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人間釈尊(1)
立正佼成会会長 庭野日敬

師の生き方の現実に学ぶ

 はじめに

仏伝を学ぶことの意義

 仏教の開祖釈迦牟尼世尊を、後世の仏伝作者たちはあまりにも神格化したきらいがあります。
 それぐらいお釈迦さまが偉大だったからでしょうけれども、しかし、神格化してしまうと、われわれとお釈迦さまとの間の距離がますます開いてしまいます。とてもついて行けない存在だと思いこんでしまいます。それではかえってお釈迦さまのご本意にそむくことになりましょう。
 お釈迦さまは、「衆生を我れと等しからしめんがために法を説く」とおっしゃっておられます。すべての人間が自分と同じように、この世の実相を見極めて、苦の中にありながら苦を超えて、自由自在な、本当の意味で幸せな人間になってほしい……というのがその本願なのです。
 そういう本願のために法をお説きになったのであり、われわれ衆生としては、その教えを学び、教えの通りを実践していくことがもちろん第一の道ですけれども、師と弟子との関係というものにはもう一つ大切な要素があります。それは(師の生き方の現実に学ぶ)ということです。理論でもなく、教説でもなく、師の日常生活における言葉の端(はし)々、身の振る舞いの一つ一つから、直接的な感化を受けることです。
 学ぶというのは(まねぶ)から起こった語だといわれています。真似をすることです。子が親の真似をする。弟子が師の真似をする、それが学ぶことの原意であり、これこそが修行とか教化とかの原点であると言っていいでしょう。いま教育の荒廃が大問題となっていますが、その最も大きな原因は、(生徒が教師にまねぶ)という(学ぶ)の原点が、ある意味では消滅し、ある意味では大きく歪(ゆが)んでしまっているところにあると、私は考えているものです。
 さて、われわれ仏教徒にとって最大の師であるお釈迦さまは二千五百余年も前にこの世を去られ、われわれの眼前にはいらっしゃいません。従って、(師の生き方の現実に学ぶ)ためには、すなわち師の日常生活における一言一行から直接的な感化を受けるためには、どうしても仏伝を読むよりほかに道はないのです。それが、いま改めてこの稿を起こす理由にほかなりません。

人間であられた釈尊を

 幸いなことに、お釈迦さまは実在の人物でした。そして、二十九歳で出家なさるまでは世俗の人間としてお暮らしになりました。結婚もされ、子供もお持ちになりました。仏陀となられたのも、ある日突然、神がかりになって天の啓示を受けられたなどというのでなく、自らの瞑想により、思索により、つまり自らの努力によって覚りをひらかれたのです。
 そして仏陀となられてからも、やはり一人の人間として、あらゆる困難に耐えて辛抱強く布教の旅を続け一人の人間としてすべての人に細(こま)やかな愛情を傾け、現実の迷いから救い、幸福へと導いていかれたのでした。
 このことが後世のわれわれにとって何よりの救いです。お釈迦さまが人間であられたこと、そのことが、はるかに矮小(わいしょう)ではあるけれども、同じく人間であるわれわれにとって、大いなる励ましなのです。
 そういう意味合いをもって、仏陀となられる前も人間であり、仏陀となられた後も人間であられたお釈迦さまのご一生の足跡を、人間らしい懐かしさをこめて、これからたどっていくことにいたしましょう。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎

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