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経典のことば(7)
立正佼成会会長 庭野日敬

池の中に蓮華あり、大きさ車輪のごとし。青色には青光あり、黄色には黄光あり、赤色には赤光あり、白色には白光あり、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。
(仏説阿弥陀経)

聖者は浄土を目前に見る

 これは、釈尊が、阿弥陀如来のおられる極楽浄土のありさまをお説きになった一節です。
 法華経にも、たとえば舎利弗が仏となったとき住する国土を「地面は瑠璃でしきつめられ、道の両側は金のなわで縁どられ、七宝で飾られた並木がつらなり、その木にはいつも美しい花が咲き、ゆたかな果実がみのっているであろう」と、予言されています。
 また、同じ法華経の如来寿量品には、「衆生の目から見れば、この地球が現在の状態で存在する時代が終わって世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時も、仏の国土は安穏であって、天人や人間が楽しく暮らしている。美しい花園、静かな林、りっぱな建物、それらは光り輝く宝玉によって飾られている。木々には花が咲きみだれ、実が豊かにみのっている」と述べられています。
 お釈迦さまだけでなく、たとえば聖書の≪ヨハネの黙示録≫には「それから彼(天使)はわたしを霊において大きな高山の上につれて行き、聖なる町エルサレムが天から、神のところから、神の栄光をたずさえて下ってくるのを示した。その町の輝きは非常に高価な宝石のようであり、結晶した碧玉のように光っていた……川の両側には十二種の実のなる生命の木があって、月ごとに一つずつ実をつけていた」(佐竹明訳)とあります。
 これらがあまりにも似かよっているのを見ますと、たんなる想像ではなく、すぐれた聖者のみが持つ神通力(超能力)で、霊の世界・四次元の世界が手に取るように見通されているのだろうと考えざるをえません。

我々も心の輝きを持とう

 霊の世界とか四次元の世界とは、死んでからおもむく所とはかぎらず現実の世界と重なりあって存在するものです。したがって、浄土というものは、われわれの心がそれにふさわしいまでに澄みきわまれば、生きながらにしてそこに住むことができるのです。
 経典の中に実相の世界や極楽浄土の美しいありさまを述べてあるのも、日ごと煩悩の泥水にまみれながら暮らしているわれわれを、ひとときそのような世界に遊ばせ、一歩でもそうした世界に近づけさせようというおはからいだと思うのです。そのような心理効果は大いにあるからです。
 ですから、経典のそのようなくだりを読むときは、絵そらごとだという批判めいた気持ちを起こしたり、夢の世界のように軽い見方をすることなく、目の前にまざまざとそのような風光が展開しているのだという気持ちで、魂ごと吸い込まれるように読んで欲しいものです。
 さて、ここにある極楽の池の蓮の花々は、理想社会のさまざまな人間の心のありようを象徴していると考えるべきでしょう。その人の個性によって心の相(すがた)はさまざまであるが、青色(しょうしき)には青光あり、黄色(おうしき)には黄光あり、赤色(しゃくしき)には赤光あり、白色(びゃくしき)には白光あり、すべてがいいようもなく香り高く清らかである(微妙香潔)というのです。
 真の芸術家・真の学者・真の実業家・真の技能者・真の労働者、それぞれの心からはそれぞれ違った美しい光を発している。しかし、色と光はそれぞれ違っても、すべてが同じようにたとえようもない香気と清らかさを持っている……これが人間世界の理想の姿でありましょう。
 これからは「心の時代」だといわれています。お互いさま、このような境地を胸に描きながら日々を送りたいものです。
題字と絵 難波淳郎


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