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庭野日敬の世界
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南無妙法蓮華經
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心が変われば世界が変わる30
【機関紙誌】
事の一念三千でなければ
心が変われば世界が変わる30
事の一念三千でなければ
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(30) 立正佼成会会長 庭野日敬 事の一念三千でなければ 百界千如が三世間に展開 物と心の相即する世界が一千種に変化するところまで前回に述べました。その一千種の世界は、衆生世間・国土世間(器世間)・五蘊(ごうん)世間という三つの世界に展開するから、千掛ける三は三千となり、いよいよ三千という数字に到達するわけです。 (衆生世間)とは、いろいろな生命体が寄り集まって造っている世界、つまり(もろもろの生命体が持ちつ持たれつして存在する関係の場)と解釈していいでしょう。 (国土世間)とは、それらの生命体の住む場所、つまり地球上の自然界および全宇宙を指します。 (五蘊世間)というのは、人間のからだと心がすべての存在を把握する五つの仕方をいいます。(蘊)というのは集まりという意味で、五蘊とは色・受・想・行・識を言います。その(色(しき))というのは(物の集まり)を言います。人間で言えば、肉体を指します。(受)というのは、(感覚の集まり)です。見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりする、そうした感覚をひっくるめたものです。(想)というのは、(判断の集まり)です。感覚したものを「これは美しい」、「これはうまい」といったふうに判断して受け取る心作用を言います。(行(ぎょう))というのは、(意志の集まり)です。判断したものを行為に移す心の働きです。美しいと感じたらジッと眺めていたいと思い、うまいと感じたらもっと食べたいと意欲する、そうした意欲によって行為を生ずるのですから、(行)というのです。(識)というのは(経験と知識の集まり)です。と言っても、人間としてこの世に生まれてからの経験と知識ばかりでなく、はるかな過去世、前世からの記憶が潜在意識に残っているのまでも含む、そしてわれわれのあらゆる生きざまを決定し、動かしていく複雑な記憶の集まりをいうのです。ひっくるめて(五蘊世間)とは、(物と心とがかかわり合う場)と解していいでしょう。 こういう三つの世間に、一念の中の千種の世界が展開するので、(一念三千)というわけです。 一に全体があり全体は一 こうして(一念三千)の理論が出来上がったわけですが、田村芳朗文学博士はその著(仏教の思想第五巻)の中で、次のように結論づけられています。 「一念と三千の関係はただ『心は是れ一切の法、一切の法は是れ心』といわれるものである。具体的に言えば、極微の一念に三千の宇宙万有が包含され、みなぎり、三千の宇宙万有に極微の一念が透徹し、みなぎるということである。天地万物が一つになって一物の中に存し、また一物の力がひろがって、天地万物の中に存するということである。宇宙一切物は一物に関係し、一物は一切物に関係している」 たいへん難しい理論のようですが、つまり、人間を含めたこの世の万物・万象は、一見別々の存在のように見えても本は一つであり、密接につながっており、したがってわれわれの一念の中には宇宙全体がチャンとあるわけです。これが一念三千の理論であり、いわゆる(理の一念三千)であります。 (事)でなければ救われぬ ところが、このような高邁な世界観を聞いても、ただそれを理論として知り得ただけではほとんど何の役にも立ちません。その理論を自分の心のもち方や実際の生きざまに当てはめ、行為に生かしてこそ真の価値が発揮されるのです。しかも、自分自身から始めて、家庭・社会・国家・人類の在り方へと及ぼしていってこそ、己の運命をも変え、人類の運命をも修正していくことができるのです。一念三千のそうしたはたらきを(事の一念三千)と言います。(理)の抽象性や普遍性に対して、(事)というのはそれを実際に生かす具体性と、それぞれの事態に即した特殊性を言うのです。 では、実際問題として、一念三千の理をどのようにして実人生に生かせばいいのか……ということが最後の課題となります。 ところが、一念と言っても、喜び・怒り・悲しみ・楽しみ・恨み・妬み・羨望・侮蔑といった(表面の心)ばかりではありません。その奥にかくれた広大な潜在意識・深層心理という世界があり、われわれが表面の心を善くしようと一生懸命に努力しても、このような(かくれた心)が深い所からいろいろな悪作用を及ぼしますので、なかなか思うようになりません。ただ信仰のみがそれを清めることができると私は信じているものですが、次回からはこの(かくれた心)とはどんなものか、なぜ信仰がそれを清めることができるのか、ということをつぶさに研究していくことにしましょう。(つづく) 誕生仏頭部(東大寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる31
【機関紙誌】
無意識の世界とは
心が変われば世界が変わる31
無意識の世界とは
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(31) 立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界とは 自分では気づかぬ心がある 元巨人軍の名監督・川上哲治さんが、よくベンチで貧乏揺すりをしていたことは有名です。たいてい自軍の戦いぶりが思わしくない時でした。私共も、何かイライラすることがあると、われ知らず手を振り動かしたり、指で机をトントン叩いたり、無意味な行動をします。また、ひどく恥ずかしいことがあると、思わず顔を赤くします。なぜでしょうか。 目のすぐ前に小さな虫が飛んで来ると一瞬目をつぶります。生まれてから今まで目に虫が入って痛い思いをしたことなど一度もないのに、思わず目をつぶります。なぜでしょうか。 赤ちゃんに乳の飲み方をだれも教えはしません。それなのに、生まれたばかりの赤ちゃんがチャンとお母さんの乳首をくわえ、それを舌で巻き込むようにして上手に乳を吸い出します。どうしてそれができるのでしょうか。 トカゲや、サンショウウオや、アオダイショウや、ヤマカガシなどは、毒もなければ噛みつきもしないのに、見るからに気味が悪く、いやらしく感じます。「何も害はしないから大丈夫だよ」と自分自身に言い聞かせてみても、近寄るのがなんとなく怖いものです。なぜでしょうか。 無意識の世界は底無し われわれが、物事をハッキリと感じたり、知ったり、考えたりする心、すなわち自分でとらえることができ、自分で左右することのできる心(表面の心)を(顕在意識)もしくは単に(意識)と言いますが、その意識の奥に、われわれが自分でとらえることのできない、自分では気のつかない心(かくれた心)の世界があり、これを心理学では、(潜在意識)とか(無意識)とか呼んでいます。 今あげたいくつかの例のように、自分では意識しない行動を思わず知らずやってしまったり、だれにも教わらぬことができたり、表面の心では「怖がることはないのだ」と知っていても、やはりヘビやトカゲが怖い等々は、すべてこの(無意識)のはたらきなのです。 なにしろ、この(無意識)は広大無辺な心の世界であって、自分がこの世に生まれてから経験したことを残らず覚えているばかりでなく、先祖代々の人々が経験したことまで、そこに沈んでいるのです。もっとさかのぼって考えますと、人間がまだムシとかサカナのような生物だったころから、だんだん進化して哺乳類になり、ついに人間になるまでの長い長い間に経験したことも、すべて、この無意識という心の奥に蓄積されているというのです。ですから、学者に言わせると、現在のわれわれがヘビやトカゲなどを気味悪く、恐ろしく感じるのは、何万年も前にそういったハチュウ類の巨大なものが地球上にはびこっていて、人間の祖先がそれらにいじめられた記憶が、無意識の奥に残っているからなのです。 無意識まで清めなければ この無意識という不思議な心は、心の奥の奥に溜ってジッとしているのではなく、時に応じて表面の心へ浮かび上がってくるのです。それも、良い記憶や、快い経験などが浮び上がってくるのだったら、われわれの感情を美しくし、善い行動を起こさせ、あるいは立派な芸術作品を生み出す原動力になったりするのですが、反対に、暗い、残虐な、あるいは恐怖の記憶などが浮かび上がってくると、われわれの表面の心を濁らせ、かき乱し、あるいは悪い行為へと走らせてしまいます。 ムシでも、サカナでも、トリでも、ケモノでも、自分が生きていくためには、また自分の種族を維持するためには、どんなわがままでも、どんな残忍なことでも平気でやります。他のものの食物を横取りしたり、雌を奪い合って闘争したり、あげくの果ては相手を殺したり、仲間を食ったりします。ホトトギスなどのように、ウグイスの卵を巣からけ落として、そこへ自分の卵を産み、ウグイスの親に育てさせるといった、悪賢いことさえするのです。 われわれも、人間に進化するまでの長い長い間、ずっとそうしたことをやってきたのです。人間にまで進化し、だんだん文化が進み、秩序ある社会を営むようになると、そんな利己一本やりのことばかりやってはおられませんので、法律その他の規則をつくり、また倫理・道徳といった共通の戒めも自然にでき、意識してわがままな欲望や悪の衝動を抑えるようになってきました。 しかし、心の底にある無意識の世界では、相変わらず我執と利己心が大きな勢力を占め、それが時に応じてウゴメき出してきますので、人間世界にはやはり紛争や苦悩が絶えません。ですから、人間が本当に救われるためには、どうしてもこの無意識の世界まで清めなければならないのです。そのためにはどうすればよいか。次回からそのことについて考えていくことにしましょう。(つづく) 仏頭(唐時代) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる32
【機関紙誌】
無意識の世界を清めるには
心が変われば世界が変わる32
無意識の世界を清めるには
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(32) 立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界を清めるには まず表面の心を清める 意識の世界(表面の心)と無意識の世界(かくれた心)との間には、いつも往来があります。特に、その境目とされている識閾(しきいき)のすぐ下あたり、つまり無意識の浅い部分との交流は激しくもあり、容易でもあります。青少年時代によく歌った歌は、何十年来すっかり忘れていても、何かのキッカケですぐ思い出して歌えるのも、そういったはたらきです。 ですから、無意識の世界を清めるには表面の心を清めるのが、第一の方法です。生きものを殺生せず、正しくものごとを考え、寛容と、謙虚と、ありのままということを本位として生活することです。さらに積極的に、良い書を読み、美しい音楽や美術を鑑賞し、人に親切を尽くし、些細なことでもいいから多数の人のために奉仕することです。そうした良い経験は、確実に無意識の世界に刻みつけられますから、かくれた心も浅い部分から次第に清められていくわけです。かくれた心の浅い部分が美しくなってくれば、時に応じて表面の心に浮かび上がってくる思いも、美しいものが多くなってくるわけです。普通に(人格の向上)というのは、これをいうわけです。 降魔から成道への過程 ところが、無意識の深い部分となると、そう簡単には清められません。前回にも述べましたように、人間がまだ下等な生物だった時代からこのかたの、まったく自己中心の、わがままな、残忍な心がドロドロと沈んでいるのですから、そこまで清めるためには、どうしても宗教の力が必要なのです。 仏教に即して言えば、まず人間の本質は光り輝く(仏性)である。宇宙の大生命と同体の聖なる存在であることを知ることです。そして、その(仏性)の結晶である仏さまを朝夕礼拝し、お経をあげ、それを毎日毎日続けることによって、聖なる心を大量に、繰り返して、無意識の世界に浸み込ませることです。 坐禅も有力な、直接的な手段です。前(第十六回)にも申しましたように、禅の修行の最大の眼目は(父母未生以前における本来の面目を知る)ことですが、それはつまり、自分の本質が仏性であることを、たんに頭の上で知るのでなしに、魂の底にしっかりとつかむことなのです。しかし、そこまで到達するのがなかなか容易でなく、うっかりすると無意識の底にウゴメク魔性に惑わされてとんでもないことになりかねません。ですから、坐禅は必ずいい指導者の下でしなければならないのです。 成道寸前のお釈迦さま(厳密に言えば菩薩)が、坐禅をなさっている最中に魔の大軍に襲われたことは、仏伝に明らかです。初めに若く美しい女たちがやってきて、誘惑をこころみましたが、菩薩はやさしく諭(さと)して引き返させました。次はさまざまな怪物の軍勢がやってきて、脅迫と暴力で屈服させようとしましたが、慈悲に満ちた菩薩の徳には敵しかね、スゴスゴと退散しました。最後に魔王がやってきて、問答のペテンにかけて頭脳を混乱させようとしましたけれども、菩薩は正しい理によってそれを論破してしまいました。 こうしてスガスガしい精神的勝利を得た菩薩は、ふたたび深い禅定に入り、明星のキラメく十二月八日の明け方、ついに仏の悟りを得られたのでありました。 懺悔の効用はここにも この魔の大軍というのは、じつは無意識の底に沈んでいる悪心の群れだったと言われます。菩薩だったからこそ、それらをすべて克服されたのですけれども、普通の人だったら気が狂ったかもしれません。(だから坐禅・催眠・その他直接無意識の世界にはたらきかける行は、よい指導と正しい方法によらねばならないのです)。ところで、渡辺照宏博士の(新釈尊伝)によりますと、魔軍の方から襲ってきたのではなく、菩薩がわざわざそれを魔界から呼び出されたのだそうです。しかも、やって来た魔軍を力ずくで屈服せしめたのでなく、慈悲と智慧によって無力化せしめたわけです。これは、非常に重大なことで、ここに宗教のはたらきの典型があると思います。 私ども凡夫は、自分の無意識界の奥に潜む魔軍を自らの意志で呼び出すなどという霊力はもち合わせておりません。ただ、それに近いことは私共でもできます。それは懺悔ということです。これまでに積んできたもろもろの悪業や、心に起こした数々の悪心を、可能な限り思い出し、仏さまの前に、あるいは信頼する指導者の前に、洗いざらいさらけ出すのです。 そうすれば、表面の心ばかりでなく、無意識の世界もある程度まで洗い清めることができるのです。懺悔したあと、他では味わうことのできぬスガスガしさを覚えるのは、そのせいなのです。 そこで、ひとりでにわき上がる歓喜の思いに乗って、仏さまを礼拝し、賛嘆し、お経をたくさんあげ、唱題を繰り返し唱え、説法を一心に聞き、仏書をも熱読するといった宗教的な行を続けていくならば、無意識の世界がますます清まっていくのは必至です。これこそが、宗教ならではのはたらきなのであります。 (つづく) ギリシャ人の仏供養者(パキスタン) 絵 増谷直樹 ...
心が変われば世界が変わる33
【機関紙誌】
最深部の無意識は人類共通
心が変われば世界が変わる33
最深部の無意識は人類共通
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(33) 立正佼成会会長 庭野日敬 最深部の無意識は人類共通 仏教で説く心の構造 これまでは、主として無意識の底に沈む暗い心を取り上げてきました。これは仏教でいう末那識(まなしき)に当たるものです。仏教では心の世界の構造をどう見ているかといいますと、代表的なのは(八識)という考え方です。八識というのは眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意の六識に、末那識・阿頼耶識(あらやしき)を加えた八つの心のはたらきです(大乗仏教では、第九識として阿摩羅識を加えますが、これは真如・仏性そのものですから、ここでは触れません)。 はじめの五識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって外界のものごとを感じ取るはたらきであり、意というのは、感じ取ったものごとを「美しい」とか、「好きだ」とか判断したり、「これをやろう」とか「これはやるまい」などと意志したりする心のはたらきをいいます。以上の六識は、われわれがハッキリ意識することのできる心で、いわゆる表面の心です。 末那識・阿頼耶識は、無意識の世界です。まず末那識ですが、仏教では、これが一切衆生妄惑の根本であると説かれているのです。すべての生きものは、もともとは宇宙の大生命であり、清らかな光明そのものだったのですが、これが一定のからだを持つ生命体となってこの世に現れたとたんに、自分のからだにとらわれ、そのからだを保ち、殖やすことに懸命になってしまったのです。そのためには、前(三十一回)にも述べたように、どんなわがままでも、残忍なことでもやってきました。この自己中心の無意識的な心が末那識です。人間のいわゆる煩悩もここから起こり、ここにしみついているわけです。 阿頼耶識は万有の根源 阿頼耶識というのは、(一切万法顕現の原因としての潜勢力)と定義づけた人もおられるように、宇宙万物の存在の根源をなしている宇宙意志ともいうべき心をいうのです。万有を蔵するというので(蔵識)とも名づけられ、万有発生の種子であるとして、(種子識・しゅうじしき)とも呼ばれます。 心の世界はおよそつかみ難いものですが、この阿頼耶識ともなれば、いよいよ難しく、説明しようにも的確な仕方がなく、それをつかまえる方法も軽々には述べられません。ただ、次の二つの事例をつなぎ合わせると、なんとなく領得できるように思います。 発明王エジソンが、死ぬ少し前に、次のような言葉を残しています。 「着想は宇宙空間から来る。途方もなく、信じられない……と思うかもしれないが、それは事実だ。考えは空間から浮かび出るのだ」 文化勲章受賞の数学者・岡潔博士は、その名著(春宵十話)に次のように書いておられます(他の著書にも何度か引用しましたが、あまりにも貴重な体験だけに、経典の金言と同様、何十回繰り返し、引用してもよいと信じます)。 「七、八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうもひとところうまくゆかなかった。ところが、終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうした或る日、おつとめのあとで考えが或る方向へ向いて、わかってしまった。この時のわかり方は、以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたように、いちめんにあったものが固まりになって分れてしまったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」 発明とか数学とかいえば、まったく理性のみの所産だと考えられがちです。表面の心で理詰めに詰めていって、ある結果に到達するもの、と考えるのが普通です。ところがそうではなく、理詰めの前や後に、あるいはその中間にポッカリあいた無意識のエアポケットがあって、そこから貴重なアイデアがひらめいてくるものだということは、お二人の証言によって明らかだと思うのです。 阿頼耶識によき形を与える スイスの有名な心理学者・ユングは、無意識の世界を分けて、個人的無意識と普遍的無意識としています。普遍的無意識というのは、ある家族にはみんなに共通する潜在意識があり、ある文化圏に属する人間(たとえば、東洋文化の中にいるアジア人)にも共通の潜在意識があり、もっと深く探れば、人類全体に共通の潜在意識があるというのです。 この普遍的無意識ということは、すでに世界の学者の間に認められている説ですが、これを阿頼耶識と同様に解釈している学者もいます。たとえば、アメリカのE・ホルムス博士は、普遍的潜在意識は、抽象的で、形のない状態における(心)であり、それは潜在的エネルギーであって、形をもつものに形づくられるように身がまえているのだ……と説明しています(西岡旻佐子訳(心の科学)2による)。この(身がまえている)という表現は、まことに説得力があります。エジソンや岡博士は、この身がまえていた普遍的無意識を素直に飛び出させ、それによき形を与える、なにものかをもっておられたのでありましょう。(つづく) 婦女形(法隆寺五重塔塑像) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる34
【機関紙誌】
心の通じ合いの不思議
心が変われば世界が変わる34
心の通じ合いの不思議
1
...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(34) 立正佼成会会長 庭野日敬 心の通じ合いの不思議 だれにもある心の通じ合い きょうはあの叔母さんが遊びに来られるような気がする……なんとなくそんな思いが念頭をかすめた。すると、案の定ヒョイと訪ねてこられた……そのような経験は、だれにもあるでしょう。二、三人で、ある人のことを話し合っているとき、当の本人がフラリと現れて、「噂をすれば影だなあ」と笑ってしまう……そんなこともよくあります。永年の夫婦仲ならば、夫が「今夜あたりスキヤキで一杯やりたいな」と考えながら帰宅してみると、チャンとその用意ができていた、というような経験もあるはずです。 たいていの人は「偶然の一致さ」と軽く一蹴してしまいますが、少しでも(心)の問題に関心のある人だと、「いや、何かあるぞ」という疑問を起こすはずです。正しい疑問です。確かに「何かある」のです。むかしはこのようなはたらきを(虫の知らせ)とか(以心伝心)という言葉で片付けていましたが、現代になってから学問的に研究され、そうしたはたらきの実在が証明され、テレパシー(遠隔感応)と名づけられました。 最初の実験者はアメリカのデューク大学にいたライン博士夫妻で、+≋☆□○の五つの図形を書いたカード(ESPカードという)を用意し、実験者がそのカードを一枚ずつ取り上げて図形を見ると、意識に与えられたその刺激を、別室にいる被実験者が心に感じ取って図形を言い当てるという実験です。これを何千回と繰り返すことによって、その的中の確率の上から、偶然ばかりでなく、遠隔感応という心のはたらきがあることを証明したのでした。 心は肉体を離れて活動できる これが始まりで、音声とか、言葉とか、表情とか、といったようなものを通さず、冥々のうちに人と人との間に心の伝達が行われること、心霊が肉体とは独立に活動することが科学的に実証され、こんな問題には懐疑的な学者でさえ、それを承認するようになりました。 現在では、宇宙船と地上との交信にテレパシーを利用しようという研究さえ始まっているそうです。聞くところによりますと、超能力研究の盛んなソ連で、約三千五百キロ離れたモスクワとシベリアのノボシビルスクの間でESPカードを使ってテレパシーの実験をしたところ、ある超能力は二十枚全部を言い当てたといいます。 私はなにもこのような超能力を称揚したり、奨励したりするつもりはありません。ただ、人間にはだれにも、強弱の差こそあれ、このような能力をもっていることを知ってもらいたいのです。心を変えることによって人を変え、境遇を変える(一念三千)の理も、このような能力があればこそ成り立つのです。 冒頭にあげた心の通じ合いの事例は、あなたにもそんな覚えがあるでしょう。ということは、あなたにもそのような能力がある証拠です。その能力を少しでも強め、善い方向へ使うようにすれば、あなたの周囲の人々の幸せを増し、あなた自身をも高めることができるのです。 (善い方向へ使う)とわざわざ言ったのは、世の中にはときたま強い念力をもつ人がいて、そんな人が「あんな奴死んじまえ」などと人を呪う心をもてば、てきめんに相手が不幸に陥るという実例があるからです。 (善い方向へ使う)というのは、人の幸せを念ずることです。もちろん言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動だけでは及びもつかぬ場合がしばしばあります。また、頑固な人はかえってそれに反発し、寄せつけぬこともあります。 そんなときは、「仏さま、どうかあの人を幸せの道へ導いてください」と心から祈ってあげるほかありません。そうした祈りは、一念三千の理によって必ず通ずるのです。もし、通じなければ、あなたの(心の力)がまだ微弱であるからなのです。 念力は(行)によって強まる 言論や実際行動によって人を救い、世を明るくする努力は信仰者でなくてもできます。そうした表面に現れる努力の底に、祈りの力、心霊の力が加わってこそ、信仰者と言えるのです。その意味で、(心の力=念力)を強めることはやはり大切なのです。 それならば、心の力を強めるにはどうしたらいいのか。行(ぎょう)よりほかに方法はありません。 無心になって唱題する。読経三昧に入る。さらに進んでは、水垢離をとる。滝に打たれる。あるいは、端坐して一心に仏を念ずる、そうした行を積めば積むほど、念力というものは強まっていくものです。 むかしから、聖者と言われる人は今で言う超能力者でした。お釈迦さまも、イエス・キリストもそうでした。しかし、一般の信仰者はそこまで行かなくてもいいのです。ただ、心の力を少しでも強くし、人を幸せにしてあげたいという祈りが相手に通じ、相手を動かすことができるように努力することは、大乗の信仰者としては不可欠の条件でありましょう。(つづく) ガンダーラ仏 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる35
【機関紙誌】
虫にも植物にも心は通ずる
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