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『躍進』創刊号
【写真】
第2回在京支部親善競技大会
【写真】
核兵器禁止宗教者平和使節団
【写真】
完成に近づく大聖堂(一)
【機関紙誌】
聖堂の石
完成に近づく大聖堂(二)
【機関紙誌】
三菩薩像の壁画
完成間近の大聖堂をスケッチする山下清
【写真】
大聖堂の貼り絵 山下清画
【写真】
オリンピック中央前年祭 国立競技場
【写真】
完成に近づく大聖堂(三)
【機関紙誌】
庭園
完成に近づく大聖堂(四)
【機関紙誌】
菩提樹の彫金
テンプルトン賞受賞記念講演
【写真】
心が変われば世界が変わる1
【機関紙誌】
まず身近なところで/人間で言えば“からだ”から
心が変われば世界が変わる1
まず身近なところで/人間で言えば“からだ”から
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(1) 立正佼成会会長 庭野日敬 はじめに まず身近なところで人間で言えばからだから 心の立て直しで世界平和を 皆さんもよくご存じのように、私は、(世界平和)のために懸命に働いている者であります。世界平和のための努力といっても、あるいは政治・外交の面から、あるいは産業・経済の面から、あるいは文化交流の面からという具合に、さまざまな路線がありますが、私は宗教者ですから、「人類の心を立て直すことによって世界に平和を」という路線を取ることは言うまでもありません。そして、そのために不可欠の階梯として、「まず世界の宗教者が心を一つにし、力を協(あわ)せよう」と呼びかけているわけであります。 ところが、一般の方々の目から見れば、こうした行き方は大変迂遠であり、いわゆる(百年河清を待つ)に等しいと考えられがちです。「そんな理想主義的なことを言っていてどうなるものか。現実はそんな甘いものではない」と評する人もあります。 そんな人に対して、私は反問したい。 第一に、「では、他にどんな方法があるのですか。完全な平和世界をつくり上げる道が、ほかにあるのですか」と。 第二に、「あなたは(理想)と(目的)とを混同しているのではないですか。目的は、それに到達した時、初めて価値を生ずるのですが、理想は、それに向かって踏み出す第一歩から、すでに一歩だけの現実的価値を生ずるものではないのですか」と。 ハーバード大学のソローキン教授は、その名著『人間性の再建』の結論として「世界永遠の平和のためには、人間性が立て直されなければならぬ」と断じています。まさにその通りです。世界を平和にするには、人類の心を変えるよりほかに道はないのです。 「人類の心を変える」という言葉を額面通りに聞けば、まるで雲をつかむような全く現実離れのした考えのように思われるでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、決して現実から遊離したものではないのです。その第一歩として、もしあなた自身が心を非利己的に、愛他的に立て直すならば、確実にあなた一人だけは心安らかな平和人間になれるのです。ということはつまり、微小ながらも世界平和のための一粒の種子が現実に芽生えたことになるのです。 そして、そうした新しい心の芽生えが家族へ、職場へ、地域社会へと次第に広がっていけば、その広がりの過程の中で一歩一歩確実に理想が達成されていくのです。 われわれが信奉している仏教は、実はそうした教えなのです。世界の永遠の平和を理想とし、まず個人個人の心から立て直していこうという教えなのです。なかんずく、われわれが所依の経典としている法華経は、(心が変われば世界が変わる)ことが可能である原理と、その具体的方法を説いたものなのです。だからこそ(諸経の王)と言われる大きな理由の一つが、実にここにあるのだ、と私は信じております。 十如是に示されている原理 どこにその原理が示されているかといえば、方便品の諸法実相・十如是の法門です。ところが(如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等)という文字の表面だけ見れば、どこに(心が変われば世界が変わる)という原理が示されているか分かりません。そこで、小釈迦と言われた中国の天台大師がこの法門を敷衍(ふえん)して(一念三千)ということを説かれました。「人間の一念の中に三千世界がある。だから、一念が変われば三千世界が変わるのだ」と説かれたのです。 しかし、われわれ凡夫の身としては、「一念が変われば三千世界が変わる」と聞かされても、あまりに話が大き過ぎてピンときません。身に迫る現実性が感じられません。ですから、私共の会の中でも「一念が三千だから」と、一つの通用語として、よく口にもし、耳にもしますけれども、果たして、みんながみんな、それが抜き差しならぬ真理であることを心の底から確信しているかどうか……ということになりますと、いささか心許ない感じがあるのです。 そんなアヤフヤなことではいけない、と私は思います。この真理は法華経の大きな柱の一つです。これが心の底に確立していなければ、何のために法華経を信じ、法華経を行ずるのか分からないことになります。 そこで私は、この真理を改めて見直してみたいと思い立ったのです。それも、「世界が変わる」と一足飛びに大きなことを考えないで、ごく身近なところから一歩一歩ゆっくりと、地道に考えていきたいと思い立ったのです。 また、こういうことを理論的に説いていったのでは、堅苦しく、読みにくく、飽きもきましょうから、できるかぎりやさしく、分かりやすく、なるべくたくさんの実例を挙げて、現実の問題として考えていこうと思うのです。 以上が、これから私が述べていこうとすることの根本理念であり、根本方針であります。 心が変わればからだも… さて、われわれにとって一番身近なところといいますと、われわれ自身のからだです。肉体です。ですから、(心が変われば世界が変わる)という真理を考えるには、何よりもまず(心が変わればからだが変わる)ということから見ていくのが筋道だと思います。 次回から、このことについて、徹底的に、くわしく考えていくことにしましょう。(つづく) 仏の顔(アフガニスタン) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる2
【機関紙誌】
心とからだの不思議な関係
心が変われば世界が変わる2
心とからだの不思議な関係
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(2) 立正佼成会会長 庭野日敬 心とからだの不思議な関係 体験的に知っていた(心身不二) 仏教では(心身不二)ということを教えていますが、皆さんも、確かにそうだと、感じる体験があるはずです。例えば、ひどく腹を立てると、頭がガンガンしてきたり、手足がブルブル震えたりしてきます。心配ごとがあると、顔色が青くなり、食欲もなくなります。急に恐ろしい目に遭えば、心臓は一時止まったかのように感じ、口の中が乾いてカラカラになります。大事な勝負に臨む前は、出もしない小便をやたらにしたくなります。 こういうことは大昔から人間は体験的に知っていたのですが、どうしてそうなるのかということまではわかりませんでした。ところが、現代になって、いろいろな学者が実験によって、その理由をつきとめ、実証するようになりました。 アメリカのキャノンという学者は、ネコを使って、怒ったり、恐怖したりする時の反応を研究しました。ネコにイヌをケシかけると、全身の毛を逆立て、爪を出し、歯をむき出してうなります。その時、ネコの体に起こる変化を調べてみますと、脈が大変速くなり、血圧が上がり、赤血球の数が増え、血液の中の糖分が増し、胃腸の運動が停止することがわかりました。そして、これらは副腎(ふくじん)というところから出るアドレナリンのせいだとしたのでした。 この研究から出発して、カナダのセリエという学者は、ストレス学説というものを唱えました。ストレスというのは(緊迫)とか(侵害刺激)と訳され、人間の健康に害を与える外的・内的な刺激を言うのです。外的な刺激と言いますと、猛烈な寒さや暑さ、外傷、かび、菌の感染などです。内的な刺激と言いますと、不安とか、苦悩とか、恐怖とか、憤怒といった精神的な刺激です。このような不快な精神的刺激も、よくない外的な刺激と同様に、身体に害を与えるというのです。その理由として、不快な刺激によって出るコーチゾンというホルモンが、全身に大きな影響を与えることを発見したのでした。 セリエは、このようにして起こる病気をストレス病と呼び、実力以上の地位についた人が起こす狭心症や不整脈、心労の多い管理職がよくかかる胃潰瘍、その他高血圧、リューマチ、糖尿病、腎硬化病などを、その病例として挙げています。 昔から「病は気から」と言われてきましたが、現代の医学でも精神と身体とは切り離すことのできないことを実証し、(精神身体医学)という独立した分野もできたのであります。私はつい昨年、わが国の精神身体医学の最高権威と言われる池見酉次郎博士と対談させて頂きましたが、いろいろとお話をうかがって、(心が変われば身体が変わる)という実証が、実に広範囲に及んでいることに、今さらのように驚きました。 池見博士によりますと、小児ゼンソクは親の過保護が大きく関係しているということでした。この病気は三歳児に一番多いのだそうですが、この年齢の子供はこれから独立した人格を形成しようという大切な時期にさしかかっているのです。ところが、近ごろの親たちは、子供を自分のものとして独占したいという気持から、あまりにぴったりくっついて離れない。だから子供の個性は健やかに伸びていかないということになる。そうした親と子のゆがんだ関係がゼンソクに結びつく……というのです。 解明される心と身体の因果関係 つまり、三歳ぐらいの子供ですから、まだハッキリとは意識しませんけれども、本能的に自分の個性がスクスク伸びるのを妨げるものに対して反抗する、そうした無意識の働きがゼンソクを引き起こすわけです。そこで、最近、親と子を切り離すという療法が欧米で始められ、日本でもやり始めたということですが、難治性のゼンソクの子供を施設に移すと、その日から発作がおさまってしまう子が、八〇パーセントぐらいいるというのです。この数字には全くびっくりしてしまいました。 このような、無意識の働きが身体に及ぼす影響は、実に計り知れないものがあって、まだまだ、未解決の世界がたくさんあるそうですけれども、われわれ素人が聞いても、なるほどと思われるような原因・結果の法則がずいぶん明らかにされているようです。 例えば、怒ったり、恐怖を感じたりすると、内臓の平滑筋や、骨格や筋肉のあるものが緊張します。その怒りや恐怖がすっかり解消してしまえばいいのですが、割り切れぬままに残りますと、その肉体的緊張も少しばかり残るというのです。少しばかり残っているぐらいでは何ということもないのですけれども、そういうことがしょっちゅう繰り返されますと、次第にそれが累積して、その部分に痛みを覚えるようになるのです。筋肉リューマチの原因の大部分がこれだといわれています。 ストレスの累積が病気の原因に このように、不快な精神的ストレスがしょっちゅう繰り返され、心の奥底にある無意識の世界に累積することが、さまざまな病気の原因となるのです。治らぬ病気に苦しんで佼成会に入会する方にはこのようなケースがたくさんあります。嫁・姑の間の葛藤(かっとう)、夫婦や親子の間の隠微な心の争いなどは、毎日のように繰り返され、表面の心で我慢しているうちにドンドン心の奥底に蓄(た)まるから、害が大きいのです。 ですから、入会して法座などで身の上を洗いざらい話してしまえば、その場で永年の病気がケロリと治ってしまうのは何の不思議もないわけです。小児ゼンソクの子が、親と切り離されたその日に八〇パーセントも発作がおさまるというのと、同じ理屈だと思います。次回は、このことについて、もう少し掘り下げて考えることにしましょう。 (つづく) 仏立像(ガンダーラ出土) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる3
【機関紙誌】
懺悔によって病気が治るのは
心が変われば世界が変わる3
懺悔によって病気が治るのは
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(3) 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔によって病気が治るのは 心の抑圧を解き放つことで 心と身体の関係を掘り下げて考え、分析し、そこから得た理論を応用して病気を治すことをやり始めたのは、ウィーン(オーストリア)の精神病医フロイト博士です。その前に、同じウィーンのある開業医が、ヒステリーの少女に催眠術をかけて、病気の誘因になった事件を思い出させ、それをくわしく語らせたところ病状が消えてしまうことを発見しました。 それにヒントを得て、フロイト博士はその開業医と協力してこの問題を追求していった結果、ヒステリーは心の奥底に残る古傷が原因であることを突き止めたのでした。ヒステリーというのは、体の器官にはなんらの障害はないのに、機能(はたらき)に障害が起こる病気です。耳が聞こえなくなったり、咽喉に何かつかえたようでモノがのみ込めなくなったり、手足がこわばって動かなくなったり、原因不明の頭痛がしたり、突然気を失ったりするのですが、耳や咽喉や手足を調べてみても何の異常もないのが特徴で、女子に多い病気です。 フロイト博士は、その病気の原因は、ある時に受けた屈辱とか、恐怖とか、悲哀とかいうような心の痛みが、本人は忘れてしまったつもりでも、心の奥底の無意識の中に抑圧された形で残っているので、それがうごめき出して身体的症状へと転換するのだ、と考えたのです。従って、その抑圧され、閉じこめられた心の痛みを放出させてしまえば、ヒステリーは治る、ということを発見したのです。 ところが、前記のように催眠術を応用するのには欠陥があることがわかり、フロイト博士は、患者にいろいろな質問をして連想を起こさせたり、「何でもいいから、心に思い浮かべることをドンドン話しなさい」と言って止めどもなくおしゃべりをさせたり、あるいは見た夢を語らせたりして、その患者の言葉の中から心の奥にひそむコンプレックス(抑圧されたために起こった心のシコリ・結ぼれ)を見つけ、その抑圧を解き放つことによって、見事にヒステリーを治していったのでした。現在でもアメリカなどには、このような方法で主としてヒステリーやノイローゼや神経系統の病気を治療する、いわゆる(精神分析医)が開業しているのです。 さて、こう考えてきますと、どうしても宗教における(懺悔)というものをもう一度考え直さねばならなくなります。 殻をかぶった生活から決別 (懺悔なくして宗教なし)という言葉があるくらい、あらゆる宗教において懺悔ということを大切にしますが、どうもそれが中途半端な受け取り方をされているように思われてなりません。すなわち(犯した過ちや心の罪を懺悔することによって心を洗い清める)というその(心)を、単に表面の心(顕在意識)の世界のことのように受け取っているのではないか、と考えられるのです。 もちろん、表面の心を洗い清めることも大切なことです。世俗の世界においては、人間は自分の心身の罪・醜さ・弱点・悩みなどを他人の前にさらけ出すことは、実際上なかなかむずかしいことで、多少とも殻をかぶって暮らしています。殻をかぶっていると、心は自由自在ではありませんから、本当の幸せを感じることができません。また、心に殻をかぶせることが習慣になりますと、常になにがしかの欺瞞をなしていることになりますから、本当の人格が育ちません。それゆえ、素っ裸になれる宗教の世界において指導者や同信者たちに、過去の行いの過ちや、現在の内心の罪などを洗いざらい懺悔することによって、心の自由自在を得、解放感を味わい、本当の人間らしい幸福を享受することができます。と同時に、本当の人格も育っていくのです。 真の姿に心を透徹させる ところが、懺悔には、そうした表面の心の洗い清めだけでなく、もっと重大なはたらきがあるのです。それは『懺悔経』の別名を持つ『仏説観普賢菩薩行法経』をしっかりと読めば必ずわかるはずです。 例えば、「懺悔清浄なること己りなば普賢菩薩復更に現前して行・住・坐・臥に其の側を離れず。乃至夢の中にも常に為に法を説かん」とあります。深層心理学者の分析によりますと、夢というものは(意識が眠っている間に、かくれた世界(無意識)に閉じこめられたさまざまな経験や思いが活発に働き出し、その動きを睡眠中の意識が把握し、記憶したもの)だそうです。ですから、起きている時は考えもしなかった大胆不敵なことや罪深い行いを、夢の中ではするわけです。ところが、ここに述べられた信仰者は、起きている時も普賢菩薩と共にある実感をもっていますし、夢の中でも普賢菩薩を見るというのですから、無意識の世界までも清められていることになります。 また、「一弾指の頃(あいだ)に百万億阿僧祗劫の生死の罪を除却せん」とあります。これは、人間がまだアミーバのような原生動物だったころから積んできた無数の罪が、無意識の中に累積しているのを、一瞬の間に消滅できるというのです。つまり、無意識の世界の大掃除ができるわけです。 先に述べた精神分析医の治療法は、無意識の世界の局部的な掃除をするものですが、もっと広く、もっと深く、底の底まで大掃除するのが宗教の懺悔であります。しかもその極致は「若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え」とありますように、この世の成り立ちの真の姿に心を透徹させることだ、とあります。この(真の姿)とは何か。それは追い追い明らかにしていくことにしましょう。 (つづく) わらう僧の頭部 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる4
【機関紙誌】
心の平和を保つには…
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