仏教者のことば(70)
立正佼成会会長 庭野日敬
合掌。私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。
昭和八年九月二十一日
臨終の日に於て
宮沢賢治・日本
子に改宗させられた父
これは宮沢賢治の遺言状です。父の政次郎氏に花巻の方言で口述したのを、政次郎氏が文章にしたものです。
賢治は二十歳のとき、島地大等師の国訳法華経を読んで、身震いするような感動を覚え、それからの一生を法華経の世界観・人間観に忠実に生きようと努力し、見事にそれを貫いた人でした。
父政次郎氏は立派な人物で、浄土真宗の熱心な信者でしたが、賢治はこの父を法華経の教えに改宗させようとして、夜どおし大激論を交わしたこともありました。父はなかなか承知しませんでしたが、いつしか法華経に引かれるようになり、心の中では改宗していたもののようです。
この遺言口述の前後のありさまについて、盛岡市史編纂委員で賢治の研究家でもある森荘己池氏が書かれた『賢治と法華経の関係』という文章により、要約して述べてみましょう。
その美しい臨終
二十一日の午前十一時半、二階の賢治の寝ている部屋から、力強い唱題の声が聞こえてきました。家中の人びとがハッとして、急いで階段を上がってみますと、賢治は床の上に端座して合掌し、「南無妙法蓮華経」と繰り返し唱えていたのでした。父も、母も、弟も、妹も、いよいよいけないな……と思いました。
父は賢治に、「賢治、今になって何の迷いもないだろうな」と呼びかけました。賢治は、「もう決まっております」と、きっぱり答えました。「何か、言い残したいことはないか、書くから……だれかすずり箱を持ってくるように……」と父が言えば、母は「いま急いでそんなことをしなくても……」と止めようとしました。「いいや、そんなものではない」と父は決然と言い、すずり箱を持って来させました。
巻き紙と筆を持った父に、賢治は静かにゆっくりと、「国訳の法華経を千部印刷して、知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。本の表紙は赤に――。お経のうしろに、『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにお届けすることでした。あなたが、仏さまの心にふれて、この世で最高の正しい道に入られますように』ということを書いて下さい」と、花巻弁で言いました。
父は、そのことばを前掲のような文章にし、読んで聞かせると、「それでけっこうです」と賢治は答えました。
父は、「戸棚の中のあのたくさんの原稿は、どうするつもりか」と尋ねました。賢治は、「あれは、みんな、迷いのあとですから、よいようにして下さい」と答えました。すると父は「おまえのことは、いままで、一ぺんもほめたことがなかった。こんどだけは、ほめよう、立派だ」と言いました。
賢治は、あとで弟の清六氏に「お父さんに、とうとうほめられた」とうれしそうに言ったそうです。そのしばらく後に、賢治は安らかに息を引き取ったのでした。
わたしは、賢治の書いたたくさんの原稿が「迷いのあと」であるとはけっして思いません。とくにあの「雨ニモマケズ」の詩が、どれぐらい多くの人に深い感銘を与えたか……それはじつに計り知れないものがあると思います。それにしても、この遺言状はまた尊いものです。まことに法華経を生き抜いた人にふさわしいものでした。(なお、その遺言は父の手でりっぱに果たされました)
題字 田岡正堂