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人間釈尊(2)
立正佼成会会長 庭野日敬

太子に影響与えた実母の死

カピラバスト国とは

 お釈迦さまのお人柄をしのぶためには、やはりそのお生まれになった土地、お育ちになった環境を知っておくことが必要でしょう。
 お生まれになったカピラバストは、インドの北部にあり、いまはネパール領内に入ってしまいましたが、肥沃(ひよく)な平原が広がり、北には一年中清らかな雪をいただくヒマラヤの峰々を望む、気候温和なところです。
 父親が浄飯王(じょうぼんのう)その兄弟が白飯、斛飯(こくばん)、甘露飯と、その名に(飯)と字がついていることでわかるように、米作が盛んな国で、釈迦族は比較的豊かな暮らしの農耕民族でした。
 また、中村元博士の《ゴータマ・ブッダ》(中村元選集・第四巻)に、((釈迦族が富んでいたのには)その外に、この地方はガンジス河平原の諸国と山地とを媒介するのに都合のよい土地であり、確かに商業的な利点が与(あずか)って力があったに違いない)と書かれていることにも注目すべきでしょう。
 こう見てきますと、カピラバスト国は現在の日本に似かよったところがあるようで、不思議な親近感を覚えざるを得ません。似かよったところは、まだまだあります。
 その国は、いわゆる専制王国ではなく、最高執政官による一種の共和制がしかれ、民主的な色彩の濃い国でした。首都のカピラバストには当時としては珍しい公会堂があり、前記の《ゴータマ・ブッダ》にはこんな記述があります。
 (たまたま一人のバラモンがそこ(公会堂)に至ったところ、そこでは数多の釈迦族の諸王と諸王子が高い座に坐してめいめいくすぐり、笑いさざめき、戯れていたので、そのバラモンは自分を嘲笑したのだと解した。(中略)このように釈迦族の雰囲気は全体として自由主義的であり、当時としては進歩的改革的であった。このような精神的雰囲気のなかから仏教が出現したのである)

誇り高き国の太子として

 カピラバストはそのような比較的豊かで暮らしやすい国でしたが、なにしろ小さな国で、東にマガダ国、西にコーサラ国という当時のインド亜大陸の二強国に挟まれており、当時のインドでもやはり、何かといえば兵を出して他国を侵略したり合併したりしていましたから、カピラバストはつねにそういった対外的な不安をかかえていたのでした。
それにもかかわらず釈迦族は、民族的な誇りを高く持ち、頭がよくて勇気もあり、周囲からはむしろ傲慢(ごうまん)とさえ見られていたのです。
 そのような国の王スッドーダナ(浄飯王)とその妃マーヤー(摩耶)夫人との間に、長い間待望していた王子が生まれました。父王はたいへんに喜び、シッダールタと命名しました。シッダールタというのは(すべての望みを成就するもの)という意味で、のちに中国では悉達多(しっだった)という字を当てました。よく意を尽くした音写です。
 ところが、生母のマーヤー夫人は、産後の経過がよくなかったのでしょう、わずか七日後に亡くなられました。それで夫人の妹のマハー・プラジャーパティー(摩訶波闍波提=まかはじゃはだい=後に女人として一番目の仏弟子になった人)が王の後妻となり、太子を養育することになりました。実母と少しも変わらない愛情を注いで育てましたので、太子は何不自由なく成長しました。
 しかし、実母を失ったのはなんといっても寂しいことだったに違いありません。このことは太子のその後の歩みに大きな影響を与えたようであります。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎

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