メインコンテンツに移動
ユーザーアカウントメニュー
ログイン
Toggle navigation
Main navigation
ホーム
コレクション
お知らせ
規約について
お問い合わせ
利用ガイド
全資源タイプ
機関紙誌
教団史
動画
音声
写真
法話(テキスト)
貴重書
検索
すべて
メタデータ検索
全文検索
リセット
表示件数
18
30
60
90
120
並び順
関連度
作成日 昇順
作成日 降順
タイトルヨミ 昇順
タイトルヨミ 降順
詳細検索
コレクション
- すべて -
『庭野日鑛会長のこころ』~つれづれに想うこと~
『庭野日鑛会長のこころ』~書初めから~
法話選集
年頭法話
庭野日敬法話映像作品集(平和への願い)
心に生きる開祖さま
庭野日敬法話映像作品集(仏教三大行事と釈尊伝)
心が変われば世界が変わる
仏教者のことば
経典のことば
法華三部経の要点
庭野日敬法話映像作品集(教団史)
人間釈尊
お会式
スポーツ
立正佼成会映像作品集
らしんばん
e-story
- すべて -
庭野日敬の世界
資源タイプ
- すべて -
Text
Image
MovingImage
Sound
タイトル名
作成者
公開責任部署
- すべて -
アーカイブズ課
伝道メディアグループ
開祖顕彰資料室
佼成図書館
作成日(西暦 or 和暦)
地理空間情報
ヘルプページ
34 件中の 1 件目~ 18 件目を表示
リスト
サムネイル
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
【音声】
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
1
...法話コード=開祖-1978-06-12-A 先生名=庭野日敬開祖会長 行事名=国連軍縮特別総会で宗教者として提言 日 時=1978(昭和53)年6月12日 録音分=14分 場 所=国連 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
2
...○庭野開祖会長 (咳払い)この特別総会が、世界宗教者平和会議の一員であるわたくしに、提言の機会を与えてくださいましたことに対し、まずお礼を申し上げたいと存じます。 わたくしは仏教徒でございますので、仏陀の言葉を引用(「えんよう」と発音)させていただきますが、仏陀はこの世界を称して、「三界は安きことなし 猶火宅の如し」と申されております。人間のあくなき貪欲(とんよく)と、それから生ずる奪い合いや争いのために、人類は自ら苦しんでいるという世界の状態を、仏陀は火宅をもって譬えられているわけであります。 事実、わたくしどもはすでに、広島、長崎において文字どおり、その火宅の苦しみを経験してるにもかかわらず、依然としてこれを反省せずにおることを、仏陀は嘆かわしく思っておるのであります。 われわれ宗教者の過去の歴史は、偏見と憎しみの歴史でありました。しかしわたくしは、宗教の目指すところは一つであるという信念をもっております。ところが、ローマの法皇パウロ六世猊下が、1965年の第2バチカン公会議において、過去2,000年の歴史をくつがえして(「くづかいして」と発音)異教徒のわたくしをお招きくださり、「キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がまたキリスト教徒のために祈る。宗教者がそのようにならなければ、人類に貢献する道はない」という、そのときのお言葉をわたくしは忘れることができません。 こうして、10年間にわたる宗教協力活動を積み上げた結果、世界宗教者平和会議は誕生し、その国際本部を国連の前に設置致しておるわけであります。そして現在、世界宗教者平和会議は60カ国以上の主たる宗教の代表によって組織され、戦争の放棄、さらに一歩すすめて、戦争を起こしかねない条件の排除を大きな目的として、努力を致しておるのであります。 京都で開催されました第1回世界宗教者平和会議では、「軍備に基づいて築かれた社会は、正義に基づいた社会を否定するものである。よって、軍縮の達成なくして真(しん)の平和もまたあり得ない」と、宣言を致したのであります。 わたくしども、仏教徒、神道(「しんどう」と発音)、キリスト教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒など、などをはじめとする世界の宗教者は、おのおのみずからの宗教的伝統を大切にするとともに、世界平和実現のために、宗教者に共通の真理、倫理的洞察に基づいて、世界の政治家が行動されんことを心から願う(「ねごう」と発音)ものであります。 かかる観点から、世界宗教者平和会議は国連の諮問機関として加盟し、わたくしどもの事務総長ホーマー・ジャック氏は、国連本部に、いー、(咳払い)本部の軍縮、NGO委員会の発足(「はっそく」と発音)以来、その議長を務めているわけであります。...
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
3
... さて、わたくしどもは、日本およびベルギーで開催されました、過去2回にわたる世界宗教者平和会議の精神に基づいて、行われた軍縮への根本的アプローチについて提言したのであります。 1、宗教者としてわたくしどもは、軍備(咳払い)競争の終結のために活動している世界の外交官に対し、いまや、計画的、偶発的、もしくはテロ行為による核戦争の危険性がきわめて増大しつつあることを訴えたい。わたくしどもの会議の言葉を引用するならば、「人類が核による絶滅におびやかされている現在、人類は軍備競争によって滅亡する前に、人類が軍備競争を終わらせなければならない。最も基本的な人権とは、人類がその生活を持続することにほかならない」 2、宗教者としてわたくしどもは、軍縮問題がいかに複雑な技術的問題であっても、究極的には心の問題と倫理的決断を待つほかはない。生命(せいめい)の尊さを無視するような政府の決定は、いかに巧みな表現を使う(「つこおう」と発音)とも、わたくしどもをあざむくことはできない。 3、宗教者としてわたくしどもは、世界の為政者、特に偉大なるカーター大統領閣下、ブレジネフ書記長閣下に(「む」と発音)対し、危険を冒してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである、ということを申し上げたい。わたくしどもは軍縮に向かって、あらゆる国で運動が展開されんことを切望する。 4(し)、宗教者としてわたくしどもは、平和の、平和を希求する人々の団結を願う(「ねごう」と発音)ものである。平和を願う(「ねごう」と発音)わたくしどもの祈りは静寂であり、その声はささやかであり、影響力は小さいかもしれませんが、すべての人々が世界平和を渇望し、第三世界は軍備競争の終えんがもたらす経済的成果を待望しております。 5、わたくしどもは、世界の安全が力による恐怖の均衡ではなく、新しい価値観に基づく(「もとざく」と発音)ものでなければならぬことを提案する。世界に1万5,000以上の戦略核兵器が存在する現在、いかなる国も、人間も決して安全ではあり得ない。 6、従って、もし人類が今世紀、生き残るとするならば、全面的完全軍縮の実行以外にはあり得ない。目下、進められている軍縮に関する各種の計画は、まだ、軍縮というよりも抑制の域を出ないものであるが、やがては全面的完全軍縮への橋渡しとなるでありましょう。そして武器によるどう喝をもって政治を行う(「おこのう」と発音)ことの愚かさを反省していただきたい。 7(なな)、NGOの宗教者として、この特別総会に向けて努力された非同盟諸国に対し、称賛の意を表するとともに、このNGOと国連における軍縮問題との関係が制度化されんことを心から願う(「ねごう」と発音)ものである。...
開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説
4
...さらにわたくしどもは、国連が核軍縮の問題を最優先されんことを強く主張する。また、わたくしどもは、核拡散防止条約第6項の履行が、倫理的、道徳的、宗教的にも一致しているという理由から、これを優先されんことを提案する。 すでにご承知のごとく、目下、日本代表団によって広島、長崎の被爆写真がこの国連内に展示されておりますが、その悲惨(「ひざん」と発音)さは目を覆うものがございます。日本から持参されたそれらの写真の何枚かは、あまりにも、ひ、悲惨(「ひざん」と発音)さのゆえに、展示を遠慮してほしいという要求があったと聞いております。しかし、その地獄の苦しみの様相から、どうか目を背けないでいただきたい。 この特別総会の宣言草案にもあるごとく、わたくしどもは武装を解除しなければならない、さもなくば滅亡あるのみである、という言葉をいま一度、思い起こしていただきたい。 わたくしどもは国連がさらに強化され、この混乱した世界に法の秩序(「つつじょ」と発音)をもった、もたらす能力をもっていることを確信しておる。そしてわたくしどもは、それぞれの宗教と教団の信者をあげて、この歴史的な国連特別総会が、有意義に成果を収められるように祈って(「いぬって」と発音)おります。そして、国連加盟諸国が現状の流れを変え(「かい」と発音)、平和と真(しん)の進歩のために立ち上がることをもあわせて、祈願致す次第であります。 最後にわたくしは、核の廃絶は夢物語であるという人々に対し、故人の深い洞察の言葉を贈りたい。すなわち、「あらゆる、ひ、人が心の底から願う(「ねごう」と発音)ことは、決して実現不可能なことではない」という言葉と、日蓮聖人の「法華経行者の祈りのかなわぬことあるべからず」という言葉、さらに仏陀の、いま、この、さんが、(咳払い)此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は悉く吾が子なり 而も此の処は諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為すと、「一天四海 皆帰妙法」、万法はみな一つから出ておるのである、「天壌無窮 異体同心」、天地とともに窮(きわ)まりなく、すべての人の心は同じくしなければならない。全人類が心を一つになって世界平和を祈れば、天の救いの主(ぬし)である、主(ぬし)は必ずわれわれを守護したもうことを教えているのであります。全人類が一つの心になるためには、世界政府の樹立が必要であり、世界政府が樹立すれば核兵器など無用の長物となる。そこでわたくしは、全世界の為政者に対し心の改心を願い、人類の未来を信じつつ、神仏のご加護を祈り、わたくしの提言を終わります。ご清聴、ありがとうございました。...
心が変われば世界が変わる30
【機関紙誌】
事の一念三千でなければ
心が変われば世界が変わる30
事の一念三千でなければ
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(30) 立正佼成会会長 庭野日敬 事の一念三千でなければ 百界千如が三世間に展開 物と心の相即する世界が一千種に変化するところまで前回に述べました。その一千種の世界は、衆生世間・国土世間(器世間)・五蘊(ごうん)世間という三つの世界に展開するから、千掛ける三は三千となり、いよいよ三千という数字に到達するわけです。 (衆生世間)とは、いろいろな生命体が寄り集まって造っている世界、つまり(もろもろの生命体が持ちつ持たれつして存在する関係の場)と解釈していいでしょう。 (国土世間)とは、それらの生命体の住む場所、つまり地球上の自然界および全宇宙を指します。 (五蘊世間)というのは、人間のからだと心がすべての存在を把握する五つの仕方をいいます。(蘊)というのは集まりという意味で、五蘊とは色・受・想・行・識を言います。その(色(しき))というのは(物の集まり)を言います。人間で言えば、肉体を指します。(受)というのは、(感覚の集まり)です。見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりする、そうした感覚をひっくるめたものです。(想)というのは、(判断の集まり)です。感覚したものを「これは美しい」、「これはうまい」といったふうに判断して受け取る心作用を言います。(行(ぎょう))というのは、(意志の集まり)です。判断したものを行為に移す心の働きです。美しいと感じたらジッと眺めていたいと思い、うまいと感じたらもっと食べたいと意欲する、そうした意欲によって行為を生ずるのですから、(行)というのです。(識)というのは(経験と知識の集まり)です。と言っても、人間としてこの世に生まれてからの経験と知識ばかりでなく、はるかな過去世、前世からの記憶が潜在意識に残っているのまでも含む、そしてわれわれのあらゆる生きざまを決定し、動かしていく複雑な記憶の集まりをいうのです。ひっくるめて(五蘊世間)とは、(物と心とがかかわり合う場)と解していいでしょう。 こういう三つの世間に、一念の中の千種の世界が展開するので、(一念三千)というわけです。 一に全体があり全体は一 こうして(一念三千)の理論が出来上がったわけですが、田村芳朗文学博士はその著(仏教の思想第五巻)の中で、次のように結論づけられています。 「一念と三千の関係はただ『心は是れ一切の法、一切の法は是れ心』といわれるものである。具体的に言えば、極微の一念に三千の宇宙万有が包含され、みなぎり、三千の宇宙万有に極微の一念が透徹し、みなぎるということである。天地万物が一つになって一物の中に存し、また一物の力がひろがって、天地万物の中に存するということである。宇宙一切物は一物に関係し、一物は一切物に関係している」 たいへん難しい理論のようですが、つまり、人間を含めたこの世の万物・万象は、一見別々の存在のように見えても本は一つであり、密接につながっており、したがってわれわれの一念の中には宇宙全体がチャンとあるわけです。これが一念三千の理論であり、いわゆる(理の一念三千)であります。 (事)でなければ救われぬ ところが、このような高邁な世界観を聞いても、ただそれを理論として知り得ただけではほとんど何の役にも立ちません。その理論を自分の心のもち方や実際の生きざまに当てはめ、行為に生かしてこそ真の価値が発揮されるのです。しかも、自分自身から始めて、家庭・社会・国家・人類の在り方へと及ぼしていってこそ、己の運命をも変え、人類の運命をも修正していくことができるのです。一念三千のそうしたはたらきを(事の一念三千)と言います。(理)の抽象性や普遍性に対して、(事)というのはそれを実際に生かす具体性と、それぞれの事態に即した特殊性を言うのです。 では、実際問題として、一念三千の理をどのようにして実人生に生かせばいいのか……ということが最後の課題となります。 ところが、一念と言っても、喜び・怒り・悲しみ・楽しみ・恨み・妬み・羨望・侮蔑といった(表面の心)ばかりではありません。その奥にかくれた広大な潜在意識・深層心理という世界があり、われわれが表面の心を善くしようと一生懸命に努力しても、このような(かくれた心)が深い所からいろいろな悪作用を及ぼしますので、なかなか思うようになりません。ただ信仰のみがそれを清めることができると私は信じているものですが、次回からはこの(かくれた心)とはどんなものか、なぜ信仰がそれを清めることができるのか、ということをつぶさに研究していくことにしましょう。(つづく) 誕生仏頭部(東大寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる31
【機関紙誌】
無意識の世界とは
心が変われば世界が変わる31
無意識の世界とは
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(31) 立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界とは 自分では気づかぬ心がある 元巨人軍の名監督・川上哲治さんが、よくベンチで貧乏揺すりをしていたことは有名です。たいてい自軍の戦いぶりが思わしくない時でした。私共も、何かイライラすることがあると、われ知らず手を振り動かしたり、指で机をトントン叩いたり、無意味な行動をします。また、ひどく恥ずかしいことがあると、思わず顔を赤くします。なぜでしょうか。 目のすぐ前に小さな虫が飛んで来ると一瞬目をつぶります。生まれてから今まで目に虫が入って痛い思いをしたことなど一度もないのに、思わず目をつぶります。なぜでしょうか。 赤ちゃんに乳の飲み方をだれも教えはしません。それなのに、生まれたばかりの赤ちゃんがチャンとお母さんの乳首をくわえ、それを舌で巻き込むようにして上手に乳を吸い出します。どうしてそれができるのでしょうか。 トカゲや、サンショウウオや、アオダイショウや、ヤマカガシなどは、毒もなければ噛みつきもしないのに、見るからに気味が悪く、いやらしく感じます。「何も害はしないから大丈夫だよ」と自分自身に言い聞かせてみても、近寄るのがなんとなく怖いものです。なぜでしょうか。 無意識の世界は底無し われわれが、物事をハッキリと感じたり、知ったり、考えたりする心、すなわち自分でとらえることができ、自分で左右することのできる心(表面の心)を(顕在意識)もしくは単に(意識)と言いますが、その意識の奥に、われわれが自分でとらえることのできない、自分では気のつかない心(かくれた心)の世界があり、これを心理学では、(潜在意識)とか(無意識)とか呼んでいます。 今あげたいくつかの例のように、自分では意識しない行動を思わず知らずやってしまったり、だれにも教わらぬことができたり、表面の心では「怖がることはないのだ」と知っていても、やはりヘビやトカゲが怖い等々は、すべてこの(無意識)のはたらきなのです。 なにしろ、この(無意識)は広大無辺な心の世界であって、自分がこの世に生まれてから経験したことを残らず覚えているばかりでなく、先祖代々の人々が経験したことまで、そこに沈んでいるのです。もっとさかのぼって考えますと、人間がまだムシとかサカナのような生物だったころから、だんだん進化して哺乳類になり、ついに人間になるまでの長い長い間に経験したことも、すべて、この無意識という心の奥に蓄積されているというのです。ですから、学者に言わせると、現在のわれわれがヘビやトカゲなどを気味悪く、恐ろしく感じるのは、何万年も前にそういったハチュウ類の巨大なものが地球上にはびこっていて、人間の祖先がそれらにいじめられた記憶が、無意識の奥に残っているからなのです。 無意識まで清めなければ この無意識という不思議な心は、心の奥の奥に溜ってジッとしているのではなく、時に応じて表面の心へ浮かび上がってくるのです。それも、良い記憶や、快い経験などが浮び上がってくるのだったら、われわれの感情を美しくし、善い行動を起こさせ、あるいは立派な芸術作品を生み出す原動力になったりするのですが、反対に、暗い、残虐な、あるいは恐怖の記憶などが浮かび上がってくると、われわれの表面の心を濁らせ、かき乱し、あるいは悪い行為へと走らせてしまいます。 ムシでも、サカナでも、トリでも、ケモノでも、自分が生きていくためには、また自分の種族を維持するためには、どんなわがままでも、どんな残忍なことでも平気でやります。他のものの食物を横取りしたり、雌を奪い合って闘争したり、あげくの果ては相手を殺したり、仲間を食ったりします。ホトトギスなどのように、ウグイスの卵を巣からけ落として、そこへ自分の卵を産み、ウグイスの親に育てさせるといった、悪賢いことさえするのです。 われわれも、人間に進化するまでの長い長い間、ずっとそうしたことをやってきたのです。人間にまで進化し、だんだん文化が進み、秩序ある社会を営むようになると、そんな利己一本やりのことばかりやってはおられませんので、法律その他の規則をつくり、また倫理・道徳といった共通の戒めも自然にでき、意識してわがままな欲望や悪の衝動を抑えるようになってきました。 しかし、心の底にある無意識の世界では、相変わらず我執と利己心が大きな勢力を占め、それが時に応じてウゴメき出してきますので、人間世界にはやはり紛争や苦悩が絶えません。ですから、人間が本当に救われるためには、どうしてもこの無意識の世界まで清めなければならないのです。そのためにはどうすればよいか。次回からそのことについて考えていくことにしましょう。(つづく) 仏頭(唐時代) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる32
【機関紙誌】
無意識の世界を清めるには
心が変われば世界が変わる32
無意識の世界を清めるには
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(32) 立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界を清めるには まず表面の心を清める 意識の世界(表面の心)と無意識の世界(かくれた心)との間には、いつも往来があります。特に、その境目とされている識閾(しきいき)のすぐ下あたり、つまり無意識の浅い部分との交流は激しくもあり、容易でもあります。青少年時代によく歌った歌は、何十年来すっかり忘れていても、何かのキッカケですぐ思い出して歌えるのも、そういったはたらきです。 ですから、無意識の世界を清めるには表面の心を清めるのが、第一の方法です。生きものを殺生せず、正しくものごとを考え、寛容と、謙虚と、ありのままということを本位として生活することです。さらに積極的に、良い書を読み、美しい音楽や美術を鑑賞し、人に親切を尽くし、些細なことでもいいから多数の人のために奉仕することです。そうした良い経験は、確実に無意識の世界に刻みつけられますから、かくれた心も浅い部分から次第に清められていくわけです。かくれた心の浅い部分が美しくなってくれば、時に応じて表面の心に浮かび上がってくる思いも、美しいものが多くなってくるわけです。普通に(人格の向上)というのは、これをいうわけです。 降魔から成道への過程 ところが、無意識の深い部分となると、そう簡単には清められません。前回にも述べましたように、人間がまだ下等な生物だった時代からこのかたの、まったく自己中心の、わがままな、残忍な心がドロドロと沈んでいるのですから、そこまで清めるためには、どうしても宗教の力が必要なのです。 仏教に即して言えば、まず人間の本質は光り輝く(仏性)である。宇宙の大生命と同体の聖なる存在であることを知ることです。そして、その(仏性)の結晶である仏さまを朝夕礼拝し、お経をあげ、それを毎日毎日続けることによって、聖なる心を大量に、繰り返して、無意識の世界に浸み込ませることです。 坐禅も有力な、直接的な手段です。前(第十六回)にも申しましたように、禅の修行の最大の眼目は(父母未生以前における本来の面目を知る)ことですが、それはつまり、自分の本質が仏性であることを、たんに頭の上で知るのでなしに、魂の底にしっかりとつかむことなのです。しかし、そこまで到達するのがなかなか容易でなく、うっかりすると無意識の底にウゴメク魔性に惑わされてとんでもないことになりかねません。ですから、坐禅は必ずいい指導者の下でしなければならないのです。 成道寸前のお釈迦さま(厳密に言えば菩薩)が、坐禅をなさっている最中に魔の大軍に襲われたことは、仏伝に明らかです。初めに若く美しい女たちがやってきて、誘惑をこころみましたが、菩薩はやさしく諭(さと)して引き返させました。次はさまざまな怪物の軍勢がやってきて、脅迫と暴力で屈服させようとしましたが、慈悲に満ちた菩薩の徳には敵しかね、スゴスゴと退散しました。最後に魔王がやってきて、問答のペテンにかけて頭脳を混乱させようとしましたけれども、菩薩は正しい理によってそれを論破してしまいました。 こうしてスガスガしい精神的勝利を得た菩薩は、ふたたび深い禅定に入り、明星のキラメく十二月八日の明け方、ついに仏の悟りを得られたのでありました。 懺悔の効用はここにも この魔の大軍というのは、じつは無意識の底に沈んでいる悪心の群れだったと言われます。菩薩だったからこそ、それらをすべて克服されたのですけれども、普通の人だったら気が狂ったかもしれません。(だから坐禅・催眠・その他直接無意識の世界にはたらきかける行は、よい指導と正しい方法によらねばならないのです)。ところで、渡辺照宏博士の(新釈尊伝)によりますと、魔軍の方から襲ってきたのではなく、菩薩がわざわざそれを魔界から呼び出されたのだそうです。しかも、やって来た魔軍を力ずくで屈服せしめたのでなく、慈悲と智慧によって無力化せしめたわけです。これは、非常に重大なことで、ここに宗教のはたらきの典型があると思います。 私ども凡夫は、自分の無意識界の奥に潜む魔軍を自らの意志で呼び出すなどという霊力はもち合わせておりません。ただ、それに近いことは私共でもできます。それは懺悔ということです。これまでに積んできたもろもろの悪業や、心に起こした数々の悪心を、可能な限り思い出し、仏さまの前に、あるいは信頼する指導者の前に、洗いざらいさらけ出すのです。 そうすれば、表面の心ばかりでなく、無意識の世界もある程度まで洗い清めることができるのです。懺悔したあと、他では味わうことのできぬスガスガしさを覚えるのは、そのせいなのです。 そこで、ひとりでにわき上がる歓喜の思いに乗って、仏さまを礼拝し、賛嘆し、お経をたくさんあげ、唱題を繰り返し唱え、説法を一心に聞き、仏書をも熱読するといった宗教的な行を続けていくならば、無意識の世界がますます清まっていくのは必至です。これこそが、宗教ならではのはたらきなのであります。 (つづく) ギリシャ人の仏供養者(パキスタン) 絵 増谷直樹 ...
心が変われば世界が変わる33
【機関紙誌】
最深部の無意識は人類共通
心が変われば世界が変わる33
最深部の無意識は人類共通
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(33) 立正佼成会会長 庭野日敬 最深部の無意識は人類共通 仏教で説く心の構造 これまでは、主として無意識の底に沈む暗い心を取り上げてきました。これは仏教でいう末那識(まなしき)に当たるものです。仏教では心の世界の構造をどう見ているかといいますと、代表的なのは(八識)という考え方です。八識というのは眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意の六識に、末那識・阿頼耶識(あらやしき)を加えた八つの心のはたらきです(大乗仏教では、第九識として阿摩羅識を加えますが、これは真如・仏性そのものですから、ここでは触れません)。 はじめの五識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって外界のものごとを感じ取るはたらきであり、意というのは、感じ取ったものごとを「美しい」とか、「好きだ」とか判断したり、「これをやろう」とか「これはやるまい」などと意志したりする心のはたらきをいいます。以上の六識は、われわれがハッキリ意識することのできる心で、いわゆる表面の心です。 末那識・阿頼耶識は、無意識の世界です。まず末那識ですが、仏教では、これが一切衆生妄惑の根本であると説かれているのです。すべての生きものは、もともとは宇宙の大生命であり、清らかな光明そのものだったのですが、これが一定のからだを持つ生命体となってこの世に現れたとたんに、自分のからだにとらわれ、そのからだを保ち、殖やすことに懸命になってしまったのです。そのためには、前(三十一回)にも述べたように、どんなわがままでも、残忍なことでもやってきました。この自己中心の無意識的な心が末那識です。人間のいわゆる煩悩もここから起こり、ここにしみついているわけです。 阿頼耶識は万有の根源 阿頼耶識というのは、(一切万法顕現の原因としての潜勢力)と定義づけた人もおられるように、宇宙万物の存在の根源をなしている宇宙意志ともいうべき心をいうのです。万有を蔵するというので(蔵識)とも名づけられ、万有発生の種子であるとして、(種子識・しゅうじしき)とも呼ばれます。 心の世界はおよそつかみ難いものですが、この阿頼耶識ともなれば、いよいよ難しく、説明しようにも的確な仕方がなく、それをつかまえる方法も軽々には述べられません。ただ、次の二つの事例をつなぎ合わせると、なんとなく領得できるように思います。 発明王エジソンが、死ぬ少し前に、次のような言葉を残しています。 「着想は宇宙空間から来る。途方もなく、信じられない……と思うかもしれないが、それは事実だ。考えは空間から浮かび出るのだ」 文化勲章受賞の数学者・岡潔博士は、その名著(春宵十話)に次のように書いておられます(他の著書にも何度か引用しましたが、あまりにも貴重な体験だけに、経典の金言と同様、何十回繰り返し、引用してもよいと信じます)。 「七、八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうもひとところうまくゆかなかった。ところが、終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうした或る日、おつとめのあとで考えが或る方向へ向いて、わかってしまった。この時のわかり方は、以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたように、いちめんにあったものが固まりになって分れてしまったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」 発明とか数学とかいえば、まったく理性のみの所産だと考えられがちです。表面の心で理詰めに詰めていって、ある結果に到達するもの、と考えるのが普通です。ところがそうではなく、理詰めの前や後に、あるいはその中間にポッカリあいた無意識のエアポケットがあって、そこから貴重なアイデアがひらめいてくるものだということは、お二人の証言によって明らかだと思うのです。 阿頼耶識によき形を与える スイスの有名な心理学者・ユングは、無意識の世界を分けて、個人的無意識と普遍的無意識としています。普遍的無意識というのは、ある家族にはみんなに共通する潜在意識があり、ある文化圏に属する人間(たとえば、東洋文化の中にいるアジア人)にも共通の潜在意識があり、もっと深く探れば、人類全体に共通の潜在意識があるというのです。 この普遍的無意識ということは、すでに世界の学者の間に認められている説ですが、これを阿頼耶識と同様に解釈している学者もいます。たとえば、アメリカのE・ホルムス博士は、普遍的潜在意識は、抽象的で、形のない状態における(心)であり、それは潜在的エネルギーであって、形をもつものに形づくられるように身がまえているのだ……と説明しています(西岡旻佐子訳(心の科学)2による)。この(身がまえている)という表現は、まことに説得力があります。エジソンや岡博士は、この身がまえていた普遍的無意識を素直に飛び出させ、それによき形を与える、なにものかをもっておられたのでありましょう。(つづく) 婦女形(法隆寺五重塔塑像) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる34
【機関紙誌】
心の通じ合いの不思議
心が変われば世界が変わる34
心の通じ合いの不思議
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(34) 立正佼成会会長 庭野日敬 心の通じ合いの不思議 だれにもある心の通じ合い きょうはあの叔母さんが遊びに来られるような気がする……なんとなくそんな思いが念頭をかすめた。すると、案の定ヒョイと訪ねてこられた……そのような経験は、だれにもあるでしょう。二、三人で、ある人のことを話し合っているとき、当の本人がフラリと現れて、「噂をすれば影だなあ」と笑ってしまう……そんなこともよくあります。永年の夫婦仲ならば、夫が「今夜あたりスキヤキで一杯やりたいな」と考えながら帰宅してみると、チャンとその用意ができていた、というような経験もあるはずです。 たいていの人は「偶然の一致さ」と軽く一蹴してしまいますが、少しでも(心)の問題に関心のある人だと、「いや、何かあるぞ」という疑問を起こすはずです。正しい疑問です。確かに「何かある」のです。むかしはこのようなはたらきを(虫の知らせ)とか(以心伝心)という言葉で片付けていましたが、現代になってから学問的に研究され、そうしたはたらきの実在が証明され、テレパシー(遠隔感応)と名づけられました。 最初の実験者はアメリカのデューク大学にいたライン博士夫妻で、+≋☆□○の五つの図形を書いたカード(ESPカードという)を用意し、実験者がそのカードを一枚ずつ取り上げて図形を見ると、意識に与えられたその刺激を、別室にいる被実験者が心に感じ取って図形を言い当てるという実験です。これを何千回と繰り返すことによって、その的中の確率の上から、偶然ばかりでなく、遠隔感応という心のはたらきがあることを証明したのでした。 心は肉体を離れて活動できる これが始まりで、音声とか、言葉とか、表情とか、といったようなものを通さず、冥々のうちに人と人との間に心の伝達が行われること、心霊が肉体とは独立に活動することが科学的に実証され、こんな問題には懐疑的な学者でさえ、それを承認するようになりました。 現在では、宇宙船と地上との交信にテレパシーを利用しようという研究さえ始まっているそうです。聞くところによりますと、超能力研究の盛んなソ連で、約三千五百キロ離れたモスクワとシベリアのノボシビルスクの間でESPカードを使ってテレパシーの実験をしたところ、ある超能力は二十枚全部を言い当てたといいます。 私はなにもこのような超能力を称揚したり、奨励したりするつもりはありません。ただ、人間にはだれにも、強弱の差こそあれ、このような能力をもっていることを知ってもらいたいのです。心を変えることによって人を変え、境遇を変える(一念三千)の理も、このような能力があればこそ成り立つのです。 冒頭にあげた心の通じ合いの事例は、あなたにもそんな覚えがあるでしょう。ということは、あなたにもそのような能力がある証拠です。その能力を少しでも強め、善い方向へ使うようにすれば、あなたの周囲の人々の幸せを増し、あなた自身をも高めることができるのです。 (善い方向へ使う)とわざわざ言ったのは、世の中にはときたま強い念力をもつ人がいて、そんな人が「あんな奴死んじまえ」などと人を呪う心をもてば、てきめんに相手が不幸に陥るという実例があるからです。 (善い方向へ使う)というのは、人の幸せを念ずることです。もちろん言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動だけでは及びもつかぬ場合がしばしばあります。また、頑固な人はかえってそれに反発し、寄せつけぬこともあります。 そんなときは、「仏さま、どうかあの人を幸せの道へ導いてください」と心から祈ってあげるほかありません。そうした祈りは、一念三千の理によって必ず通ずるのです。もし、通じなければ、あなたの(心の力)がまだ微弱であるからなのです。 念力は(行)によって強まる 言論や実際行動によって人を救い、世を明るくする努力は信仰者でなくてもできます。そうした表面に現れる努力の底に、祈りの力、心霊の力が加わってこそ、信仰者と言えるのです。その意味で、(心の力=念力)を強めることはやはり大切なのです。 それならば、心の力を強めるにはどうしたらいいのか。行(ぎょう)よりほかに方法はありません。 無心になって唱題する。読経三昧に入る。さらに進んでは、水垢離をとる。滝に打たれる。あるいは、端坐して一心に仏を念ずる、そうした行を積めば積むほど、念力というものは強まっていくものです。 むかしから、聖者と言われる人は今で言う超能力者でした。お釈迦さまも、イエス・キリストもそうでした。しかし、一般の信仰者はそこまで行かなくてもいいのです。ただ、心の力を少しでも強くし、人を幸せにしてあげたいという祈りが相手に通じ、相手を動かすことができるように努力することは、大乗の信仰者としては不可欠の条件でありましょう。(つづく) ガンダーラ仏 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる35
【機関紙誌】
虫にも植物にも心は通ずる
心が変われば世界が変わる35
虫にも植物にも心は通ずる
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(35) 立正佼成会会長 庭野日敬 虫にも植物にも心は通ずる 生物は電気的霊気を発散 エール大学のH・S・バー博士を中心とする研究者たちが、十二年間さまざまな実験を繰り返した結果、次のような結論を得、一九四四年に発表されました。 「すべての生物は、からだの周辺に電気的な霊気を発散し、それに包まれている。そして、生命力は宇宙の全構成と連絡している」 からだの周辺に電気的な霊気を発散しているという事実からして、非常に霊力の強い聖者の絵像などに見られる後光・円光も、お釈迦さまの額の白毫(びゃくごう)から発した光明も、絵そらごとではないことがわかります。そして、そうした電気的な霊気が宇宙を構成するすべてのものと連絡しているということから、遠く離れている人と人との間の心の通じ合いも説明できますし、また一念が三千を変えるという天台の教えも納得がいきます。 羽アリを動かしたお九字 三千とは宇宙の全構成をいうのですから、単に人間と人間のつながりばかりでなく、他の動物とも、植物とも、無生物とも心の連絡があり、人間の精神力によって相手を変えることができる……という理論が成り立ちます。犬やネコのペットをかわいがっている人や、牛・馬を手塩にかけて育てている人などは、こちらの意思や感情がそうした動物たちによく伝わることを確認しているはずです。 下等動物といわれる生きものになればなるほど、そのような伝達は難しくなります。しかし、念力の強い人は、虫のようなものでさえ動かすことができるのです。わたしどもの会の脇祖・故長沼妙佼先生は霊能の強い方でしたが、ある夏、こんなことがありました。当時、妙佼先生はお店をやっておられましたが、家の土台にシロアリが巣食い、成虫となった羽アリがわき、一メートル幅ぐらいの列をつくって、座敷へゾロゾロ入ってきたのです。一生懸命に掃き出しても、あとからあとから入ってきます。 それを見て、店の若い衆の一人が「おばさんがどんなに大した信仰者だって、この羽アリをどうすることもできないでしょう」とからかいました。この若い衆は、いつも信仰というものをケナしてばかりいる男でしたので、妙佼先生は「よし、それではいま、いなくしてみよう」と言い、ご宝前の前に座り、一心にお願いされました。「この男に信仰のありがたいことを悟らせるために、どうぞ不思議をお見せください」。こうお願いして、羽アリの列に向かって、エイッ、エイッとお九字を切りました。すると、羽アリはクルリと向きを変えて、ゾロゾロ出て行ったのです。これには、その若い衆もびっくりし、以後、ピタリと悪口を言わなくなりました。 憎むなかれ罵るなかれ それならば、植物にも心はあるのか、あるならば人間の心が通ずるはずだが……という疑問が当然起こってくるでしょう。ところが、確かにあるのです。一番顕著な実例は、ニューヨークのクライブ・バクスター氏の実験で、これは日本でもいろいろ新聞・雑誌に報道されましたのでご承知かもしれませんが、事のついでに紹介しておきましょう。 バクスター氏は嘘発見検査官養成学校の校長ですが、フト思いついて、ドラセナという観葉植物について嘘発見器をセットしてみました。そして何かドラセナに刺激を与えなくてはと考え、「よし、火をつけてやろう」と考えたそうです。するとそのとたんに、なんとメーターの針がピクリと動いたのです。瞬間、バクスター氏は「植物にも心がある」ことを直感し、それから積極的に研究し始めました。 例えば、部屋の中にあるいろいろな植物を、一人の男に棒でビシビシたたいて回らせました。それから、数人の人を一人ずつその部屋に入らせ、最後にくだんの男を入らせました。すると、他の人が入ったときは、メーターの針は少しも動かなかったのに、さんざんにたたいた男が入ってくると、針はものすごく揺れ動いたのでした。憎しみか恐れかわかりませんが、植物たちはその男に対して敏感な反応を示したのでした。 アメリカ人は、物質万能主義とばかり片付けてはならないのであって、精神とか心霊とかに深い関心をもつ人は案外多いのです。農業者でも、例えば、野菜・草花・苗木などを精神力で見事に生育させる実験をやっている人がたくさんあります。例えば、トマトの苗を二列に分けて植え、一方には毎日愛の言葉をかけてやり、一方には「バカヤロウ」などと罵りつづけていると、前者はいきいきと育って立派な実をつけ、後者はいじけた茎葉になって実も小さく、味も悪くなるそうです。 このように、虫にも、植物にも心があり、人間の心はそれに通ずるのです。ましてや人間同士に通じないことは絶対にありません。ですから、かりそめにも人をひどく憎んだり、罵ったりしてはなりません。それは一種の殺生です。間接的な、緩慢な殺生です。直接殺さなくても、これはやはり殺性の罪なのです。(つづく) 童子の頭部(浄瑠璃寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる36
【機関紙誌】
愛語よく廻天の力あり
ページ送り
カレントページ
1
Page
2
次ページ
››
最終ページ
»