人間釈尊(10)
立正佼成会会長 庭野日敬
心に誓った無上の悟り
出城、歴史的瞬間!
夜の深い闇に閉ざされたカピラバスト城は、警備の兵士さえ寝静まり、物音ひとつしません。空には無数の星がきらめき、南十字星が空低く斜めにかかっています。
中庭には、ひそかに命を受けた馬手のチャンダカが、太子の愛馬カンタカを引いて待っていました。
スラリと背が高く色白の美丈夫シッダールタ太子は、軽やかなカーシー産の衣服を着け、胸には瓔珞(ようらく)、腕には宝石をちりばめた腕環をはめた、凛々しい王子の姿のままです。
無言で深く頭を下げるチャンダカに、黙ってうなずいた太子は、ひらりと愛馬にうちまたがります。チャンダカに手綱を引かれた白馬カンタカは静かに歩み始めました。
父王の命令で固く閉ざしてあった城門も音なく開き、昼夜の別なく警戒していた兵士たちに発見されることもなく――仏伝によれば、天上から下ってきた神々のはからいによったとされている――太子は城外に出ました。そのとき心のうちに固く誓ったといいます。
「無上の悟りを得ないうちは、二度とこの門をくぐらない」と。
まことに歴史的な一瞬でした。この瞬間から世界の精神世界に大きな変革がきざしたのです。そして、二十世紀末の今日、地球と人類の危機を救うただ一つの道といわれる正法の芽が、この城門を出る一歩から萌(も)えはじめたのだ……と思うとき、いまさらのようにその瞬間の尊さに深い感慨を覚えざるを得ません。
ただ一人東方をさして
夜のしらじら明けに、マイネーヤという所に着きました。ここで太子は身につけていた装身具をすべて取り外し、その一つの摩尼珠(まにしゅ)をチャンダカに渡し、これを大王に差し上げるように命じました。そして、
「大王にこう申し上げてほしい。『わたしは世間的な欲望はなく、天国へ生まれたいとも思いません。一切衆生が正しい生き方を知らず、生死輪廻(しょうじりんね)に苦しんでいるのを見て、それを救うために出家するのです。志を遂げるまでは再び帰ることはございません』と」
そして、瓔珞や腕環などの装身具は、義母マハープラジャーパティとヤショーダラー妃に渡すようにと命じました。
チャンダカに対しては、兄のような優しみを込めて、
「よくやってくれたね。お前のおかげで、わたしの年来の望みがかなえられた。ほんとうにありがとう」
と礼を言い、冠につけてあったひときわ光り輝く宝石を手渡して、
「さあ、これを取っておくがよい。これをわたしと思い、いつもわたしが傍らについていると思って安らかに暮らすのだよ」
と、温かい言葉をかけるのでした。
チャンダカは、ただただ涙に暮れるばかりでしたが、ふと、自分が太子の出城の手引きをしたことを責める気持ちが起こり、
「ご主人さま、大王や皆さまのお嘆きを思いますと、わたくしは川の泥の中に沈んでいくような思いでございます。もう一度考え直してお帰りになっては……」
と申し上げましたが、それが徒労であったことは言うまでもありません。太子は自ら剣を抜いて、まげに結っていた黒髪をバッサリと切り落とし、ただ一人朝日のさす東のほうへ林を抜けスタスタと歩み去って行ったのでした。
じつに颯爽とした姿でした。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
心に誓った無上の悟り
出城、歴史的瞬間!
夜の深い闇に閉ざされたカピラバスト城は、警備の兵士さえ寝静まり、物音ひとつしません。空には無数の星がきらめき、南十字星が空低く斜めにかかっています。
中庭には、ひそかに命を受けた馬手のチャンダカが、太子の愛馬カンタカを引いて待っていました。
スラリと背が高く色白の美丈夫シッダールタ太子は、軽やかなカーシー産の衣服を着け、胸には瓔珞(ようらく)、腕には宝石をちりばめた腕環をはめた、凛々しい王子の姿のままです。
無言で深く頭を下げるチャンダカに、黙ってうなずいた太子は、ひらりと愛馬にうちまたがります。チャンダカに手綱を引かれた白馬カンタカは静かに歩み始めました。
父王の命令で固く閉ざしてあった城門も音なく開き、昼夜の別なく警戒していた兵士たちに発見されることもなく――仏伝によれば、天上から下ってきた神々のはからいによったとされている――太子は城外に出ました。そのとき心のうちに固く誓ったといいます。
「無上の悟りを得ないうちは、二度とこの門をくぐらない」と。
まことに歴史的な一瞬でした。この瞬間から世界の精神世界に大きな変革がきざしたのです。そして、二十世紀末の今日、地球と人類の危機を救うただ一つの道といわれる正法の芽が、この城門を出る一歩から萌(も)えはじめたのだ……と思うとき、いまさらのようにその瞬間の尊さに深い感慨を覚えざるを得ません。
ただ一人東方をさして
夜のしらじら明けに、マイネーヤという所に着きました。ここで太子は身につけていた装身具をすべて取り外し、その一つの摩尼珠(まにしゅ)をチャンダカに渡し、これを大王に差し上げるように命じました。そして、
「大王にこう申し上げてほしい。『わたしは世間的な欲望はなく、天国へ生まれたいとも思いません。一切衆生が正しい生き方を知らず、生死輪廻(しょうじりんね)に苦しんでいるのを見て、それを救うために出家するのです。志を遂げるまでは再び帰ることはございません』と」
そして、瓔珞や腕環などの装身具は、義母マハープラジャーパティとヤショーダラー妃に渡すようにと命じました。
チャンダカに対しては、兄のような優しみを込めて、
「よくやってくれたね。お前のおかげで、わたしの年来の望みがかなえられた。ほんとうにありがとう」
と礼を言い、冠につけてあったひときわ光り輝く宝石を手渡して、
「さあ、これを取っておくがよい。これをわたしと思い、いつもわたしが傍らについていると思って安らかに暮らすのだよ」
と、温かい言葉をかけるのでした。
チャンダカは、ただただ涙に暮れるばかりでしたが、ふと、自分が太子の出城の手引きをしたことを責める気持ちが起こり、
「ご主人さま、大王や皆さまのお嘆きを思いますと、わたくしは川の泥の中に沈んでいくような思いでございます。もう一度考え直してお帰りになっては……」
と申し上げましたが、それが徒労であったことは言うまでもありません。太子は自ら剣を抜いて、まげに結っていた黒髪をバッサリと切り落とし、ただ一人朝日のさす東のほうへ林を抜けスタスタと歩み去って行ったのでした。
じつに颯爽とした姿でした。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎