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経典のことば(6)
立正佼成会会長 庭野日敬

人、世間愛欲の中に在りて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。
(仏説無量寿経・下)

逆境の人こそこの句を

 あなたはいま十分にお幸せですか。生計の心配はなく、家庭は円満で、お子さんたちは素直にすくすくと育っていらっしゃいますか。そういう方は、この一文をお読みになる必要はないでしょう。
 いや、しかし、やはり読んでいただきましょう。人生に波乱はつきもので、一生のあいだずっとそんな状態にいられるとは限りませんから。
 ましてや、あなたがいま失意の状態にあり、あるいはどうにもならぬような逆境にあって、これまで親しくしていた人からは背を向けられ、なんともいえぬ孤独感にさいなまれておられるとしたら、ぜひこの一句をしっかりと味わっていただきたいと思います。
 ギリギリのところ、人間は独りで生まれ、独りで死ぬのだ……このきびしい真実を、一見非情とも感じられる口調で喝破しておられることに、あなたはかえって大きな励ましを覚えませんか。
 まだ胸中に残っている周囲への甘い依頼心がキリリと引き締められ、落ち込んでしまいがちな気持ちから一種のひらき直った諦念へと立ち上がる思いを覚えませんか。
 この一文は人間の究極の孤独をえぐり出していますけれども、この真実に徹しきれば、かえって孤独感を超越し、ひろびろとした自由の天地が開けるように思うのですが、どうでしょうか。
 これを浅く読めば、「この世は万人万物の持ちつ持たれつで成立しているのだ」という仏教の世界観と矛盾するようですけれども、そうではありません。お釈迦さまは、そうした世界の中にあっても、他の人びとや社会に対して甘ったれた依存心を持ってはいけないことを常に戒められていました。
 「自らを灯明として生きよ。法(真理)を灯明として生きよ」という自灯明・法灯明の教えは有名です。
 スッタニパータにも次の名句を残しておられます。
  音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀(さい)の角のように、ただ独り歩め……と。

代わってくれる人はない

 さて、前掲の句に続いて「行いを当(お)いて苦楽の地に至り趣く。身自ら之を当(う)く。代る者有ることなし」と説かれています。
 独りで生まれ、独りで死に、独りであの世へ行く(独り来る)。どういうあの世へ行くのか、苦の世界か、楽の世界か、それも自分自身が決めるのだ。生前の心ざまや行いがそれを決めるのだ。そして、だれも代わりに行ってくれる人はいない……というのです。
 これまたじつにきびしい、容赦のないことばですが、まさにそのとおりです。
 自分の蒔(ま)いた種は自分で刈り取らねばならぬ。これが仏教の説く因果応報の理なのです。独生・独死・独去・独来……なにか寂しい気のする人もありましょうが、この真実には素直に従わねばなりますまい。
 己(おの)が食(は)む秣(まぐさ)を負うて夏野かな  許六
 人間の一生も、そしてその死後も、この馬と同じなのです。
題字と絵 難波淳郎

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