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佼成新聞 1962年4月15日 新しい宝石「ジャスパー」
【機関紙誌】
採石現場と加工工場を訪ねて
受電式でスイッチを入れる開祖さま
【写真】
佼成新聞 1962年8月5日 大聖堂受電式
【機関紙誌】
受電式でスイッチを入れる開祖さま
郡山 会津 両支部青年部親善競技大会
【写真】
第5回東京教会青年部親善競技大会
【写真】
第5回東京教会青年部親善競技大会
【写真】
1
...法話コード=開祖-1969-03-06-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=創立31周年記念式典 日 時=1969(昭和44)年3月6日 録音分=55分 場 所=大聖堂 出席者= 掲 載=『佼成新聞』1969(昭和44)年3月7日2面 見出等 ...
2
...○庭野会長 (一同 拍手) 皆さま、本日は、お参りをいただきまして、誠にありがとう存じます。 ただいままで、代表の方から、誓いの言葉やら、ごあいさつやら、ございましたが、その前に皆さんにおわびを申し上げなければならんと思うのであります。ことしの新年早々に皆さんがお参りをいただいたときに、わたくしの日程の組み方が、スケジュールが間違えまして、皆さんにお目にかからない、東京の5日の日の年頭教書を皆さんに申し上げて、6日の日の団参にお目にかかることができなかった、誠に申し訳なかった。 本日は、おわびを申し上げて、きょうも、ちょうど、お正月と同じように、昨日(さくじつ)が本当の31周年の記念日でございます。きょうは、地方団参の皆さま方に、31周年目を迎えた、お祝いの式典に、お目にかかるわけでございますが、会員皆さまのお力によりまして、会も、今日(こんにち)の、この盛況でございまして、ご覧のように、皆さまのご丹精によりまして、普門会館も、もう、外装は、だいたいに、その骨格はできまして、外装を、いよいよ、少し暖かになりますると、タイルを貼って、外側が出来上がる。だいたい、ことしいっぱいに外側から内装もほとんどできまして、来年の5月ごろまでには完成するだろうと、そういうような順序に相なっておるわけでございます。 ただいま理事長さんのごあいさつにもありましたように、皆さんの奉納の気持ちで、雅楽も舞踊もコーラスも、本当に、自分の、わずかの暇を奉納したいという、その真心でおやりになるから、皆さん、ご覧になっていただいて、たいへんに感銘を受けるような、奉納の、舞踊なり、音楽なり、できるわけでございますが。 日本の文化というものは、仏教文化をとってしまったら空っぽになってしまうというほど、仏教のおかげで、いろいろの、仏画に致しましても、または文化的の映画に致しましても、彫刻に致しましても、みな仏教の影響を受けて、文化がこんなに素晴らしい国になったということに、歴史的に、はっきりと、なっておるわけでありまして、その意味でも、いろいろの部門を通じて、皆さまのご協力が今日(こんにち)の佼成会をつくっていただいた。 教学的に普門の精神高揚なんというと、たいへんに難しいようの言葉でございますが、実は、皆さまの自分の持っておるものを真心で結集していく、それが普門精神でございます。普門ということは、あまねく門と書くのでありまして、この門である、あの門であるといって、よこひいき(えこひいき?)をして、いい門であるとか、悪い門であるとかというのではなくて、あらゆるものが門だらけ、あの普門という言葉も、ご承知のように、25番目の観世音菩薩普門品というのがございます。...
3
...観音さまは、仏さまのお弟子の菩薩の中で、わたくしども大衆に最も親しい菩薩さまと申し上げてもいいと思うんでありますが、その菩薩さまは三十三身を現じて法を説かれたと。 きょうの、教会長さん代表でお話をくださいました、甲府教会長さんのお話を伺っても、そういうような意味のことがありましたが、お釈迦さまのお弟子の中で、最も代表的に、だれにもわかるように、どんな境界(きょうがい)のところへでも出てくる。例えば、甲府教会長さんのお話をご利用させていただきまするならば、両親が早く亡くなったという、この悲しみ、わたくしどもは、これを悲しみで、べそをかいて泣いておる。わたくしも小さいうちにお母さんを亡くしましたが、観世音菩薩普門品を読んでみますると、人間にお役があって、本当にしっかりと仏道修行をするために、子どもの姿を現すか、親の姿を現すかは知りませんが、その人、その人の因縁によって、その姿を現じて、ために法を説くと、観世音菩薩普門品には書いてございます。 でありまするから、そういうふうに、仏教では、自分の目の前に現れた、自分に課せられたところの因縁というものを、あまねく門から、その人に、その本質を知らしめるというのが観世音菩薩さまでございます。 そういう意味で、三十三身ということは、数にして三十三身、経文を空読みにして、あれを暗記しようとすると、なかなか難しいことであります。ところが、三十三身という言葉、3ということは開くということで、天地があって人がある、親子があって子どもができるということは、果てもなく無限大の数(かず)を意味しているのであります。 しかも、3の3乗の、また、その3にかかったところの三十三身ということは、これは無数の数(かず)につながるところの非常に大きな数(すう)を意味しているわけでありまして、33だけに決まったことではないのであります。自分の目の前に現れた、すべてのことをはっきりと見極めると。 例えば、四諦の法門で、「生・老・病・死を度し涅槃を究竟せしめ」とありますが、この涅槃を究竟するという、涅槃ということは、ろうそくに火をつけて、その火がともれて、全部、ともれ切って、消えたところを涅槃というのであります。人間が一生懸命で立派に一生涯をともして、ともれ切ったのを涅槃といいますから、お釈迦さまの亡くなったときを、お涅槃会という。これは、いちばんの、涅槃ということの、正しい解釈であります。 ところが、その涅槃ということは、ただ亡くなっていくだけでなく、そのことの実相を完全につかむという、悟りということが涅槃であるということで、もろもろの煩悩を断ち切った状態、もろもろの煩悩が、いつまでも炎が燃えておる、燃え切って、断ち切って、煩悩をなくしたところを涅槃というと、こういう解釈と、二つ(音声途切れ)。...
4
... しかし、実際は、この涅槃ということは、とぼれ切って火が消えた状態というのが、現実の姿として、われわれが、いちばん、よく、はっきりと、わかる涅槃であります。 そこで、あの四諦の法門の、涅槃を究竟せしめということを考えてみますると、なるほど、その意味をよくかみしめなければならないなということは、よくよく、かみしめてみると、諸行は無常であるという、諸法は無我であるという、二つの真理、この真理をよく考えてみると、因縁によって、持ちつ持たれつの関係に、わたくしどもは、手をつないでおるということと、変化をして必ず消滅の教えと、仏教がいわれるように、生あるものは必ず滅するという、消滅という、この消から滅に至る、そのことを考えれば、涅槃ということは誠に厳粛なる事実、本当の、それは、実相であります。これを、よく究竟するということですから、これを、よく認識しろということなんです。 ですから、わたくしどもが、ただ生まれているのでなく、生まれたからには、そのお役があって、人間関係というものの中に生まれて、自分という、そのポイントは、ほかの人でできない、自分は愚かであれば、愚かであるだけに必要なんだ、秀才であれば、秀才であるだけに、たいへんに、それは必要なんだ。その人でなければできない因縁によって、自分がつくられているという、その根底から、自分というもののあり方を、どうして世の中へ生まれてきたか、生まれてきた、その因縁というものをよく考えて、見極めて、究竟してみると、なるほど、迷うせきはなく、自分は刹那、刹那の仕事に全力を挙げて、あの奉納の演芸をするような無我の気持ちで、報酬をもらうとか、ほめられるとかというのでなく、仏さまに本当にささげるという、そういう気持ちで、ろうそくが真剣に火を点じますと、ともれるように、人間としての使命を、立派にともれ切って、果たすという、その根底をちゃんと悟らなければならない、ということであります。 そのことを、もう少し詳しくいおうとするならば、経文にありますように、声聞を求むる者に四諦の法輪を説き、生・老・病・死を度し涅槃を究竟せしめ、といわれる、その次に、辟支仏を求める者の為には十二因縁の法を説きと、こう、ありますから、十二因縁の法ということは、自分の生まれてくるという、おなかの中の、胎内の環境から、おなかで成長したとき、さらに世の中へ、産声を上げて、オギャーと生まれてから、また、成長する過程を十二段階に分けて、ただ自分が育ってくるのでなく、生かされ、そして守られて、自分がこの世の中へ生を受けるということは大きな神秘であり、簡単に自分が生まれてきたと思うと大間違いで、容易に人間として生まれることのできない、人身は受け難し、その受け難い人身を受けてきたという、このことの因縁をよく悟るということが、辟支仏を求むる者の為に十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには六波羅蜜の法を説いて仏慧を究竟せしめ、とありまするから、六波羅蜜の法門というものを説いて、仏さまのみ心をみ心とするために、お釈迦さまは、世の中にお出ましになったと、こう、お経に、はっきりと、明記してございます。...
5
... わたくしどもが、佼成会員の、あの綱領にありますように、仏教の本質的の救われ方を認識し、ということがいわれますが、仏教の本質的の救われ方ということは、いま申し上げました、四諦の法輪、さらに十二因縁の法門、さらに仏さまのみ心を自分の心とする、このことが、仏さまが一大事の因縁をもって世にお出ましになった、わけでございます。 そういうことを、この経文の中から考えまするときに、わたくしども、30年前に、お釈迦さまご一代の説法の中で最も大切な法華経、なぜ、それでは、その法華経というものが、そんなに大事なのかという問題は、あとに致しまして、その法華経に遇い奉ることができまして、法華経を所依の経典として33年前に発足をしたわけでございますが、お経を一生懸命で皆さんとともに勉強させていただきますと、法華経の中に、いちばん大事なことは何かというと、仏さまは寿命が永遠であるということであります。寿命の長遠ということであります。 あの如来寿量品というのは、如来は寿命が無量であるというのが、あの名前のごとく、寿量品という命題(題名?)になっているわけであります。観世音菩薩普門品という、その普門ということが尊いように、寿命が無量であるという、そのことが法華経の最も大切の言葉といわれております。 なぜ大切かというと、われわれが、ずっと、過去、無量劫の昔から未来に向かって生きておる、生命が永遠であると、こういうことが、まず基本に決まりませんと、どうも、刹那的の、きょう、あすだけ、楽しければいい、先行きのことまで考えない、刹那的の、その考え方。 毎年、日蓮さまの入滅しましたときの、あのお会式になりますと、太鼓を皆さんがたたきます。あの太鼓をたたくときに、あんまり上品の言葉じゃございませんが、太鼓たたく、あの調子を、皆さんが、ちっと、すぐ覚えるのには、たいへんに重宝のもので、「ちょいと、ちょいと見て、ちょいとほれた」というと、これは、リズムがよく乗ります。 そういうように、「ちょいと、ちょいと見て、ちょいとほれた」というような刹那的の考えを持っておるから、自分のやることが、なんでもいいというようのことで、わがままが通したいというので、誠に、はかない人生にしてしまい、先ほど青年部の方の誓いの言葉にもありましたように、刹那的な、誠に、浅はかのことで大切な人生を台なしにしてしまうような、青春時代の、最も勉強のできる、成長する、磨ける、大切なときに過ってしまうと、これは、とんでもないことになってしまう。 ところが、現在は昭和元禄というほど世の中が非常に泰平ムードで、物が十分ありまして、お米があり過ぎて、政治家が頭痛鉢巻きでいるほど、お米が余計にとれるほど、物には誠に事欠かない状態になりました。...
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...法話コード=開祖-1969-03-06-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=創立31周年記念式典 日 時=1969(昭和44)年3月6日 録音分=55分 場 所=大聖堂 出席者= 掲 載=『佼成新聞』1969(昭和44)年3月7日2面 見出等 ...
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...○庭野会長 (一同 拍手) 皆さま、本日は、お参りをいただきまして、誠にありがとう存じます。 ただいままで、代表の方から、誓いの言葉やら、ごあいさつやら、ございましたが、その前に皆さんにおわびを申し上げなければならんと思うのであります。ことしの新年早々に皆さんがお参りをいただいたときに、わたくしの日程の組み方が、スケジュールが間違えまして、皆さんにお目にかからない、東京の5日の日の年頭教書を皆さんに申し上げて、6日の日の団参にお目にかかることができなかった、誠に申し訳なかった。 本日は、おわびを申し上げて、きょうも、ちょうど、お正月と同じように、昨日(さくじつ)が本当の31周年の記念日でございます。きょうは、地方団参の皆さま方に、31周年目を迎えた、お祝いの式典に、お目にかかるわけでございますが、会員皆さまのお力によりまして、会も、今日(こんにち)の、この盛況でございまして、ご覧のように、皆さまのご丹精によりまして、普門会館も、もう、外装は、だいたいに、その骨格はできまして、外装を、いよいよ、少し暖かになりますると、タイルを貼って、外側が出来上がる。だいたい、ことしいっぱいに外側から内装もほとんどできまして、来年の5月ごろまでには完成するだろうと、そういうような順序に相なっておるわけでございます。 ただいま理事長さんのごあいさつにもありましたように、皆さんの奉納の気持ちで、雅楽も舞踊もコーラスも、本当に、自分の、わずかの暇を奉納したいという、その真心でおやりになるから、皆さん、ご覧になっていただいて、たいへんに感銘を受けるような、奉納の、舞踊なり、音楽なり、できるわけでございますが。 日本の文化というものは、仏教文化をとってしまったら空っぽになってしまうというほど、仏教のおかげで、いろいろの、仏画に致しましても、または文化的の映画に致しましても、彫刻に致しましても、みな仏教の影響を受けて、文化がこんなに素晴らしい国になったということに、歴史的に、はっきりと、なっておるわけでありまして、その意味でも、いろいろの部門を通じて、皆さまのご協力が今日(こんにち)の佼成会をつくっていただいた。 教学的に普門の精神高揚なんというと、たいへんに難しいようの言葉でございますが、実は、皆さまの自分の持っておるものを真心で結集していく、それが普門精神でございます。普門ということは、あまねく門と書くのでありまして、この門である、あの門であるといって、よこひいき(えこひいき?)をして、いい門であるとか、悪い門であるとかというのではなくて、あらゆるものが門だらけ、あの普門という言葉も、ご承知のように、25番目の観世音菩薩普門品というのがございます。...
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...観音さまは、仏さまのお弟子の菩薩の中で、わたくしども大衆に最も親しい菩薩さまと申し上げてもいいと思うんでありますが、その菩薩さまは三十三身を現じて法を説かれたと。 きょうの、教会長さん代表でお話をくださいました、甲府教会長さんのお話を伺っても、そういうような意味のことがありましたが、お釈迦さまのお弟子の中で、最も代表的に、だれにもわかるように、どんな境界(きょうがい)のところへでも出てくる。例えば、甲府教会長さんのお話をご利用させていただきまするならば、両親が早く亡くなったという、この悲しみ、わたくしどもは、これを悲しみで、べそをかいて泣いておる。わたくしも小さいうちにお母さんを亡くしましたが、観世音菩薩普門品を読んでみますると、人間にお役があって、本当にしっかりと仏道修行をするために、子どもの姿を現すか、親の姿を現すかは知りませんが、その人、その人の因縁によって、その姿を現じて、ために法を説くと、観世音菩薩普門品には書いてございます。 でありまするから、そういうふうに、仏教では、自分の目の前に現れた、自分に課せられたところの因縁というものを、あまねく門から、その人に、その本質を知らしめるというのが観世音菩薩さまでございます。 そういう意味で、三十三身ということは、数にして三十三身、経文を空読みにして、あれを暗記しようとすると、なかなか難しいことであります。ところが、三十三身という言葉、3ということは開くということで、天地があって人がある、親子があって子どもができるということは、果てもなく無限大の数(かず)を意味しているのであります。 しかも、3の3乗の、また、その3にかかったところの三十三身ということは、これは無数の数(かず)につながるところの非常に大きな数(すう)を意味しているわけでありまして、33だけに決まったことではないのであります。自分の目の前に現れた、すべてのことをはっきりと見極めると。 例えば、四諦の法門で、「生・老・病・死を度し涅槃を究竟せしめ」とありますが、この涅槃を究竟するという、涅槃ということは、ろうそくに火をつけて、その火がともれて、全部、ともれ切って、消えたところを涅槃というのであります。人間が一生懸命で立派に一生涯をともして、ともれ切ったのを涅槃といいますから、お釈迦さまの亡くなったときを、お涅槃会という。これは、いちばんの、涅槃ということの、正しい解釈であります。 ところが、その涅槃ということは、ただ亡くなっていくだけでなく、そのことの実相を完全につかむという、悟りということが涅槃であるということで、もろもろの煩悩を断ち切った状態、もろもろの煩悩が、いつまでも炎が燃えておる、燃え切って、断ち切って、煩悩をなくしたところを涅槃というと、こういう解釈と、二つ(音声途切れ)。...
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... しかし、実際は、この涅槃ということは、とぼれ切って火が消えた状態というのが、現実の姿として、われわれが、いちばん、よく、はっきりと、わかる涅槃であります。 そこで、あの四諦の法門の、涅槃を究竟せしめということを考えてみますると、なるほど、その意味をよくかみしめなければならないなということは、よくよく、かみしめてみると、諸行は無常であるという、諸法は無我であるという、二つの真理、この真理をよく考えてみると、因縁によって、持ちつ持たれつの関係に、わたくしどもは、手をつないでおるということと、変化をして必ず消滅の教えと、仏教がいわれるように、生あるものは必ず滅するという、消滅という、この消から滅に至る、そのことを考えれば、涅槃ということは誠に厳粛なる事実、本当の、それは、実相であります。これを、よく究竟するということですから、これを、よく認識しろということなんです。 ですから、わたくしどもが、ただ生まれているのでなく、生まれたからには、そのお役があって、人間関係というものの中に生まれて、自分という、そのポイントは、ほかの人でできない、自分は愚かであれば、愚かであるだけに必要なんだ、秀才であれば、秀才であるだけに、たいへんに、それは必要なんだ。その人でなければできない因縁によって、自分がつくられているという、その根底から、自分というもののあり方を、どうして世の中へ生まれてきたか、生まれてきた、その因縁というものをよく考えて、見極めて、究竟してみると、なるほど、迷うせきはなく、自分は刹那、刹那の仕事に全力を挙げて、あの奉納の演芸をするような無我の気持ちで、報酬をもらうとか、ほめられるとかというのでなく、仏さまに本当にささげるという、そういう気持ちで、ろうそくが真剣に火を点じますと、ともれるように、人間としての使命を、立派にともれ切って、果たすという、その根底をちゃんと悟らなければならない、ということであります。 そのことを、もう少し詳しくいおうとするならば、経文にありますように、声聞を求むる者に四諦の法輪を説き、生・老・病・死を度し涅槃を究竟せしめ、といわれる、その次に、辟支仏を求める者の為には十二因縁の法を説きと、こう、ありますから、十二因縁の法ということは、自分の生まれてくるという、おなかの中の、胎内の環境から、おなかで成長したとき、さらに世の中へ、産声を上げて、オギャーと生まれてから、また、成長する過程を十二段階に分けて、ただ自分が育ってくるのでなく、生かされ、そして守られて、自分がこの世の中へ生を受けるということは大きな神秘であり、簡単に自分が生まれてきたと思うと大間違いで、容易に人間として生まれることのできない、人身は受け難し、その受け難い人身を受けてきたという、このことの因縁をよく悟るということが、辟支仏を求むる者の為に十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには六波羅蜜の法を説いて仏慧を究竟せしめ、とありまするから、六波羅蜜の法門というものを説いて、仏さまのみ心をみ心とするために、お釈迦さまは、世の中にお出ましになったと、こう、お経に、はっきりと、明記してございます。...
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... わたくしどもが、佼成会員の、あの綱領にありますように、仏教の本質的の救われ方を認識し、ということがいわれますが、仏教の本質的の救われ方ということは、いま申し上げました、四諦の法輪、さらに十二因縁の法門、さらに仏さまのみ心を自分の心とする、このことが、仏さまが一大事の因縁をもって世にお出ましになった、わけでございます。 そういうことを、この経文の中から考えまするときに、わたくしども、30年前に、お釈迦さまご一代の説法の中で最も大切な法華経、なぜ、それでは、その法華経というものが、そんなに大事なのかという問題は、あとに致しまして、その法華経に遇い奉ることができまして、法華経を所依の経典として33年前に発足をしたわけでございますが、お経を一生懸命で皆さんとともに勉強させていただきますと、法華経の中に、いちばん大事なことは何かというと、仏さまは寿命が永遠であるということであります。寿命の長遠ということであります。 あの如来寿量品というのは、如来は寿命が無量であるというのが、あの名前のごとく、寿量品という命題(題名?)になっているわけであります。観世音菩薩普門品という、その普門ということが尊いように、寿命が無量であるという、そのことが法華経の最も大切の言葉といわれております。 なぜ大切かというと、われわれが、ずっと、過去、無量劫の昔から未来に向かって生きておる、生命が永遠であると、こういうことが、まず基本に決まりませんと、どうも、刹那的の、きょう、あすだけ、楽しければいい、先行きのことまで考えない、刹那的の、その考え方。 毎年、日蓮さまの入滅しましたときの、あのお会式になりますと、太鼓を皆さんがたたきます。あの太鼓をたたくときに、あんまり上品の言葉じゃございませんが、太鼓たたく、あの調子を、皆さんが、ちっと、すぐ覚えるのには、たいへんに重宝のもので、「ちょいと、ちょいと見て、ちょいとほれた」というと、これは、リズムがよく乗ります。 そういうように、「ちょいと、ちょいと見て、ちょいとほれた」というような刹那的の考えを持っておるから、自分のやることが、なんでもいいというようのことで、わがままが通したいというので、誠に、はかない人生にしてしまい、先ほど青年部の方の誓いの言葉にもありましたように、刹那的な、誠に、浅はかのことで大切な人生を台なしにしてしまうような、青春時代の、最も勉強のできる、成長する、磨ける、大切なときに過ってしまうと、これは、とんでもないことになってしまう。 ところが、現在は昭和元禄というほど世の中が非常に泰平ムードで、物が十分ありまして、お米があり過ぎて、政治家が頭痛鉢巻きでいるほど、お米が余計にとれるほど、物には誠に事欠かない状態になりました。...
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...法話コード=開祖-1969-03-06-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=創立31周年記念式典 日 時=1969(昭和44)年3月6日 録音分=55分 場 所=大聖堂 出席者= 掲 載=『佼成新聞』1969(昭和44)年3月7日2面 見出等 ...
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...○庭野会長 (一同 拍手) 皆さま、本日は、お参りをいただきまして、誠にありがとう存じます。 ただいままで、代表の方から、誓いの言葉やら、ごあいさつやら、ございましたが、その前に皆さんにおわびを申し上げなければならんと思うのであります。ことしの新年早々に皆さんがお参りをいただいたときに、わたくしの日程の組み方が、スケジュールが間違えまして、皆さんにお目にかからない、東京の5日の日の年頭教書を皆さんに申し上げて、6日の日の団参にお目にかかることができなかった、誠に申し訳なかった。 本日は、おわびを申し上げて、きょうも、ちょうど、お正月と同じように、昨日(さくじつ)が本当の31周年の記念日でございます。きょうは、地方団参の皆さま方に、31周年目を迎えた、お祝いの式典に、お目にかかるわけでございますが、会員皆さまのお力によりまして、会も、今日(こんにち)の、この盛況でございまして、ご覧のように、皆さまのご丹精によりまして、普門会館も、もう、外装は、だいたいに、その骨格はできまして、外装を、いよいよ、少し暖かになりますると、タイルを貼って、外側が出来上がる。だいたい、ことしいっぱいに外側から内装もほとんどできまして、来年の5月ごろまでには完成するだろうと、そういうような順序に相なっておるわけでございます。 ただいま理事長さんのごあいさつにもありましたように、皆さんの奉納の気持ちで、雅楽も舞踊もコーラスも、本当に、自分の、わずかの暇を奉納したいという、その真心でおやりになるから、皆さん、ご覧になっていただいて、たいへんに感銘を受けるような、奉納の、舞踊なり、音楽なり、できるわけでございますが。 日本の文化というものは、仏教文化をとってしまったら空っぽになってしまうというほど、仏教のおかげで、いろいろの、仏画に致しましても、または文化的の映画に致しましても、彫刻に致しましても、みな仏教の影響を受けて、文化がこんなに素晴らしい国になったということに、歴史的に、はっきりと、なっておるわけでありまして、その意味でも、いろいろの部門を通じて、皆さまのご協力が今日(こんにち)の佼成会をつくっていただいた。 教学的に普門の精神高揚なんというと、たいへんに難しいようの言葉でございますが、実は、皆さまの自分の持っておるものを真心で結集していく、それが普門精神でございます。普門ということは、あまねく門と書くのでありまして、この門である、あの門であるといって、よこひいき(えこひいき?)をして、いい門であるとか、悪い門であるとかというのではなくて、あらゆるものが門だらけ、あの普門という言葉も、ご承知のように、25番目の観世音菩薩普門品というのがございます。...
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