなものかおわかりにならず、人間のもつ悪の種々相に対する理解もありえなかったでしょう。したがって、それらの悪を断ずる方途も考えられなかったはずです。ところが、ありがたいことに、お釈迦さまはそうではなかったのです。その徳と慈悲は、赤ん坊のような天真らんまんなものではなく、すべての悪や煩悩をも手にとるように承知された上で、それらを包容しながら人間を善へ導いていくという、大きな智慧の働きにほかならなかったのです。 どの世界へも行ける可能性 お釈迦さまは、妻もめとり、子も成し、凡夫としての体験を豊富にもっておられます。そうした一人の凡夫が修悪を断じて仏となられた、その血のにじむような長い歩みは、そのままわれわれにとって生きた手本になります。そして、その教えも、通りいっぺんの概念的なものではなく、一つ一つに体験の汗と膏(あぶら)がしみこんだ教えなのです。だからこそ、その通りに行じていけば、万が一にも間違いはないのです。安心して随順していけるのです。 さて、地獄から仏までの十の世界に、それぞれ地獄から仏までの十の世界がお互いに具わっているというこの真実を(十界互具)といい、十掛ける十は百で(百法界)というわけです。これが(一念三千)の中心となる思想です。すなわち「人間はどの世界へもおもむく可能性をもっている」という断定なのです。自分にもこのような可能性があることをシミジミと思えば、地獄・修羅・餓鬼・畜生道へ落ちないように自制自重する心がひとりでに生じ、また、菩薩界・仏界にでも必ず上れるのだという希望と勇気が、油(ゆう)然と湧いてくるのを覚えるではありませんか。(つづく) 興福寺・五部浄像 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる29
【機関紙誌】
万物・万象はどう変化するか
心が変われば世界が変わる29
万物・万象はどう変化するか
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(29) 立正佼成会会長 庭野日敬 万物・万象はどう変化するか 十如是は現象の実相を解明 十界の中にそれぞれ十界が具わっているという(十界互具)については、前回までに説明しましたが、それらの心と物の相即した世界は片時として固定してあるものではなく、諸行無常の理の通り、常に変化してやまないものであります。では、それらの世界はどのようにして在り、どのように変化するかという(諸法の実相)を解明したのが、法華経方便品に出てくる(十如是)の法門です。 如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。 現代語に意訳しますと、「すべての現象には、それぞれもちまえの姿・形(相)があり、もちまえの性質(性)があり、もちまえの構造―空の集まり方―(体)があり、もちまえの潜在エネルギー(力)があり、その潜在エネルギーが発現して作用(作)を起こすときは、然るべき原因(因)と、その原因を助長する条件、(縁)とによって、然るべき結果(果)を生み、それは周囲に然るべき影響(報)を残すものである。それらの変化は、見かけは千差万別に見えるけれども、実相においては、初め(本)から終わり(末)まで一貫して等しく宇宙意志にもとづく宇宙法則につらぬかれているのである。(本末究竟等)」ということになります。 物心一如は生化学からも このままでは難しそうな理論ですので、わかりやすい卑近な例を引いて説明しましょう。 朝顔は赤・白・青・紫などのラッパ型の花を咲かせます。これが朝顔のもちまえの相です(如是相)。相のあるものには、その相を現す本になるもちまえの性質(如是性)があります。ある朝顔には白い花を、ある朝顔には赤い花を咲かせる性質があります。 ところが性質というものは、そのものの本体から生じたものです。本体といっても元はただひといろの(空)なのですが、宇宙意志があるものを造り出すときは、(空)にそのもの特有の構造を与えます。朝顔の種子を割ってみても、なんら赤い色素も青い色素もありませんが、それぞれの種子には赤なら赤、青なら青の花を咲かせる遺伝子がちゃんと存在しているのです。 その遺伝子の本体が、DNA(デオキシリボ核酸)という螺旋状の高分子構造をもつ極微の存在であることは、今日ではもはや常識となっています。このDNAは(物)であるとも言えますが、自分自身にちゃんと記憶をもち、その記憶にもとづいて命令を発して蛋白質を合成させるというのですから、(心)であるとも言えるわけです。仏教でいう(物心一如)が、こうした現代の生化学からも裏づけられようとしているのです。ともあれ、ものの性質(性)は、宇宙の大生命がそのものを造り出す時に与えた特有の構成にもとづくものであって、この構成を(如是体)というわけです。 次に、(体)のあるものは必ずもちまえの潜在エネルギーをもっています。朝顔の種子には、発芽して成長する力を秘めています。これが(如是力)です。(力)は、機会があれば発現していろいろな作用を起こします。朝顔の種子に潜む(力)は、発芽して、つるを伸ばし、葉をつけ、花を咲かせます。こうしたもちまえの作用を(如是作)というのです。 一貫して宇宙意志による そういう作用を起こさせるのは、元の元を探れば宇宙の大生命の意志による、ある原因であります。これを(如是因)と言います。ところが、宇宙の物象は一つとして独立しているものはなく、必ず他の物象と複雑に関係し合って存在し、変化するもので、ある原因にそれを助長する周囲の条件が加わってこそ、ある結果を生ずるのです。朝顔の種子について言えば、適当な土壌と、水分と、温度等です。このような条件を(如是縁)というのです。このような(縁)の助長によってそれにふさわしい発芽という結果が生ずるわけです。これを(如是果)と言います。また、結果は、たんにそれが生じたということだけでなく、他に対する何らかの影響を残すものです。たとえば、朝顔の花が咲いたのを見て人々が「美しいな」と感ずることなどがそれです。ある結果にふさわしいその影響を(如是報)というのです。 ところで、これまでに見てきた変化は現実世界では複雑微妙にからみ合っていて、人間の智慧では判別し難い面も多々あるのですが、その実相においてはハッキリしており、初め(本)から終わり(末)まで一貫して、宇宙の大生命の意志とその法則にもとづくものであることに変わりはありません。このことを(本末究竟等)というのです。 さきに(十界互具)であるから十掛ける十で(百法界)であることを言いましたが、その百法界はいま述べた(十如是)の法則によって変化しますので、百掛ける十は千で、千種類の世界が展開することになります。これを(百界千如)と言います。もう一息で三千ということになりますが、それは次回に説明いたしましょう。(つづく) 仏頭(アフガニスタン) 絵 増谷直樹...
ページ送り
先頭ページ
«
前ページ
‹‹
Page
1
Page
2
Page
3
カレントページ
4