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開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
【音声】
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
1
...法話コード=開祖-1978-06-12-A 先生名=庭野日敬開祖会長 行事名=国連軍縮特別総会で宗教者として提言 日 時=1978(昭和53)年6月12日 録音分=14分 場 所=国連 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
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...○庭野開祖会長 (咳払い)この特別総会が、世界宗教者平和会議の一員であるわたくしに、提言の機会を与えてくださいましたことに対し、まずお礼を申し上げたいと存じます。 わたくしは仏教徒でございますので、仏陀の言葉を引用(「えんよう」と発音)させていただきますが、仏陀はこの世界を称して、「三界は安きことなし 猶火宅の如し」と申されております。人間のあくなき貪欲(とんよく)と、それから生ずる奪い合いや争いのために、人類は自ら苦しんでいるという世界の状態を、仏陀は火宅をもって譬えられているわけであります。 事実、わたくしどもはすでに、広島、長崎において文字どおり、その火宅の苦しみを経験してるにもかかわらず、依然としてこれを反省せずにおることを、仏陀は嘆かわしく思っておるのであります。 われわれ宗教者の過去の歴史は、偏見と憎しみの歴史でありました。しかしわたくしは、宗教の目指すところは一つであるという信念をもっております。ところが、ローマの法皇パウロ六世猊下が、1965年の第2バチカン公会議において、過去2,000年の歴史をくつがえして(「くづかいして」と発音)異教徒のわたくしをお招きくださり、「キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がまたキリスト教徒のために祈る。宗教者がそのようにならなければ、人類に貢献する道はない」という、そのときのお言葉をわたくしは忘れることができません。 こうして、10年間にわたる宗教協力活動を積み上げた結果、世界宗教者平和会議は誕生し、その国際本部を国連の前に設置致しておるわけであります。そして現在、世界宗教者平和会議は60カ国以上の主たる宗教の代表によって組織され、戦争の放棄、さらに一歩すすめて、戦争を起こしかねない条件の排除を大きな目的として、努力を致しておるのであります。 京都で開催されました第1回世界宗教者平和会議では、「軍備に基づいて築かれた社会は、正義に基づいた社会を否定するものである。よって、軍縮の達成なくして真(しん)の平和もまたあり得ない」と、宣言を致したのであります。 わたくしども、仏教徒、神道(「しんどう」と発音)、キリスト教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒など、などをはじめとする世界の宗教者は、おのおのみずからの宗教的伝統を大切にするとともに、世界平和実現のために、宗教者に共通の真理、倫理的洞察に基づいて、世界の政治家が行動されんことを心から願う(「ねごう」と発音)ものであります。 かかる観点から、世界宗教者平和会議は国連の諮問機関として加盟し、わたくしどもの事務総長ホーマー・ジャック氏は、国連本部に、いー、(咳払い)本部の軍縮、NGO委員会の発足(「はっそく」と発音)以来、その議長を務めているわけであります。...
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
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... さて、わたくしどもは、日本およびベルギーで開催されました、過去2回にわたる世界宗教者平和会議の精神に基づいて、行われた軍縮への根本的アプローチについて提言したのであります。 1、宗教者としてわたくしどもは、軍備(咳払い)競争の終結のために活動している世界の外交官に対し、いまや、計画的、偶発的、もしくはテロ行為による核戦争の危険性がきわめて増大しつつあることを訴えたい。わたくしどもの会議の言葉を引用するならば、「人類が核による絶滅におびやかされている現在、人類は軍備競争によって滅亡する前に、人類が軍備競争を終わらせなければならない。最も基本的な人権とは、人類がその生活を持続することにほかならない」 2、宗教者としてわたくしどもは、軍縮問題がいかに複雑な技術的問題であっても、究極的には心の問題と倫理的決断を待つほかはない。生命(せいめい)の尊さを無視するような政府の決定は、いかに巧みな表現を使う(「つこおう」と発音)とも、わたくしどもをあざむくことはできない。 3、宗教者としてわたくしどもは、世界の為政者、特に偉大なるカーター大統領閣下、ブレジネフ書記長閣下に(「む」と発音)対し、危険を冒してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである、ということを申し上げたい。わたくしどもは軍縮に向かって、あらゆる国で運動が展開されんことを切望する。 4(し)、宗教者としてわたくしどもは、平和の、平和を希求する人々の団結を願う(「ねごう」と発音)ものである。平和を願う(「ねごう」と発音)わたくしどもの祈りは静寂であり、その声はささやかであり、影響力は小さいかもしれませんが、すべての人々が世界平和を渇望し、第三世界は軍備競争の終えんがもたらす経済的成果を待望しております。 5、わたくしどもは、世界の安全が力による恐怖の均衡ではなく、新しい価値観に基づく(「もとざく」と発音)ものでなければならぬことを提案する。世界に1万5,000以上の戦略核兵器が存在する現在、いかなる国も、人間も決して安全ではあり得ない。 6、従って、もし人類が今世紀、生き残るとするならば、全面的完全軍縮の実行以外にはあり得ない。目下、進められている軍縮に関する各種の計画は、まだ、軍縮というよりも抑制の域を出ないものであるが、やがては全面的完全軍縮への橋渡しとなるでありましょう。そして武器によるどう喝をもって政治を行う(「おこのう」と発音)ことの愚かさを反省していただきたい。 7(なな)、NGOの宗教者として、この特別総会に向けて努力された非同盟諸国に対し、称賛の意を表するとともに、このNGOと国連における軍縮問題との関係が制度化されんことを心から願う(「ねごう」と発音)ものである。...
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
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...さらにわたくしどもは、国連が核軍縮の問題を最優先されんことを強く主張する。また、わたくしどもは、核拡散防止条約第6項の履行が、倫理的、道徳的、宗教的にも一致しているという理由から、これを優先されんことを提案する。 すでにご承知のごとく、目下、日本代表団によって広島、長崎の被爆写真がこの国連内に展示されておりますが、その悲惨(「ひざん」と発音)さは目を覆うものがございます。日本から持参されたそれらの写真の何枚かは、あまりにも、ひ、悲惨(「ひざん」と発音)さのゆえに、展示を遠慮してほしいという要求があったと聞いております。しかし、その地獄の苦しみの様相から、どうか目を背けないでいただきたい。 この特別総会の宣言草案にもあるごとく、わたくしどもは武装を解除しなければならない、さもなくば滅亡あるのみである、という言葉をいま一度、思い起こしていただきたい。 わたくしどもは国連がさらに強化され、この混乱した世界に法の秩序(「つつじょ」と発音)をもった、もたらす能力をもっていることを確信しておる。そしてわたくしどもは、それぞれの宗教と教団の信者をあげて、この歴史的な国連特別総会が、有意義に成果を収められるように祈って(「いぬって」と発音)おります。そして、国連加盟諸国が現状の流れを変え(「かい」と発音)、平和と真(しん)の進歩のために立ち上がることをもあわせて、祈願致す次第であります。 最後にわたくしは、核の廃絶は夢物語であるという人々に対し、故人の深い洞察の言葉を贈りたい。すなわち、「あらゆる、ひ、人が心の底から願う(「ねごう」と発音)ことは、決して実現不可能なことではない」という言葉と、日蓮聖人の「法華経行者の祈りのかなわぬことあるべからず」という言葉、さらに仏陀の、いま、この、さんが、(咳払い)此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は悉く吾が子なり 而も此の処は諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為すと、「一天四海 皆帰妙法」、万法はみな一つから出ておるのである、「天壌無窮 異体同心」、天地とともに窮(きわ)まりなく、すべての人の心は同じくしなければならない。全人類が心を一つになって世界平和を祈れば、天の救いの主(ぬし)である、主(ぬし)は必ずわれわれを守護したもうことを教えているのであります。全人類が一つの心になるためには、世界政府の樹立が必要であり、世界政府が樹立すれば核兵器など無用の長物となる。そこでわたくしは、全世界の為政者に対し心の改心を願い、人類の未来を信じつつ、神仏のご加護を祈り、わたくしの提言を終わります。ご清聴、ありがとうございました。...
法華三部経の要点8
【機関紙誌】
無量義とは一法より生ず
法華三部経の要点8
無量義とは一法より生ず
1
...法華三部経の要点 ◇◇8 立正佼成会会長 庭野日敬 無量義とは一法より生ず 性欲無量だから説法無量 これまで「この世のすべてのものごとの変化のありさまをよく観察しなさい」と教えられてきましたが、ここで一転して、それを人々の説法のしかたに絞り「是(かく)の如(ごと)く観じ已(おわ)って、衆生の諸の根性欲に入る」とおおせられました。いよいよこの無量義経(もちろん後につづく妙法蓮華経も)の眼目である「人を救う」という本題に入るわけです。 根というのは「機根」のことで、その人が持っている根本的な能力のこと。性というのは性質。欲というのは欲望。この三つは人それぞれによって持ち前が違います。人を救うには、まずその持ち前を見究めよというわけです。そして、こうお説きになります。 「性欲(しょうよく)無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦(また)無量なり」 性質と欲望は人によって千差万別です。金銭を極度に欲する人、愛欲に溺(おぼ)れる人、名誉欲にかられている人、権勢には目のない人等々、数えあげればきりがありません。 いや、そのようにある欲求を極端に求める人もありますが、世の多くの人はそれらの欲求をおおむねいくらかずつ持ち合わせており、その持ち合わせ方の分量が人によって違うわけです。よくコーヒーなどでいろんな種類の品種を混ぜ合わせるのをブレンドするといいますが、人間の性質や欲望もそれと同じで、ごく普通の人でもさまざまな性質や欲望を自分なりにブレンドして持ち合わせているのです。 そのブレンドのありようがじつに千差万別なのです。ですから、人に仏法を説いて救いに導くには、その人の性質や欲望のブレンドのありようをしっかりと見究めて、それに応じた教えを説かなければならない……というのが「性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦無量なり」の意味なのです。 どうかすると、どんな人に対しても型にはまった同じような説き方をする人がありますが、それでは現実に人を救えるものではありません。われわれの教団では「会員即布教者」を旗印としていますから、この「性欲無量なるが故に、説法無量なり」という一句こそは、全会員が常に頭に刻み込んでおかねばならぬ金言なのであります。 久遠本仏の大いなる慈悲 この一句は人を導く現実的な手段を述べられたものですが、しかし、その手段の枝葉末節ばかりにとらわれていますと、つい小手先の導きに終わり、大事な根本を忘れてしまう恐れがあります。そこで、続いて、 「無量義とは一法より生ず。其(そ)の一法とは即ち無相なり、是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを、名(なづ)けて実相とす」 とお説きになるのです。 それぞれの人の性質・欲望に応じてそれにふさわしい内容の法を説かなければならないのだけれども、その千差万別の説法の内容(無量義)も必ず宇宙の真理である一つの法にもとづくものでなければならない……というのです。 そのあとにつづく「其の一法とは即ち無相なり」に始まる実相ということはたいへん難しい教えですが、宗教的にわかりやすく言いますと、「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」ということになりましょう。 一人びとりは、現象面ではさまざまな姿・形・性質・欲望を持っているのだけれども、もとをただせば、久遠本仏の実の子という尊い存在だということです。別の言葉で言えば、みんな仏性をもっているのだということです。そのことをしっかりと胸の底におさめていてこそ、ほんとうの教化、ほんとうの救いができるというのです。 ...
法華三部経の要点9
【機関紙誌】
真実の慈悲とは何か
法華三部経の要点9
真実の慈悲とは何か
1
...法華三部経の要点 ◇◇9 立正佼成会会長 庭野日敬 真実の慈悲とは何か 仏の掌の外へは出られない 前回までに解説した無量義の説法の結論として、お釈迦さまは次のようにおおせられています。 「菩薩の皆さん。このような真実の相(すがた)を悟り、その悟りがすっかり身についてしまったときに起こる慈悲心というものは、はっきりした根拠の上に立った慈悲心でありますから、その働きは、必ず立派な結果となって現れるものです。すなわち、それぞれの境遇そのままで、多くの人々の苦しみを抜き去ってあげることができましょう。苦しみを抜き去ったら、そこで再び法を説いて、多くの人々に生きる喜びを与えることができましょう」と。 このお言葉の最初にある「このような真実の相」というのは、前回に述べたように「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」という真実を指すのです。 この真実を悟ることこそが最高の悟りなのです。考えてもごらんなさい。ひと握りの土、一匹の虫、一本の草、ひと片(ひら)の雲、一人の人間、どれとして久遠本仏の大いなる慈悲に生かされていないものがありますか。そのような存在を想像できますか。できないでしょう。そのとおりなのです。 人間の知恵がいくら進んだからといって、この本仏の大いなる慈悲の埒外(らちがい)に出ることはできないのです。孫悟空がお釈迦さまの掌(てのひら)から飛び立って三千里も飛んで行き、違った世界へ出たと思って着地してみたところ、やはりお釈迦さまの掌の上だった……という説話は、この真実を如実に物語っているのです。 共に生かされている一体感 では、そのような悟りに達したとき、われわれの心にどんな変化が起こるのでしょうか。一言にしていえば、「この世のすべてのものは自分と同じように仏に生かされているのだ」という思いが、切々として胸にわいてくるのです。あの人も、この人も、自分と同じように本仏に生かされている兄弟姉妹だ……という思いです。あの虫も、この草も、自分と同じように仏性をもっている同胞だ……という思いです。切実な一体感です。 そのような一体感が心の底に定着すればどうなるか。例えば苦しんでいる人を見れば、我を忘れて「ああ、なんとかしてあげたい」という思いがおのずからわいてくるのです。それがほんとうの慈悲心というものなのです。本仏の大慈悲に直結する真実の慈悲なのです。原文に「是(かく)の如(ごと)き真実の相に安住し已(おわ)って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於(おい)て、真に能(よ)く苦を抜く」とあるのは、そこのところを言っているのです。 ロシアの文豪ツルゲーネフが、朝早く散歩に出ると、一人の男が近づいてきて、「どうぞお恵みを」と手を差し出しました。ブラリと出た散歩だったので、あいにくお金を持っていなかったツルゲーネフは「許してくれ。わたしは今お金を持っていない。今わたしにできるのはこれだけだ」と言って、その男の手をしっかりと握ったのです。そして「からだに気をつけなさい。そして、早く何か仕事をみつけて働くことですよ」と励ましました。その男は感激して、「だんなの握手が何よりのお恵みです。これからしっかり働きます」とはっきり誓って立ち去ったということです。 これこそが真の慈悲というものです。思わず手を握って励まさずにはおられなかった……そこに大きな一体感があったのです。だからこそ、そのたった一つの行動が相手にほんとうの幸せをもたらしたのです。 ...
法華三部経の要点10
【機関紙誌】
四十余年には未だ真実を顕さず
法華三部経の要点10
四十余年には未だ真実を顕さず
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...法華三部経の要点 ◇◇10 立正佼成会会長 庭野日敬 四十余年には未だ真実を顕さず 究極の真理は妙法蓮華経に 無量義経・説法品の中にどうしても見落としてはならぬ要点があります。それは…… 「諸の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず」 とある、この一節の末尾の一句です。「人々の性質や欲望が千差万別であるから、これまでは方便(その人の機根に応じた適切な手段)によってさまざまな説き方をしてきた。それで、この四十年余りの間には、究極の真理をすっかり説き明かすことがなかったのである」とのおおせです。 古来、この「四十余年には云々」の一句が、無量義経が妙法蓮華経の開経であることを決定するポイントの一つとされてきました。と同時に、妙法蓮華経が法の真実の奥の奥(究極の真理)を顕されたお経であることの文証となる重大な一句なのです。 「真実」と「事実」との違い それならば、これまでお釈迦さまは真実でないことをお説きになったのかといえば、決してそうではありません。 たいていの人が「真実」と「事実」を混同しているようですから、この機会にその違いをハッキリさせておきましょう。 「事実」というのは、現象のうえに現れた客観的なものごとを言います。前回にツルゲーネフがもの乞(ご)いをする男の手を握った話を書きましたが、その「手を握った」ということが「事実」なのです。 それに対して、「真実」というのは、仏法で言えば「究極の真理」のことであり、人間に即して言えば、その人の心の本質である「誠(まこと)」です。「真心(まごころ)」です。 こういった「真実」は目に見えないものですので、心ない人はそれを悟ることができません。たとえば、ツルゲーネフがもの乞いの男と握手したその場を通りかかったある人が「あの汚い手を握るなんて……」と思ったかもしれません。ひとの心の中の「誠」が見えないからです。 もう一つ例を挙げましょう。お釈迦さまがこんな話をなさったことがあります。 ――ヒマラヤの山中に寒苦鳥(かんくちょう)という鳥がいる。夜はひどく寒いので、雌の鳥は一晩じゅう「寒苦必死(かんくひっし=寒くて死にそうだ)」と鳴き続ける。雄の鳥はそれに応じて「夜明造巣(やみょうぞうか=夜が明けたら巣を造ろう)」と鳴き続ける。しかし、夜が明け日が差して暖かになると、ついノンビリして巣を造ることを忘れてしまう。そうしてまた夜を迎えると「寒苦必死」「夜明造巣」と鳴き続けるのだ――。 これはお釈迦さま得意の譬え話で「事実」ではありません。しかしわれわれはこの話を聞くと、われわれ凡夫の人生に対する態度をつくづくと反省させられます。そうさせるものが、フィクション(物語)の中にある「真実」なのです。 お釈迦さまは、これまでの四十余年間、このような巧みな方便を用いて現実に人々を救ってこられました。舎利弗のような高弟たちも、まだ法の真実のすべてを受け入れるだけの機根が熟していなかったので、お釈迦さまは――説いてもムダであろう、かえって迷いを深めるかもしれない――とお考えになって、さし控えておいでになったのです。 ところが、妙法蓮華経の方便品で、「法を聞いて実践すれば、だれもが私と同じになれる。すべての人を成仏させるために、方便力でもって法を説いてきたのだ」と述べられ、仏の本願をお説きになったので、まず舎利弗が悟りを開き大歓喜したのです。そして寿量品に至ってさらに深遠な真実を悟ることになるのです。 「四十余年には未だ真実を顕さず」にはこのような重大な意味があるわけです。 ...
法華三部経の要点11
【機関紙誌】
義異なるが故に解異なり
法華三部経の要点11
義異なるが故に解異なり
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...法華三部経の要点 ◇◇11 立正佼成会会長 庭野日敬 義異なるが故に解異なり 「空」は積極的に解するもの 無量義経の説法品には、妙法蓮華経以前のお釈迦さまの説法についていろいろと解説されています。「初説・中説・後説、文辞は是(こ)れ一なれども而(しか)も義別異なり。義異なるが故に衆生の解(げ)異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦(また)異なり」という一節もその重要な一つです。 すなわち――これまで「空」とか「十二因縁」とか「六波羅蜜」などを繰り返し説いてきたが、説く言葉(文辞)は同じでも、初めて説いたときと、中ごろと、今ここに説くのとでは意味・内容に開きがあるのだ。そのために人々の受け取り方に違いが生じ、したがって、得た悟りにもおのずから違いがあるのだ――とのおおせなのです。 このことは、われわれがお導きをするに際しても重要なことですから、よく心得ておきたいものです。例えば、「空」の教えには、「この世の現象はすべて仮の現れであって、実体はないのだ」という意味(義)があります。これをうっかり否定的なムードで聞いてしまうと、仙人のような生活や悟りを追求する人にだけ通用するような「義」となってしまうこともありましょう。 したがって、普通の生活をしている人がこの「義」にとらわれると、ひどい虚無感に陥ってとんでもないことにもなりかねません。 しかし、この「空」の義を、「空であるすべての現象はある原因(因)にある条件(縁)が合致してあらわれたものである」と肯定的に正しく受け取りますと、「どのようなことに対しても、自分がよい縁となれば、ものごとをよい方向へ変えることができるのだ」という積極的な気持ちが生じ、勇気りんりんたるものを覚えるでしょう。あとで説かれる妙法蓮華経は、こうした積極的な受け取り方を教えているのです。 不殺生戒の現代的な「解」 また、例えば五戒の第一である不殺生戒にしても、その「義」には広狭の大きな開きがあります。いちばん狭い「義」は、あらゆる生きものを殺してはならぬということです。提婆達多はこの義にこだわり、戒律の改革案をお釈迦さまにつきつけ「比丘は魚や肉を食べてはならぬ」という規則をつくられるよう迫りました。 ところが、大自然の姿を透徹した眼で眺めてみますと、いわゆる食物連鎖という冷厳な事実があります。タカが小鳥を食べ、小鳥は昆虫を食べ、昆虫は植物の葉を食べますが、その代わりそれらの動物たちは自らの死骸によって土壌を肥やし植物を育てるという恩返しをします。そのような連鎖関係によってすべての生態系がバランスを保っているのです。 お釈迦さまはこのような大自然の姿を徹見しておられたのでしょう。比丘たちにも、自分で魚や肉を捕って食べることは禁じられましたが、托鉢などで出されたときなどはありがたく受け取り、食べてよいと定められていました。もちろん、提婆改革案など一蹴(いっしゅう)されたのです。 さて、二十世紀末のわれわれはこの不殺生戒をどのような義に解せばいいのでしょうか。「戦争をしてはならぬ」というのが第一義であることは言うまでもありません。もう一つ大切なのは「物の殺生をつつしめ」ということだろうと思います。地球の限りある資源を人間はあまりにもほしいままに浪費しつつあります。便利で安逸な生活をしたいという欲望を限りなく肥大させ、そのために「物のいのち」をムダに殺生しつつあるのです。少欲知足の生活における物の消費は、前に申した大きな連鎖の一環になるのですが、ムダな消費は全体のバランスを崩し、自然を汚染・破壊する自殺行為となります。 このように、経典の文辞はその「義」を時代に応じて柔軟に解せねばならないのです。 ...
法華三部経の要点12
【機関紙誌】
教えは実践にこそ生きる
法華三部経の要点12
教えは実践にこそ生きる
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...法華三部経の要点 ◇◇12 立正佼成会会長 庭野日敬 教えは実践にこそ生きる 究極の慈悲心とは それでは無量義経の十功徳品に移りましょう。この品の第一の要点は、大荘厳菩薩が「この教えはいったいどこから出てきたものでございましょうか。そしてどういう目的へ向かって行くものでございましょうか。また、この教えの住みつく所はどこでございましょうか」とお尋ねしたのに対して、お釈迦さまは、 「善男子、是(こ)の経は、本(もと)諸仏の室宅の中より来り、去つて一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す」 とお答えになっているところです。 これは、無量義経の「本質」と「目的」と「目的の完成」とを短い文句の中に言い尽くされた重大なポイントであります。 「本諸仏の室宅の中より来り」というのは、この教えは諸仏のお住まいになっているお部屋から出たものであるというのですから、つまり諸仏の大慈悲心からほとばしり出たものであるということです。 慈悲心にも広狭深浅いろいろあります。例えば、飢えに苦しんでいる開発途上国の人々に食糧を送ってあげるのも慈悲心です。その人たちに農業技術を教え、食糧自給の道を開いてあげるのはより深い慈悲心です。さらに、海外協力隊員が実践しているように、現地の人々と生活を共にしながら「自立の精神」を育てていこうとするのはもっと広大な慈悲心といえましょう。 身近な例をあげれば、子供が転んだとき「かわいそうに……」と助け起こすのは小さな慈悲心であり、「坊やは強いからひとりで立てるよ」と励まして手を貸さないのは大きい慈悲心ともいえましょう。 では仏さまの大慈悲心とはどんなものかといいますと、「この世のあらゆる存在をあるがままに生かしてやりたい」というみ心であり、これが究極の慈悲心なのです。これを現代風に表現しますと、「ありとあらゆる存在に、その本来の存在価値を十分に発揮させたいというのが仏の大慈悲心なのである」ということになります。 「成仏」という言葉がありますが、その最も広い意味は「それぞれの持つ存在価値と使命を百パーセント完遂する」ということです。これは、人間のみに限らず、あらゆる生物・無生物にも通ずる真実であり、「草木国土悉皆成仏」という言葉がそのことを端的に言い表しています。そして、それこそが無量義経の「本質」であるというわけです。 現実に人を救ってこそ 次の「一切衆生の発菩提心に至り」ですが、菩提心というのを『仏教語大辞典』で引いてみますと、「さとりを求めて仏道を行おうとする心」とあります。そういう心を起こすのが発菩提心ですから、すべての人々にそのような心を起こさせるのが無量義経の「目的」だというのです。 次の、この教えはどこに住するかというのは、「この教えは、どこにおれば最も真価を発揮するか」ということです。 その場所は、お寺の中でもありません。書物の中でもありません。頭脳の中でもありません。人を救うという菩薩行の中にこそそれがあるのだ……と説いてあるのです。現実に人を救わなければ、仏法も絵に描いたモチに過ぎないからです。ですから、菩薩行の実践こそが無量義経の「目的完成」の道だというわけです。 この三ヵ条はたんに無量義経のみならず、次に説かれる妙法蓮華経の、いやあらゆる大乗仏教典の「本質」と「目的」と「目的の完成」を述べ尽くしたものと知るべきでありましょう。 ...
法華三部経の要点13
【機関紙誌】
煩悩もよい方向に生かせば
法華三部経の要点13
煩悩もよい方向に生かせば
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...法華三部経の要点 ◇◇13 立正佼成会会長 庭野日敬 煩悩もよい方向に生かせば 宇宙の理法に従っておれば 無量義経の十功徳品に、次のような重要な一句があります。 「煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん」 煩悩というものは人間の生存本能からわき出てくる、いわば本能的な欲望というものであって、生身(なまみ)の人間としては避け難いものであります。お釈迦さまが「煩悩を滅せよ」とお説きになったのは比丘・比丘尼に対してであって、そうした出家修行者は阿羅漢という聖者の域に達するのをまずもっての目的として修行しているのですから、そうした本能的な欲望からも超脱する必要があったわけです。 しかし、在俗の信者たちには「煩悩が起こるがままにしておれば、それはいくらでも増大して身を誤るもとになるから、ほどほどに抑制しなければならぬ」と説かれたのでした。あくまでも「中道」を教えられたのです。「調和」を教えられたのです。「バランス」こそが平安への道であると教えられたのです。 ところが、この無量義経においては、「このお経の説く真実を悟れば、煩悩があっても煩悩がないのと同じような心境に達し、人生のどんな変化(生死)に遭っても動揺することがない」と説かれています。 つまり、宇宙の理法に素直に従って生きておれば、煩悩があってもそれが気にならなくなり、どんな逆境にあっても挫折することなく、いつも前向きの姿勢で暮らしていける……というわけでしょう。 「平等」と「バランス」 では、その「宇宙の理法」とはどんなものでしょうか。いろいろな見方がありましょうけれども、次の二つに要約できると思います。 第一に「この宇宙には千差万別の存在があるが、すべてがそれ自身の存在価値を持っているのだ」ということです。仏教的にいえば、「すべてが久遠の本仏すなわち宇宙の大生命の分身であり、本質的には平等な尊い存在である」ということです。 第二は「それらの千差万別の存在が一つの大きな調和を保ち、バランス(つりあい)をとることによってこの宇宙は成り立っている」ということです。仏法的にいえば「諸法無我」ということです。 この二つの理法をしっかりと胸におさめておれば、現実の生活のうえでさまざまな苦悩や異変につき当たっても、「このマイナスの裏には必ずプラスがあるのだ」というバランスの理を思い出し、そこから新しい世界が開けてくるはずです。 戦後の洋画界に新しい分野を開いたとして名声の高かった林武画伯は、まだ若い画学生のころ石こう像のデッサンをしながら、「自分には石こう像の前半分しか見えない。背後に見えない半面がある」という考えがひらめいたそうです。その考えをつきつめた結果、この世界はすべて明と暗、陰と陽、プラスとマイナスといった相反するもののつりあいによって成り立っていることを悟り、それが後半生の素晴らしい画業となって結実したのだそうです。 また、このあいだ「朝日賞」を受賞した映画評論家の淀川長治さんは、子供のころから体も弱く、勉強もできず、体操は絶対ダメ、何の取りえもない存在だったと自ら告白しています。しかし、好きでたまらなかった映画に打ち込んだ結果、世のすべての人に愛されるあの「サヨナラ、サヨサラ」の淀川さんとなったわけです。 このように、すべての人に、表面の姿はともあれ、その本質においては平等な存在価値があるのです。表面がマイナスであっても、裏面には必ずプラスの世界があるのです。それによってこの世はバランスがとれているのです。 そのことを悟れば、煩悩があってもかえってそれを活用することができ、また、逆境にあってもその裏にあるプラスを見つけ出すことができ、つねに勇気と希望に満ちた人生を送ることができましょう。 ...
法華三部経の要点14
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