仏教者のことば(26)
立正佼成会会長 庭野日敬
畏れとは、人間を越えたもの、絶対者――神や仏――に対する畏怖心。一方、水、空気、光に対する畏敬の感情です。近代化はこの畏れをなくする方向に進んだ。ドイツの哲学者ニーチェによって、「神は死んだ」と言われたわけです。
東昇・日本(人間が人間になるために)
人間の傲慢さへの反省
東昇(ひがし・のぼる)元京都大学教授(故人)は、日本ウイルス学会会長、日本電子顕微鏡学会会長として、著名な学者でした。若い時に『歎異抄』を読んだことから、深く仏教に帰依し、科学者でありながら、「真の生命は肉体が滅びたあとにある」と言明してはばからぬ人でした。
現代の危機は、人間が人間自らを絶対化し人間以上の存在との関係を見失ったところにあるとし、もっと自然を知ること、自然を大切にすること、「畏れ」の感情を取り戻すことが急務である――と常に強調し、「人間が人間を過信し、傲慢な優越感にとらわれぬこと。換言すれば、人間のもろさに対する想像力を持つこと」という名言をも残しておられます。
まことに、最近の人類は、水や空気の汚染、地球の砂漠化、異常気象等々によって、人間の傲慢さを反省し、人間のもろさを痛感するようになっているのです。
「修慧」が何より大切
古代の日本人は自然と密着して生活していましたので、自然を畏敬する感情を十分に持っていました。木にも神が宿り、水にも神があり、太陽も神であると信じていました。現代人にそんなことを言えば鼻で笑うかもしれませんが、それならば、神という言葉をいのちという言葉に置き換えれば、とたんにそのせせら笑いも消えてしまうでしょう。心ある人ならだれでも、水にもいのちがあり、空気にもいのちがあり、太陽の光もいのちの源であることを信じて疑わないでしょう。
ですから、いまの大人(おとな)たちの間には、自然を大切にしようというキャンペーンが起こりつつあります。嬉しいことです。しかし、その精神を自分自身の暮らしの上に、どれぐらい実践しているかということになると、大きな疑問が残るのです。
仏教では三慧(さんえ)ということを教えています。第一は聞慧(もんえ)。聞いて得る智慧、学んで得る智慧です。第二は思慧(しえ)。自分で考え、思索して得る智慧です。第三は修慧(しゅえ)。これは自ら実践してみて初めて身につく智慧のことです。現代人はたいてい教養が高くなっていますので、聞慧と思慧の点ではある程度信頼できます。しかし、第三の修慧となると、どうも心もとない気がしてなりません。
いちばん心配になるのは、次の世代を担う子供たちのことです。水は蛇口をひねれば出るもの、光はスイッチを回せばつくものと、万事そういう育ち方をしていて、すべてのものに存在するいのちを畏敬する心が養えるでしょうか。ましてや、いのちの根源である絶対者に対する畏敬の念を持つ、人間らしい人間に育つものでしょうか。
二十年前の旧著『無限への旅』にも書いたように、都会の子供には田舎の生活を経験させるのが最も大切な教育だというのがわたしの持論です。そういう田舎を持たない人はキャンプにでも連れていくといいでしょう。水は谷川まで汲みに行かねばならない。火は木々が落とした枯れ枝で起こさねばならないとなると、否が応でも自然の大切さが身にしみるはずです。そこから、目に見えぬ絶対なものに対する畏敬の念も生じてくるでしょう。これが修慧にほかならないのです。
題字 田岡正堂