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開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
【音声】
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
1
...法話コード=開祖-1979-04-11-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会 日 時=1979(昭和54)年4月11日 録音分=19分 場 所=ロンドン、ギルド・ホール 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
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...○庭野開祖会長 (一同 拍手)(咳払い)ご来賓の皆さま、議長、(咳払い)そして紳士淑女の皆さま、このたびわたくしは、(咳払い)はからずも、素晴らしい、テンプルトウしんを、(咳払い)テンプルトン賞をちょうだい致しましたが、世界には、わたくしよりはるかにすぐれた宗教上の、業績をあげられた方々がたくさんおられますにもかかわらず、わたくしに受賞の光栄を賜りましたことを、心から感謝を申し上げる次第でございます。と同時に、わたくしとともに世界宗教者平和会議のために、過去10年間にわたって協力してくださった同志の方々の賜物であることを、特に申し添えておきたいと存じます。 講演に当たって、まず申し上げておきたいことは、わたくしは学者ではございません、え、ただ仏陀(ぶつだ)の教えのままに実践している一(いつ)仏教徒にすぎないということであります。そのわたくしが、いま、足りないながらも、人びとの幸福と世界の平和のために、努力のできえました、ことは、少年時代に受けた祖父からの影響であるということであります。 わたくしは、日本(にほん)の北部にある新潟県の山の中の寒村に育った者でありますが、わたくしをかわいがってくれました祖父が、どんな小さな虫でも、自分で食べるぐらいのことはしているではないか、まして、人間として、生まれたからには、世のため人のために役立つ人間にならなければいけない、ということを常々わたくしにいい聞かせるとともに、自らも村びとの苦しみ、悩みのために献身しておりました。その祖父の言葉と、姿がいつしかわたくしの意識の底にしみこんだのでありましょう。のちにわたくしをして宗教の世界に目を向けさせる要因となったことは確かでございます。 さて、現在のわたくしの精神的な土台となっているものは、申すまでもなく、仏陀(ぶつだ)の教えであります。菩薩としての使命感であります。ところが、仏教のいちばん根本の教えとなるものは、三法印であるといっても過言ではございません。その三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、この三つを申します。その第1番目に諸行無常とは、一切の、現象は時々刻々に変化をするということであります。心も物質も、固定、不変と見える木や石さえも、常に変化をして、えー、おります。えー、物質の究極のものとして、不変と思われておりました原子でさえも、その内部では、常に動き、変化していることが、近代科学によって明らかにされております。 ましてや、わたくしどもの体もまた、時々刻々に変化をしてることは申すまでもありません。 とは申せ、人は老い、やがて滅する、そのような、はかない、意味での変化を中心に仏陀(ぶつだ)は、この諸行無常を説かれたのではありません。...
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
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...すべてのものは変化する、変化するものであるからこそ、現在の瞬間、瞬間にベストを尽くせというのが真の仏陀(ぶつだ)の教えであり、それはまた、おごれる者に自省を促し、不幸の者に希望を与えて、精進せしめるというそれがこの真理を仏陀(ぶつだ)が説かれた真の精神であります。 第2番目に、諸法無我でありますが、この諸法無我とは、すべてのものは他(た)と関係なしに孤立して存在するものではないということでありまして、すべてのものは、相違相関の間柄にあるということであります。 わたくしが、東京からロンドンに飛行して、来るためには、操縦するパイロットをはじめ、安全飛行のために絶えず地上から通信を送ってくれる人、機械を整備する(「しゅる」と発音)人、燃料を補給した人、機体の材料である鉱物を掘り出した人、機体を設計した人、というように見てまいりますと、1機の飛行機はまさにジェットエンジンの推進だけではなく、世界中の真心によって支えられて飛ぶことができるわけであります。そのような、(咳払い)そのおかげさまで、わたくしをいまこうして皆さまの前へ出ているわけでございます。 もっと突っ込んで考えてみますと、機体のジュラルミン(「ジュウラミン」と発音)やチタニウムのような原料である鉱物も燃料も、人間がつくって地下にうめたものではなく、自然から与えられ、それを利用しているにすぎないわけであります。ところが人間は、それに気づかず、自分の力だけで行動し、生きているという傲慢さをもつようになったことは、反省すべきでありましょう。あるいはまた、自然との調和ではなく、自然を征服するという驕慢さによって人類はいま、公害や資源の枯渇というかたちで、自らの首を絞めているのが現状ではありますまいか(咳払い)。 さて、諸法無我についてお話を致しましたが、ここで出てくるのは、仏教のいま一つの大事な教えであります。それは縁起ということであります。縁起とは、一切のものは縁によって起こるということであります。現在、わたくしが着ておりますこの衣服も、日々(にちにち)の糧(かて)である食料も、自分以外の人々の勤労の結果を縁とし、この心もあらゆる出会い、すなわち体験と知識を縁として形成されております。そうして人間は、あらゆる縁の中で生かされているというわけであります。人間社会はあたかも、網のようなものであって、自分という一つの網の目は、他(た)の網の目によって保たれ、また自分という一つの網の目は、他(た)の網の目にとってなくてはならぬ縁(「いん」と発音)となっている、うー、のであります。 ところが、今日(こんにち)の人びとは、物とか金(かね)とかいう目に見える物質的なものだけにとらわれすぎております。...
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
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...わたくしたちはこの縁起の世界、目に見えない世界というものに目を向けなければなりません。いまや他(た)の天体のことまでわかっている人間ではありますが、自分自身の存在が、なんによって支えられているかということを知らぬのはまさに悲劇(「へいぎ」と発音)であります。え、世界に例をとって見ましても、日本(にほん)はもとより、ソ連でさえも、アメリカから大量の食糧を輸入しなければならないという時代に、絶対のもの、究極のものに近づくための手段にしかすぎない、イデオロギーのために対立するということはじつに愚かなことであります。長い歴史の流れからすれば、イデオロギーは、その時代時代の衣装にすぎない、といっている人がおります。しかし、人間は衣装だけでは幸せにはなれませんし、生きていくことさえできません。特に近代におけるイデオロギーの、ほとんどが、対立闘争の中で自分の存在を確立していくという考え方で、考え方がつおいように思われます。自己の利益のみを中心にして主張し、その拡張をはかる、そうした考え方にとどまるかぎり、憎しみと争いから脱却することはできません。 事実、人類の歴史は争いのくり返しでありました。個人と個人とのエゴの相克、偏狭なナショナリズムの衝突、帝国主義、労使のあいだの争い、すべてが自分がなんによって生かされて、存在しているかを忘れた、近視眼的独善的な発想に由来するものであります。 いまわたくしは、諸行無常について、しょ、諸法無我について、そして縁起について簡単にふれてまいりましたが、人口の増加、資源の問題などを考えますと、人類生存のためには、まだいくつかの紛争があるにせよ、ナショナリズムから地域主義に、そして地球主義から世界共同体の、建設に向かわざるをえないと思うのであります。 そして地球という一つの船に乗った人類家族という考え方が、芽生えつる、芽生えつつある今日(こんにち)、人間の心の平安と幸福、世界の平和の、を至上目的とする宗教が、宗教用語や儀式形態の差こそあれ、互いに反目し合ってよいはずはありません。 第二バチカン公会議において、わたくしは、いまは亡きパウロ六世猊下にお会いを致しましたとき、猊下は、仏教徒のわたくしに向かって、キリスト教徒、キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がまたキリスト教徒のために祈る、そのような状態にならなければ、宗教が人類に貢献する道はない、いまや人類という言葉は、隣人という言葉と同じ意味になりつつある、と申されました。そのときわたくしは、宗教者は、宗派の壁を、(咳払い)、しゅう、宗派を隔てる壁を打ち壊し、その壊れた小石をもって断絶の溝をうめなければならんと決心を致したのであります。...
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
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... すなわち、世界平和の達成には、政治の、イギの、エゴのみならず、人間精神の改革が必要であり、そのためにはまず宗教そのものが、ルネッサンスが必要ではないでしょうか。 爾来(じらい)、わたくしは、世界の宗教、まずキリスト教をはじめ、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、神道(「しんどう」と発音)、仏教などあらゆる宗教者の心ある人びととともに、争いではなく協力を、奪うことではなく惜しみなく与え合うことを、そして学び合い、互いに力を合わせて平和を阻害する要因を除去するために、世界宗教者平和会議を組織し、努力してまいったのであります。 すでに述べたごとく、わたくしたちは、いま一度、すべてのものは変化してとどまることがないという諸行無常の真理を忘れて、相対的な物質のみに執着し、あるいはまたわたくしたちが、諸法無我という真理を見失って、天地のすべてのものに支えられているという事実、目に見えぬものを、ものに生かされているという事実に気がつかぬために、感謝を忘れ、愚痴と怒りと貪(むさぼ)りの心のままに生きていないかを互いに反省したいものであります。 さて、第3番目の涅槃寂静でありますが、いま述べた、愚痴と怒りと貪りという、この誤った心を、仏陀(ぶつだ)は煩悩の炎に譬えておりますが、その煩悩の炎を吹き消した状態を梵語で、(咳払い)ニルバーナ、つまり涅槃寂静と呼ばれるのであります。この煩悩の炎を吹き消した、安穏の境地に達することが、仏教徒に与えられた一つの命題ということができましょう。つまり、いまを去る二千五百余年前(ぜん)、仏陀(ぶつだ)は、人びとが煩悩の炎によって自らを焼き尽くそうとしておる危険性に警鐘を鳴らされたわけであります。ただし、ここで注意しなければならないことは、とかく自分の涅槃寂静だけに安住し、現実の改革に取り組むことを忘れがちであることを、わる、(咳払い)忘れがちであることに対して、わたくしたち仏教徒は、十分に留意する必要がありましょう。 最後に、わたくしは、昨年6月、国連軍縮特別総会において提言の機会を与えられ、カーター大統領閣下、ならびにブレジネフ書記長閣下に対し、軍備のために危険を冒すよりも、平和のために危険を冒すべきである、と申し上げました。もとより宗教者としてのわたくしの声は小さく、弱いことをわたくし自身がよく存じております。 しかし、核の脅威、そして人類の3分の1(いつ)が餓死線上にあって、年に約600万人の人たちが餓死しているということをいわれております。さらに、残る3分の1(いつ)が、腹ふくるる思いをしている不均衡を見るにつけ、わたくしたちは、これで果たして、よいなだろ、よいのだろうか、という問題意識をもつべきでありましょう。...
開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
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...世界にはまだ文盲(「ぶんもう」と発音)の解決よりも、まず、パンが問題のところがたくさんございます。 わたくしども立正佼成会におきましては、いままでにカンボジアにおいて子どもたちの学校をつくり、農業の指導を行い、ラオスでは信仰の中心である国宝タートルワン寺院の修復に取り組んだことがございます。 しかし、それらの事業は、戦争による政変によってあえなく放棄せざるをえませんでした。さらにベトナム難民の救助、バングラデシュの子どもたちへの食糧援助、ネパール女性の日本(にほん)における看護婦養成などを、微力ながらも続けておりますが、それはまだ事態を揺り動かすほどの力にはなっておりません。 かつて1974年、第2回、せいかい、世界宗教者平和会議を、ベルギーにおきまして、(咳払い)スーネンス猊下のご協力によりまして、ルーベン大学内で行わしてもらいました。そのとき英国の新聞記者から、わたくしは、こういう質問を受けたことがございます。「あなたはいろいろと平和のために努力しているようだが、効果はあがらないのではないか」と。そのときわたくしは答えました。「いや、こう、効果がなかなかあがらないからこそ、わたくしは一生懸命にやっているのだ」と。皆さん、それこそが、損得や利害打算を捨てた、宗教者の使命ではないでしょうか。 今日(こんにち)までわたくしは、平和のために宗教者として何をなすべきか、何をなしうるかを模索しつつ実行してまいりましたが、確かにその歩みは遅く、足跡(そくせき)は失敗のくり返しであったといえるかもしれません。わたくしは、一つのことをしようとして失敗した、あなたもまた同じように失敗した、しかし二人が力を合わせれば、できることがたくさんあるに違いない、そうした思いのもとに、わたくしは、世界の宗教者を糾合(きゅうごう)して、世界宗教者平和会議の活動を行っておるわけであります。おそらく、今回の、テンプルトウ、(咳払い)トン賞は、神仏がわたくしに、迷わずにその道を行け、(間)、との、(間)、ご啓示をくだされたもので、ものだと存じます。わたくしは、(間)この受賞に深く感謝をするとともに、今後の努力をしてまいる覚悟でございます。 以上を申し上げまして、わたくしの講演を終わりたいと存じます。ご清聴、ありがとうございました。...
テンプルトン賞受賞記念講演
【写真】
心が変われば世界が変わる1
【機関紙誌】
まず身近なところで/人間で言えば“からだ”から
心が変われば世界が変わる1
まず身近なところで/人間で言えば“からだ”から
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(1) 立正佼成会会長 庭野日敬 はじめに まず身近なところで人間で言えばからだから 心の立て直しで世界平和を 皆さんもよくご存じのように、私は、(世界平和)のために懸命に働いている者であります。世界平和のための努力といっても、あるいは政治・外交の面から、あるいは産業・経済の面から、あるいは文化交流の面からという具合に、さまざまな路線がありますが、私は宗教者ですから、「人類の心を立て直すことによって世界に平和を」という路線を取ることは言うまでもありません。そして、そのために不可欠の階梯として、「まず世界の宗教者が心を一つにし、力を協(あわ)せよう」と呼びかけているわけであります。 ところが、一般の方々の目から見れば、こうした行き方は大変迂遠であり、いわゆる(百年河清を待つ)に等しいと考えられがちです。「そんな理想主義的なことを言っていてどうなるものか。現実はそんな甘いものではない」と評する人もあります。 そんな人に対して、私は反問したい。 第一に、「では、他にどんな方法があるのですか。完全な平和世界をつくり上げる道が、ほかにあるのですか」と。 第二に、「あなたは(理想)と(目的)とを混同しているのではないですか。目的は、それに到達した時、初めて価値を生ずるのですが、理想は、それに向かって踏み出す第一歩から、すでに一歩だけの現実的価値を生ずるものではないのですか」と。 ハーバード大学のソローキン教授は、その名著『人間性の再建』の結論として「世界永遠の平和のためには、人間性が立て直されなければならぬ」と断じています。まさにその通りです。世界を平和にするには、人類の心を変えるよりほかに道はないのです。 「人類の心を変える」という言葉を額面通りに聞けば、まるで雲をつかむような全く現実離れのした考えのように思われるでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、決して現実から遊離したものではないのです。その第一歩として、もしあなた自身が心を非利己的に、愛他的に立て直すならば、確実にあなた一人だけは心安らかな平和人間になれるのです。ということはつまり、微小ながらも世界平和のための一粒の種子が現実に芽生えたことになるのです。 そして、そうした新しい心の芽生えが家族へ、職場へ、地域社会へと次第に広がっていけば、その広がりの過程の中で一歩一歩確実に理想が達成されていくのです。 われわれが信奉している仏教は、実はそうした教えなのです。世界の永遠の平和を理想とし、まず個人個人の心から立て直していこうという教えなのです。なかんずく、われわれが所依の経典としている法華経は、(心が変われば世界が変わる)ことが可能である原理と、その具体的方法を説いたものなのです。だからこそ(諸経の王)と言われる大きな理由の一つが、実にここにあるのだ、と私は信じております。 十如是に示されている原理 どこにその原理が示されているかといえば、方便品の諸法実相・十如是の法門です。ところが(如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等)という文字の表面だけ見れば、どこに(心が変われば世界が変わる)という原理が示されているか分かりません。そこで、小釈迦と言われた中国の天台大師がこの法門を敷衍(ふえん)して(一念三千)ということを説かれました。「人間の一念の中に三千世界がある。だから、一念が変われば三千世界が変わるのだ」と説かれたのです。 しかし、われわれ凡夫の身としては、「一念が変われば三千世界が変わる」と聞かされても、あまりに話が大き過ぎてピンときません。身に迫る現実性が感じられません。ですから、私共の会の中でも「一念が三千だから」と、一つの通用語として、よく口にもし、耳にもしますけれども、果たして、みんながみんな、それが抜き差しならぬ真理であることを心の底から確信しているかどうか……ということになりますと、いささか心許ない感じがあるのです。 そんなアヤフヤなことではいけない、と私は思います。この真理は法華経の大きな柱の一つです。これが心の底に確立していなければ、何のために法華経を信じ、法華経を行ずるのか分からないことになります。 そこで私は、この真理を改めて見直してみたいと思い立ったのです。それも、「世界が変わる」と一足飛びに大きなことを考えないで、ごく身近なところから一歩一歩ゆっくりと、地道に考えていきたいと思い立ったのです。 また、こういうことを理論的に説いていったのでは、堅苦しく、読みにくく、飽きもきましょうから、できるかぎりやさしく、分かりやすく、なるべくたくさんの実例を挙げて、現実の問題として考えていこうと思うのです。 以上が、これから私が述べていこうとすることの根本理念であり、根本方針であります。 心が変わればからだも… さて、われわれにとって一番身近なところといいますと、われわれ自身のからだです。肉体です。ですから、(心が変われば世界が変わる)という真理を考えるには、何よりもまず(心が変わればからだが変わる)ということから見ていくのが筋道だと思います。 次回から、このことについて、徹底的に、くわしく考えていくことにしましょう。(つづく) 仏の顔(アフガニスタン) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる2
【機関紙誌】
心とからだの不思議な関係
心が変われば世界が変わる2
心とからだの不思議な関係
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(2) 立正佼成会会長 庭野日敬 心とからだの不思議な関係 体験的に知っていた(心身不二) 仏教では(心身不二)ということを教えていますが、皆さんも、確かにそうだと、感じる体験があるはずです。例えば、ひどく腹を立てると、頭がガンガンしてきたり、手足がブルブル震えたりしてきます。心配ごとがあると、顔色が青くなり、食欲もなくなります。急に恐ろしい目に遭えば、心臓は一時止まったかのように感じ、口の中が乾いてカラカラになります。大事な勝負に臨む前は、出もしない小便をやたらにしたくなります。 こういうことは大昔から人間は体験的に知っていたのですが、どうしてそうなるのかということまではわかりませんでした。ところが、現代になって、いろいろな学者が実験によって、その理由をつきとめ、実証するようになりました。 アメリカのキャノンという学者は、ネコを使って、怒ったり、恐怖したりする時の反応を研究しました。ネコにイヌをケシかけると、全身の毛を逆立て、爪を出し、歯をむき出してうなります。その時、ネコの体に起こる変化を調べてみますと、脈が大変速くなり、血圧が上がり、赤血球の数が増え、血液の中の糖分が増し、胃腸の運動が停止することがわかりました。そして、これらは副腎(ふくじん)というところから出るアドレナリンのせいだとしたのでした。 この研究から出発して、カナダのセリエという学者は、ストレス学説というものを唱えました。ストレスというのは(緊迫)とか(侵害刺激)と訳され、人間の健康に害を与える外的・内的な刺激を言うのです。外的な刺激と言いますと、猛烈な寒さや暑さ、外傷、かび、菌の感染などです。内的な刺激と言いますと、不安とか、苦悩とか、恐怖とか、憤怒といった精神的な刺激です。このような不快な精神的刺激も、よくない外的な刺激と同様に、身体に害を与えるというのです。その理由として、不快な刺激によって出るコーチゾンというホルモンが、全身に大きな影響を与えることを発見したのでした。 セリエは、このようにして起こる病気をストレス病と呼び、実力以上の地位についた人が起こす狭心症や不整脈、心労の多い管理職がよくかかる胃潰瘍、その他高血圧、リューマチ、糖尿病、腎硬化病などを、その病例として挙げています。 昔から「病は気から」と言われてきましたが、現代の医学でも精神と身体とは切り離すことのできないことを実証し、(精神身体医学)という独立した分野もできたのであります。私はつい昨年、わが国の精神身体医学の最高権威と言われる池見酉次郎博士と対談させて頂きましたが、いろいろとお話をうかがって、(心が変われば身体が変わる)という実証が、実に広範囲に及んでいることに、今さらのように驚きました。 池見博士によりますと、小児ゼンソクは親の過保護が大きく関係しているということでした。この病気は三歳児に一番多いのだそうですが、この年齢の子供はこれから独立した人格を形成しようという大切な時期にさしかかっているのです。ところが、近ごろの親たちは、子供を自分のものとして独占したいという気持から、あまりにぴったりくっついて離れない。だから子供の個性は健やかに伸びていかないということになる。そうした親と子のゆがんだ関係がゼンソクに結びつく……というのです。 解明される心と身体の因果関係 つまり、三歳ぐらいの子供ですから、まだハッキリとは意識しませんけれども、本能的に自分の個性がスクスク伸びるのを妨げるものに対して反抗する、そうした無意識の働きがゼンソクを引き起こすわけです。そこで、最近、親と子を切り離すという療法が欧米で始められ、日本でもやり始めたということですが、難治性のゼンソクの子供を施設に移すと、その日から発作がおさまってしまう子が、八〇パーセントぐらいいるというのです。この数字には全くびっくりしてしまいました。 このような、無意識の働きが身体に及ぼす影響は、実に計り知れないものがあって、まだまだ、未解決の世界がたくさんあるそうですけれども、われわれ素人が聞いても、なるほどと思われるような原因・結果の法則がずいぶん明らかにされているようです。 例えば、怒ったり、恐怖を感じたりすると、内臓の平滑筋や、骨格や筋肉のあるものが緊張します。その怒りや恐怖がすっかり解消してしまえばいいのですが、割り切れぬままに残りますと、その肉体的緊張も少しばかり残るというのです。少しばかり残っているぐらいでは何ということもないのですけれども、そういうことがしょっちゅう繰り返されますと、次第にそれが累積して、その部分に痛みを覚えるようになるのです。筋肉リューマチの原因の大部分がこれだといわれています。 ストレスの累積が病気の原因に このように、不快な精神的ストレスがしょっちゅう繰り返され、心の奥底にある無意識の世界に累積することが、さまざまな病気の原因となるのです。治らぬ病気に苦しんで佼成会に入会する方にはこのようなケースがたくさんあります。嫁・姑の間の葛藤(かっとう)、夫婦や親子の間の隠微な心の争いなどは、毎日のように繰り返され、表面の心で我慢しているうちにドンドン心の奥底に蓄(た)まるから、害が大きいのです。 ですから、入会して法座などで身の上を洗いざらい話してしまえば、その場で永年の病気がケロリと治ってしまうのは何の不思議もないわけです。小児ゼンソクの子が、親と切り離されたその日に八〇パーセントも発作がおさまるというのと、同じ理屈だと思います。次回は、このことについて、もう少し掘り下げて考えることにしましょう。 (つづく) 仏立像(ガンダーラ出土) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる3
【機関紙誌】
懺悔によって病気が治るのは
心が変われば世界が変わる3
懺悔によって病気が治るのは
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(3) 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔によって病気が治るのは 心の抑圧を解き放つことで 心と身体の関係を掘り下げて考え、分析し、そこから得た理論を応用して病気を治すことをやり始めたのは、ウィーン(オーストリア)の精神病医フロイト博士です。その前に、同じウィーンのある開業医が、ヒステリーの少女に催眠術をかけて、病気の誘因になった事件を思い出させ、それをくわしく語らせたところ病状が消えてしまうことを発見しました。 それにヒントを得て、フロイト博士はその開業医と協力してこの問題を追求していった結果、ヒステリーは心の奥底に残る古傷が原因であることを突き止めたのでした。ヒステリーというのは、体の器官にはなんらの障害はないのに、機能(はたらき)に障害が起こる病気です。耳が聞こえなくなったり、咽喉に何かつかえたようでモノがのみ込めなくなったり、手足がこわばって動かなくなったり、原因不明の頭痛がしたり、突然気を失ったりするのですが、耳や咽喉や手足を調べてみても何の異常もないのが特徴で、女子に多い病気です。 フロイト博士は、その病気の原因は、ある時に受けた屈辱とか、恐怖とか、悲哀とかいうような心の痛みが、本人は忘れてしまったつもりでも、心の奥底の無意識の中に抑圧された形で残っているので、それがうごめき出して身体的症状へと転換するのだ、と考えたのです。従って、その抑圧され、閉じこめられた心の痛みを放出させてしまえば、ヒステリーは治る、ということを発見したのです。 ところが、前記のように催眠術を応用するのには欠陥があることがわかり、フロイト博士は、患者にいろいろな質問をして連想を起こさせたり、「何でもいいから、心に思い浮かべることをドンドン話しなさい」と言って止めどもなくおしゃべりをさせたり、あるいは見た夢を語らせたりして、その患者の言葉の中から心の奥にひそむコンプレックス(抑圧されたために起こった心のシコリ・結ぼれ)を見つけ、その抑圧を解き放つことによって、見事にヒステリーを治していったのでした。現在でもアメリカなどには、このような方法で主としてヒステリーやノイローゼや神経系統の病気を治療する、いわゆる(精神分析医)が開業しているのです。 さて、こう考えてきますと、どうしても宗教における(懺悔)というものをもう一度考え直さねばならなくなります。 殻をかぶった生活から決別 (懺悔なくして宗教なし)という言葉があるくらい、あらゆる宗教において懺悔ということを大切にしますが、どうもそれが中途半端な受け取り方をされているように思われてなりません。すなわち(犯した過ちや心の罪を懺悔することによって心を洗い清める)というその(心)を、単に表面の心(顕在意識)の世界のことのように受け取っているのではないか、と考えられるのです。 もちろん、表面の心を洗い清めることも大切なことです。世俗の世界においては、人間は自分の心身の罪・醜さ・弱点・悩みなどを他人の前にさらけ出すことは、実際上なかなかむずかしいことで、多少とも殻をかぶって暮らしています。殻をかぶっていると、心は自由自在ではありませんから、本当の幸せを感じることができません。また、心に殻をかぶせることが習慣になりますと、常になにがしかの欺瞞をなしていることになりますから、本当の人格が育ちません。それゆえ、素っ裸になれる宗教の世界において指導者や同信者たちに、過去の行いの過ちや、現在の内心の罪などを洗いざらい懺悔することによって、心の自由自在を得、解放感を味わい、本当の人間らしい幸福を享受することができます。と同時に、本当の人格も育っていくのです。 真の姿に心を透徹させる ところが、懺悔には、そうした表面の心の洗い清めだけでなく、もっと重大なはたらきがあるのです。それは『懺悔経』の別名を持つ『仏説観普賢菩薩行法経』をしっかりと読めば必ずわかるはずです。 例えば、「懺悔清浄なること己りなば普賢菩薩復更に現前して行・住・坐・臥に其の側を離れず。乃至夢の中にも常に為に法を説かん」とあります。深層心理学者の分析によりますと、夢というものは(意識が眠っている間に、かくれた世界(無意識)に閉じこめられたさまざまな経験や思いが活発に働き出し、その動きを睡眠中の意識が把握し、記憶したもの)だそうです。ですから、起きている時は考えもしなかった大胆不敵なことや罪深い行いを、夢の中ではするわけです。ところが、ここに述べられた信仰者は、起きている時も普賢菩薩と共にある実感をもっていますし、夢の中でも普賢菩薩を見るというのですから、無意識の世界までも清められていることになります。 また、「一弾指の頃(あいだ)に百万億阿僧祗劫の生死の罪を除却せん」とあります。これは、人間がまだアミーバのような原生動物だったころから積んできた無数の罪が、無意識の中に累積しているのを、一瞬の間に消滅できるというのです。つまり、無意識の世界の大掃除ができるわけです。 先に述べた精神分析医の治療法は、無意識の世界の局部的な掃除をするものですが、もっと広く、もっと深く、底の底まで大掃除するのが宗教の懺悔であります。しかもその極致は「若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え」とありますように、この世の成り立ちの真の姿に心を透徹させることだ、とあります。この(真の姿)とは何か。それは追い追い明らかにしていくことにしましょう。 (つづく) わらう僧の頭部 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる4
【機関紙誌】
心の平和を保つには…
心が変われば世界が変わる4
心の平和を保つには…
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(4) 立正佼成会会長 庭野日敬 心の平和を保つには… 病気を忘れる事が一番の薬 心のもち方が身体の健康にどれぐらい大きく影響するか、これについては、私が信仰活動を始めてからきょうまでの約五十年間に、数え切れないほどの体験例をもっているのですが、そのホンの一部を紹介してみましょう。 ストレプトマイシンとか、パスとかいったような特効薬のなかった戦前では、肺結核が若者の生命を奪う最も恐ろしい病気でした。療法としては「栄養のある物を食べて安静にしていること」、これよりほかにはなかったのです。それで、お金のある人は暖かい海岸地方に転地したり、サナトリウム(療養所)に入ったりして、寝たっきりの、もしくはブラブラした生活を二年も三年も続けたものです。 しかし、いくら身体は安静にしていても、精神はなかなか安まりません。いつも体温計をまくら元に置き、一日何回も熱を計っては、「一度下がった」「二度上がった」と、一喜一憂したものでした。体重もまた病勢を計るバロメーターとされ、しょっちゅう体重計に乗っては、これまた一喜一憂していました。そうした精神の不安定の底には「結核は不治の病」という通念がわだかまっていて、これが患者の心をいつも暗くし絶望的にしていました。たいていの結核患者は、その心に負けて死んでいったのです。 その反証が私の手元にはたくさんあります。戦争中や終戦直後のころは、肺結核の人がずいぶん佼成会に入会してきました。その人たちに、仏の教えを話してあげたり、礼拝・供養といった宗教的な行をキチンとさせたりすると同時に、畑仕事やら本部の廊下ふきなどの軽労働をしてもらいました。大変な食糧難で、栄養物などはほとんど手に入らない時代でしたが、青い顔をして入会してきた人たちが、芋を食べ食べ、畑の草取りをしいしい、ほとんど治ってしまったのです。一番の薬は、そうした毎日の中で、これまで自分の病気は不治だと悲観していた人たちが、いつしかその病気を忘れてしまったことだったのです。今でも元気に働いている生き証人がたくさんいます。 自然界と調和して共存する 結核菌やコレラ菌はドイツのローベルト・コッホ博士によって発見されました。それは人類のための大きな貢献には違いなかったのですけれども、しかし、残念なことには、こういう病原菌が発見されると、とかく人間はそれを絶対視してしまいがちなのです。菌もわれわれ人間と同じく、諸行無常・諸法無我の法則を受ける生きものであり、決して絶対の存在ではないのですから、極端に恐れることはないのです。 現実にわれわれは、口や喉や鼻や腸内には、いつもいろいろな細菌を持っており、また、悪い細菌やビールスを絶えず吸い込んだり飲み込んだりしているのですが、心身共に健康であれば、それらに侵されて発病することがありません。つまり人間は、自然界に存在する無数のバクテリアやビールスとも調和しながら共存しているのであって、この調和が崩れると、病気になるわけです。 普通には、そうした病原菌を頻繁に、あるいは濃密に吸い込んだり飲み込んだりすると発病すると考えられていますが、必ずしもそうとは限りません。もしそうだとしたら、毎日毎日病原菌の中で生活している医師や看護婦など、命がいくつあっても足りないはずです。医師や看護婦がなぜあんなに強いのかと言えば、普通人のように病原菌を極度に恐れないからだ、と私は信じています。そのことについて面白い話があります。 今から百年ほど前、前記のコッホ博士がコレラ菌を発見し、コレラはこの菌で起こることを発表しました。ところが、ペッテンコーフェルという学者は「それが第一義的原因ではない」と猛烈に反対し、コッホ博士との間に激しい論争が繰り返されました。そのあげく、ペッテンコーフェル博士は「私が実験台になって証明してみせる」と言って、何十億というコレラ菌を飲んでみせたのです。それは千人以上の人を感染させるほどの量だったのですし、すでに七十四歳という老齢だったにもかかわらず、わずかに軽い下痢をしただけでピンピンしていたというのです。便を調べてみると、コレラ菌がウヨウヨしていたそうですけれども。 心の平和を保つ11ヵ条 信念とか精神力とかいうものは、これほど強力なものです。もちろん、コッホ博士の説のほうが正しかったわけですが、ペッテンコーフェル博士の実験結果にも学ぶべきところが大いにあると思います。われわれは、ともすれば心のほうから先に負けて病気になってしまいがちです。この点をもう一度しっかり考え直す必要があると思うのです。 現代は、ストレスに満ちた時代です。とりわけ都会で働き、生活している人は、職業上の心労や、人間関係の摩擦などで神経をすり減らし、常にイライラしがちですから、そうしたストレスに負けず「心の平和を保つ」ことが何よりもまず大切な要件です。 それには一体どうしたらいいのか。ちょうど、アメリカ精神医学会の前会長で、世界精神保健連盟総裁のジョン・スチプンスン博士の提唱しておられる次の十一ヵ条が、表現の上ではともかく、根底においては仏教の説くところや、佼成会の行法ともほとんど一致しますので、これを手掛かりとして、私の考えを述べていくことにしましょう。 一、率直に打ち明けること。 二、しばらく逃避すること。 三、怒りは仕事で消すこと。 四、ときには譲ること。 五、他人のために尽くすこと。 六、一時に一事を。 七、超人的な衝動を避けること。 八、批評はのんびりやること。 九、相手にも機会を与えること。 十、自分を(役立てる)こと。 十一、レクリエーションを予定すること。 次回からこれらについて逐条的に考えていくことにしましょう。 (つづく) 目犍連像(興福寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる5
【機関紙誌】
心の掃除と休息を
心が変われば世界が変わる5
心の掃除と休息を
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(5) 立正佼成会会長 庭野日敬 心の掃除と休息を 心の平和を得る秘訣 さてそれでは、スチブンスン博士の説く「ストレスを緩和し、心の平和を得る秘訣」を、仏法に照らし合わせながら考えていくことにしましょう。 率直に打ち明けること。 気になることや心配事を、ただクヨクヨと胸の中でくすぶらせているばかりでは、いつまでも解決はしません。 理性がどこかへ追いやられ、感情ばかりが無秩序に空回りしているために、問題をどう解決していいかという方途など思いつく余裕がないからです。 そこで、そうした余裕を見つけ出すか、積極的につくり出すかして、心に理性を取り戻す工夫が肝心となってくるわけです。その一方法として、心配事を筋道を立てて紙に書いてみることを勧める人もあります。たしかにそれは名案です。頭の中だけであれこれと考えている時は、ものごとが過大に感じられたり、ゆがんで見えたり、錯綜(そう)していてどうにもならないように思われるものです。 ところが、それを文書にしたり、数表にしたり、図式にしたりして書きあらわしてみますと、かなり実相が見えてきます。全体がおよそつかめます。ものごとを組み立てている諸要素の相互関係がハッキリしてきます。そこから、解決の糸口を発見することがよくあるものです。 心の悩みは信頼できる人に ところが、事業の上などの心配事ならそれも良策ですけれども、純然たる心の悩みとなると、その方法も手に負えません。たとえば、自分の欠点が気になって仕方がないとか、仲よくしていた人が急によそよそしく感じられるようになったとか、上司や同僚が信用できなくなったとか、自分が無能・無力であるような劣等感にさいなまれる……といったような悩みになりますと、自分の力ではなかなか解決できません。 そんな場合は、信頼できる人――友人でもいい、父母でもいい、先生でもいい、とにかく親身になって聞いてくれる人――に胸の中を洗いざらいぶちまけて相談するのが最上の方策です。そうすれば、話をしただけで、その瞬間から胸がスーッとしてきます。心にいっぱい溜まっていたゴミを、とにもかくにも掃き出してしまったわけですから、そこにスガスガしい空間ができるわけです。すると、その空間(これを(余裕)という)に、これまでどこかへ追いやられていた理性が戻ってきて、ものごとを客観的に眺める冷静さも生じるのです。ですから、人に打ち明けたとたんに、「オヤ、大したことはなかったのに……」と気づくことも往々にしてあるのです。 ましてや、打ち明けた相手から適切な助言を与えられると、それを糸口として問題を解決することもできます。少なくとも、「解決しよう」という意欲がわいてくるものです。「暁の来ない夜はない」という言葉のとおり、解決できない人生問題はないのですから、意欲をもって立ち向かえば、必ず道は開けるのです。 ところで、立正佼成会の法座は、万人のための「率直に打ち明ける場」であります。打ち明ける相手のない人は、どうぞ遠慮なくおいでになって頂きたいものです。また、会員のみなさんも、自分たちのこのような尊い立場と役割を、常に深く自覚していて欲しいものです。 利害や欲望を離れた世界へ しばらく避難すること。 逃避すると言えば、何か卑怯なことのように考えられるかもしれませんが、身辺に殺到するストレスから一時的に逃れるのは、心の調和をはかる自然の智慧であって、けっして恥ずべきことではありません。 第二次世界大戦当時、アメリカの大統領だったハリー・トルーマンは、次々に押し寄せる難問題と激務の中で、素晴しく冷静で、しかもつねに健康を保っていました。ある人がその秘訣を尋ねたところ、「わたしは心の中にフォックス・ホールをもっていて、時々その中に入るからです」と答えたそうです。フォックス・ホール(狐穴)というのは、日本軍隊ではタコツボと呼んでいましたが、兵士が一人入れるくらいの簡単な塹壕で、激しい砲火を浴びせられた時、そこに身を潜め、危険を避けると同時に、ひとときの休息を取るためのものです。トルーマン大統領は、自分の心の中にこのフォックス・ホールをもっていて、ときどきその中に入って気にかかることをきれいサッパリ忘れることにしているのだ……というわけでした。 ストレスからの一時的逃避には、いろいろな方法があります。音楽を聞く、スポーツをやる、散歩をする、それぞれいいことです。静かに座って瞑想する……となりますと、たんなる逃避以上のはたらきをもつ尊いことです。トルーマン大統領のフォックス・ホールは、おそらくこの瞑想だったのではないかと思われます。 信仰はもちろん、ほんとうの意味はもっと奥深いものではありますが、心を静め、神経の緊迫を柔らげる効果も非常に大きなものがあります。 朝夕ご宝前に正座して礼拝し、読経し、題目を唱える。道場に来て、法の話を聞き、同信の仲間と研さんし合う。すべて、利害と欲望の渦巻く俗世界から離れて静かな魂の憩いの世界に入ることであり、精神衛生上こんないいことはないのです。 よく世間には「宗教は生活からの逃避である。弱い者のやることである」と勇ましい論を吐く人もありますが、そんな人でも、思索に行きづまったらタバコを吸いましょうし、夜は一杯飲みにも出かけるでしょう。それが逃避でなくて何でありましょうか。 もし実生活から絶対に逃避しない人があったとしたら、必ず気狂いになるか、病気を起こして早死にするでしょう。百歩を譲って、かりに宗教が逃避だったとしても、酒や、女や、ギャンブルなどに逃避するよりは、はるかにすぐれた、有意義な逃避ではないでしょぅか。 ハーバード大学哲学教授だったウイリアム・ジェームスはこう言っています。 「言うまでもなく、煩悶(はんもん)に対する第一の治療は宗教的信仰である」と。 (つづく) 供養の子供(アフガニスタン) 絵 増谷直樹...
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